第3話

 数年が経った。

 この年、今度は叔孫僑如しゅくそんきょうじょせいに亡命した。政権争いに巻き込まれたためだ。叔孫豹しゅくそんひょうった兄が亡命する羽目になったのである。

 そのことを知った叔孫豹は従者に食事を持たせ、兄と面会した。

「お元気そうで何よりです。道中はさぞかしご苦労なさったでしょう」

 僑如は弟の皮肉に顔をしかめつつも、平静を装って頷いた。激高した姿を見せるのは口惜しい。

「我が叔孫氏には、先祖代々の功がある。今、私は罪を得て国を離れたが、君は必ず我が家の勲功をお忘れにならず、家を残そうとお考えになるだろう」

「ありがたいことです。我らも先祖に顔向けができます」

 涼しい顔で言う弟の顔を僑如はにらみつけた。大きく息を吐き出し、気を落ち着けて言葉を続ける。

「そのためには必ず、お前を呼び戻すだろう。呼ばれたらお前は、どうする?」

 果たして弟はなんと答えるであろうか? 目を細め、顔色を窺う。

 しかし弟は、

「それは願ってもないこと。私は以前から、それを望んでいたのです」

 と、一切の躊躇も示すことなくはっきりと答えた。かすかに、笑みさえ浮かべて。

「そうか。ならば、好きにするがいい」

 不快さを隠さずに僑如が言うと、弟は慇懃に頭を下げて退出した。

 僑如の予想通り、まもなくして叔孫豹を呼び戻すための使者が、魯からやって来た。

「さぁ、急ぎ戻るぞ」

 魯に帰れば、自分が叔孫家の当主となる。僑如が亡命することになってしまった今、けっして自家の置かれた状況は楽観できるものではない。が、他国に身を寄せる事に比べれば。

「豹は、もう帰途についたのか」

 僑如は感情を押し殺し呟いた。その顔色は土気色で、暗い。

 弟は、兄に一言の挨拶も無しに帰国してしまったのだ。

「豹よ、確かに我らは仲違いしていた。しかしそれは魯がどうあるべきか、叔孫家を保つためにはどうするべきかという考えが異なっていたからだ。私怨ではない。私は今でも、自分の考えが誤っていたとは思わぬから、詫びはせぬ」

 僑如は遠く、祖国に目を向け、呻いた。

「だが、それにしてもなんじのその行いはどうだ。確かに汝には才知があろうが、そのようでは……」


 ぎゅうは大きくなった。

 顔立ちに幼さは残すものの、背はさらに高くなり、たくましい体つきになった。その成長を母親はにこやかに見つめ、牛は自分がたくましく育つことが母の喜びになっているかと思うと、嬉しかった。

 その母が、いつにも増して眉宇に明るさを表し、牛に告げた。

「牛や、出かける支度をなさい。あぁ、その雉を持っていきましょう」

「出かけるとは、何事ですか?」

 野から戻ってきた牛は、荷を降ろしながら訝しげに母親を見つめ返した。母の表情が明るいのは喜ぶべき事だが、今日の場合、明るすぎることがかえって、不安であった。

 不安は的中した。

「お会いしに行くのです、お前の父上に。父上は魯に戻られ、叔孫氏の当主となられたのですよ」

「戻ってきたのですか? その……父上が」

 牛は母親の真意を測りかねるように、首を傾げる。なぜ今頃になって、会いに行こうとするのか。

 そもそも、次卿の地位に治まったというこの時期に会いに行こうというのは、まるで地位をねだるようで乗り気になれない。

 が、母の表情があまりに晴れやかで嬉しそうなので、牛はそのことを口にできなかった。このような表情を見せる母が、そんな浅ましい考えであるはずはない。

 今でもその男への愛情があるのか……そうでなければ、自分のためだろう。牛はそのように解釈した。牛という「子」の存在を知らせておきたいのだろう。子と認められなくとも、目をかけてはもらえるかもしれない。

 牛にしてみれば、それは嬉しいどころかまったく気の進まないことであるのだが。せっかくの母の笑顔が消えてしまうことは耐え難く、

「わかりました。参りましょう」

 と、ともに都である曲阜へと向かった。

庚宗こうそうの女……?」

 話を聞いた叔孫豹は、しばし視線を中に泳がせた。

「はい。主が斉に向かわれる折り、一夜の宿を提供したとのことです」

 傍らの、杜洩とせつが付け加えた。この男は叔孫豹の側近で、叔孫豹が亡命した際にも付き従っていた忠実な臣だ。

 杜洩に言われた叔孫豹は、はた、と手を打った。

「おぉ、そういえば。思い出したぞ、我らに食事を振る舞ってくれた。よし、通せ」

 叔孫豹の前に通された牛の母は、

「無事、魯に戻られ、なによりでございます。私に献上できる物と言えば雉くらいしかありませんが、お納めください」

 と、喜色を隠すことなく頭を垂れた。

「おぉ。あのときは世話になった。心細い旅の途中で味わった食事は、実に温かかった」

 叔孫豹はしみじみと語った。亡命の不安と辛苦を思い出したのであろう。はたしてその中に、牛の母への激しい感情が含まれていたかどうかはわからない。

 牛の母の表情は穏やかで、期待が裏切られたという落胆はない。ただ叔孫豹の無事を祝った。

 当たり障りのない会話がしばし続いた後、牛の母は、

「息子がおります」

 と口にした。

 叔孫豹の動きが止まった。すぐに応えることができなかった。

 しばしの後、

「子の様子はどうか」

 と、短く問うた。誰の、とは問わなかった。

「大きくなりました。雉を捧げて自分についてこられるような歳になりました」

「ここに連れてきているのか」

 叔孫豹は、わずかに驚きを見せた。

「……会おう。連れて参れ」

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