夢に見た牛

一条もえる

第1話

 ――なぜ自分には、父がいないのか。

 少年は唇を噛みしめ、家路をとぼとぼと歩いていた。

 戦乱の続く世のこと、父がいないのはこの少年だけに限った話ではない。むらの子供たちにも戦で父を失っている者は少なくないし、流行病で亡くしている者もいる。

 しかし、この少年の父は、どこの誰かも分からない。

 少年の名は、ぎゅうという。

 その顔は浅黒く、肩は大きく前に突きだし、目は落ちくぼんでまるで牡豕のような口をしている。お世辞にも整っているとは言い難い。はっきりと言えば、醜い。

 とはいえ、彼は体躯には恵まれており、土にまみれたその顔立ちは、垢抜けないながらもいかにも実直そうで、大人びた雰囲気を与えていたのだが。

 しかし牛自身はそれに気付いていない。

 その顔を、邑の子供達の間で諍いがあったとき、必ず馬鹿にされる種になってしまうとしか、とらえていなかった。

「醜い。人の顔だろうか」

 と。そして、

「父に似たのか確かめようとしても、どこの誰だか分からないのでは確かめようがない」

 などと続いて言われるのだ。

 牛にしてみれば、この誰に似ているのかも分からない醜い自身の顔は憂鬱のもとでしかなかったのだ。

 ところが実際には、牛が邑の子供らに侮られているかというと、そうではなかったのであるが。

 牛は体格が良いばかりではなく、目端もきく。そのため無視できない、一目置かれる存在ではあったのである。

 頼りとする一方で、やっかむ気持ちもある。その複雑な感情が、「父なし」という弱みに飛びついたのである。

 だから牛はからかわれ、最後にはいつも馬鹿にされて終わる。

 そんなとき、牛は相手に殴りかかる。周りの連中に殴られながらも、最後には相手を殴り倒して泣かせるのだが、それでも牛の心は晴れない。

 こうしてまた、独りとぼとぼと帰るのだ。


「どうして自分には父上がいないのですか」

 家に帰ると、牛は母親にその疑問をぶつけた。初めてのことではない。母も、いつもと同じように牛を抱きしめた。

「人に、父がいないなどということはありません。お父上はいらっしゃいますよ」

 牛にとって家族と呼べる者は、祖父母とこの母親だけである。

 家は決して貧しくない。誰かに仕えているわけではないが、農事に明け暮れるばかりではなく、人を使い、子に教育をほどこすゆとりをこの家は持っている。

 母親からは、邑のほかの女たちとは違う澄んだ香りを感じることが出来た。単なる土臭さとは違った香りである。抱きしめられた牛は母の香りにうっとりした。

 が、今日はあえて、それに反駁するように母を押し戻すと、さらに口を開いた。

「父と母から人が生まれる事くらい、知っています。しかし、どこの誰とも分からぬ者を父と呼べましょうか。それとも、邑の人が言うように誰ともわからぬ者が、父なのですか」

 牛の震える声に、母親は雷鳴に撃たれたように身をすくませ、唇をわななかせた。

 牛は後悔した。よけいなことを口にしてしまった、と。

 嫁に行ったわけでもない娘に、ひとりの子がいる。母親はむしろ、牛よりも露骨に好奇の視線に晒され続けた。母には母の苦悩があったのである。

 牛は聡い。父親のことを口にしたときに母が表情を曇らせることはおろか、すべてではないにせよ、母の置かれた立場に思いを巡らせることが出来た。それゆえに、父親のことには触れぬようにしていたのである。ただ、抱きしめられるに任せていた。

