第2話

 母から父親のことを聞かされて以来、ぎゅうはめっきり口数が少なくなった。

 仲間の輪に加わることも少なくなり、父親のことをからかわれても反駁しなくなった。子供達は豹変した牛の姿を薄気味悪がったが、そのうち牛にかまわなくなった。

 牛は約束通り、誰にも母から聞いた事を話さなかった。

 しかし結局、もう一つの誓いは守れなかった。

 仲間達に反駁しなかったのは、父がいかなる人物かを知って安心し、納得したわけではない。ましてや、「俺の父親は貴人だぞ」と優越感を感じたからでは決して、ない。

 これまでは周りの人間に……幾分かは母に対して向かっていた憤りは、そのまま父だという男に向けられていた。

 父。人が人から生まれる以上、仕方がない。しかし決して、牛はそれを父などと呼びたくない。

 その男がどのような想いで母を求め、また母はどのような想いで通りすがっただけの亡命貴族に身をゆだねたのか。幼い牛に男女の機微などというものが分かるはずもない。牛が感じたのは、「母は捨てられたのではないか」という事だった。

 そうでなければ、なぜ叔孫豹しゅくそんひょうという男は母を招かないのか?

 さりげなく祖父に聞いてみたところ、叔孫豹はその後、無事にせいに受け入れられたそうだ。

 危難の中にあるならば、母を迎える余裕などないであろう。それが牛らを気遣ってのことならばさらに、情愛を感じることができる。

 しかしながら、もはや叔孫豹は明日さえ危うい運命の人ではない。

 ならばどうして、母を迎えにこないのか?

 貴族の子になりたいという欲があるわけではない。子として迎えろなどとは言わない。自分はよい。

 ただ、このむらで毎日、憂いを含んだ表情をしている母を、どうして招いてくれないのか? 母の憂いは、父からあまりに離れている寂しさなのではないだろうか。

 身分はあまりにも違う。招くことは出来ずとも、せめて便りをよこすことくらいはできるではないか。

 母のことは、旅の土煙と同じく彼方に飛び去ってしまったのか? 戯れでしか、なかったのか?

 牛は無口になっていった。


 牛はその日、雉を捕るために野にいた。

 牛のように一人で野に出る者は、同じ年の子供には誰もいなかった。しかし、邑の中で彼らと一緒になったり、また家にいて事情を知る祖父母と顔を合わすことが煩わしかった牛は、しばしば野に出るようになった。

 母とさえ、顔を合わせづらかった。怒りとも悲しみともつかぬ、もしかすれば恨みがましい感情がわき上がってしまうのである。それが何とも申し訳なく、また悟られることが恐ろしかった。

 その後ろめたさを隠しつつ、牛は出来る限り快活な表情を残して家を出た。

 ひとりで野にいると、その間に様々なことを考えて心を落ち着かせることができる。牛がいつも穏やかな表情で邑に帰ってくるので、祖父母や母も胸をなで下ろし、あえて野に出ることに異を唱えなかった。

 そうした日々が続くうちに、獲物を捕らえる腕前も見る見るうちに上達していった。それは余録のようなものではあったが、気分はいい。牛が獲物を持ち帰ると、家の中は明るい雰囲気に包まれた。

 しかし今日は、獲物が多かったせいか夢中になりすぎてしまったようだ。今からでは道が暗くなってしまうと思った牛は、今夜はここで夜を明かすことに決めた。なに、初めてのことではない。

 地に寝ころび、いつものように空高くに瞬く星を見上げるうちに、いつしか牛は眠りに落ちていた。

「どこだろう、ここは?」

 気づくと、見知らぬ広野にいた。跳ね起きた牛は慌てて辺りを見渡した。先ほど寝入った野とは、明らかに違う。

 眩い光と轟音に驚いて見上げると、なんと、星が迫ってきている。

 天が、天が落ちてきているではないか!

 牛は、彼方に悲鳴を聞いた。それどころではないのだが、どういうわけか気にかかった。牛が目をこらすと、貴族とおぼしきひとりの男が驚愕の眼差しで天を見上げ、叫んでいる。天は、男を押しつぶさんとしていたのだ。

 男はこちらに気づいたらしく、振り向くと大声で叫んだ。

「牛よ! 我を助けてくれ!」

 その声を聞くか聞かないかのうちに、牛は駆け出した。理由など無い。果たして、落ちてくる天を自らの腕で支えることができるものかどうか。そんな計算も全くない。

 理由も計算も全くないうちに、牛は駆け出していた。

 ――助けなければならない。

 なぜかそう感じていた。どうしてそこまで強く思うのか不思議ではあった。しかし、人から助けを求められておきながら見捨てるほど、薄情ではない。

 牛は、迫り来る天を両腕で受け止めた。凄まじい力が加わる。たまらず、牛は両肩をつけて耐えた。気がつくと、牛の身体は青年のそれに、筋骨たくましい若者のそれに変わっていた。

 不思議に思っている間など無い。牛はさらに全身に力を込め、天を支えた。そして、押し戻そうとした。

 両足を広げて立ち、腰で踏ん張り、両肩に力を込めて。渾身の力を込めて大きく両腕を突き出すと、ついに天を押しのけることができた。全身の力を使い果たした牛は、大きく息をついて崩れるように座り込んだ。

 倒れ込んでいた男はほっと一息つきながら、

「助かった」

 と、牛の顔を見た。

 その瞬間、牛は悟った。理由は分からないが、なぜだか悟った。

 ――この男だ。

 この男こそ、認めたくもない我が父だ。叔孫豹だ。母を捨てた男だ!

 それに気づき、かっと血が上ったところで、目が覚めた。

 見慣れた、いつもの広野である。背丈も元通りだ。

 全身びっしょりと汗に濡れ、体がだるい。夢の中の出来事であるのに、全身疲れ果てていた。なにより、精神が参っていた。

「……助けるのではなかった」

 父と分かっていれば、助けなかった。

 牛は呟くと、まだ月が高いにも関わらず、荷物を手に取ると邑へと歩を向けた。

 実はこの夜、叔孫豹も同じ夢を見ていた。

 とっさに名を叫んだが、叔孫豹にはまったく覚えのない名前、そして容貌である。従者を全員呼び集めてみても、そんな男はいなかった。

 叔孫豹は不思議に思ったが、夢の中に姿を現したからには何事か関わりのある男であろうと思い、

「容貌を記しておけ」

 と、従者に命じた。

 こうして、牛の容貌と名は記録に残され、叔孫豹の記憶の片隅にとどめ置かれることになったのである。

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