 だが、いつまでこのようなことが続くのか。

 仲間に馬鹿にされることではない。喧嘩になってしまうことではない。母が、たとえ笑顔を見せようとも、どこか寂しそうであることが、だ。

 姿を見たこともない「父親」へぶつけたい感情は、だんだんと強くなっていった。そして今日、ついにそれが吹き出してしまったのである。

 それが、かえって母を悲しませると分かってはいたのに。

 口から放たれた以上、もう元には戻せない。うつむいてしまった牛は、おそるおそる顔を上げた。

 母親は我が子を見つめ返し、そして口を引き結んだ。

 母親は、これまで村人からどれほど胡乱な目で見られようとも、素知らぬふりをしていた。

 しかし、我が子に問いつめられては、そういうわけにはいかない。

 自分はよい。自分がしてきたことのすべてを知り、こうなることも受け入れ、今がある。

 しかし、我が子はそうではない。誕生を父に言祝がれ、その背を見て育ちたいと思うのが当然ではないか。

「……そうですね。知りたいのは当然でしょう。お前もそのくらいの歳にはなりました」

 決心したように、母親は重い口を開いた。

「ただし、約束してください。一つは、このことは口外せぬように。そしてもう一つは、決してお父様を恨まぬように。お父様にも事情があるのです」

「はい。誓います」

「ならば言いましょう」

 母親は目を閉じ、ゆっくりと口を開いた。

「お前のお父様は、隣国のせいにおられます」


 その名を叔孫豹しゅくそんひょう、という。

 叔孫氏は、この国の名門である。

 周王朝を開いた王を武王と言うが、その弟に周公という人物がいた。周公は周王朝の柱石と言ってもよく、武王が王朝を開いて間もなく歿ぼっしてしまうと、まだ幼い成王を助けて摂政を行った。

 周公の子が封じられた国が、このである。その歴史は古く、周王室にとっても縁が深い重要な国であった。

 しかしながら当代、周王室は衰微して久しい。決定的なのは異民族に王都を襲われて王が殺され、都を東に遷さざるをえなくなったことであるが、落日に向かいつつある国に英君は生まれないものなのか、その後も周辺の諸侯といざこざを起こしたり王位を巡っての内紛が起こったりと力を弱める一方で、すでに往事の威勢は見る影もない。時代はむしろ、大国の諸侯を中心に動いていた。

 もっとも、諸侯にも同じ事は言えた。権勢は君主から徐々に大臣に握られるようになり、その意向を無視できなくなっていたのである。

 魯も例外ではない。

 魯にはかつて桓公かんこうという君主がいたが、その子のうち三人が建てた家を、総称して「三桓」と呼ぶ。仲孫ちゅうそん氏、叔孫氏、そして季孫きそん氏の三氏である。その三氏の意向で魯の国は動いていると言ってよく、いまや君主に実権はない。

 その叔孫氏の当代の主を、叔孫僑如しゅくそんきょうじょという。豹は、その弟である。

 兄弟でありながら、この二人の関係は非常に険悪であった。何を言わせても、意見はことごとく対立した。

 仲が悪い、と単純に言ってしまえる問題ではない。叔孫家は魯の次卿……次席の大臣の家なのである。二人の意見の食い違いとは、魯の国策と、そして叔孫家がいかなる立場をとるべきかという認識の違いだったと言っていい。

 対立とは言っても、実際に当主として、次卿として権柄を握っているのは僑如である。

 異論を唱える者をこれ以上放置しては家が割れるもとだ、と兄が考えるに違いないと感じた豹は逃げ、隣国の斉に向かったのである。

 わずかな従者を連れただけの、不安な旅であった。

 背後には兄の追っ手が迫っているかもしれないし、たとえ斉に入れたとしても、家長に逆らった身が受け入れられるかどうかはわからない。斉で受け入れられなければ、その身はどこまで流れていけばよいのか?

 その頼りない旅の途上、叔孫豹は一人の女と出会った。

 そこは庚宗こうそうという邑であった。ちょうど日も暮れ、一夜の宿を頼んだのが、女の家だった。豹が娘に食事を頼むと、彼女はかいがいしく世話をしてくれた。

 貴族である豹の目から見ても、女は美しかった。貴族の娘にはない生き生きとした活力と、爽やかさがあった。それでいて、野卑ではない。娘は学問をしたことがあるに違いなく、備わっている知性が品格を増している。

 その夜、豹は女を求め、そして女はそれに応えた。

 甘い時間はわずかであった。夜が明けると再び、叔孫豹は追っ手に脅えつつ斉を目指す身となるしかなかった。

 見るからに難を逃れようと苦闘している豹に、女は事情を尋ねた。

「あぁ、なんということでしょう」

 豹の過酷な運命に同情してか、女はさめざめと泣きながら、庚宗を発つ貴人を見送ったのであった。

 その女こそが、牛の母である。

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