終章 碧空に燕舞う

 エルダーで頼んだ品物が揃ってからというもの、毎朝起床とともにそれらの確認をするのがリタの日課になっていた。

 それが数回続いた日のこと。掃除中のリタを見つけたペトロが手招きをしているのに気がついた。近くまでたどり着くとペトロが作業の監視員に向き直り書類を手渡しているところだった。

「では、彼女はこちらで預かります」

 こちらに気づいた監視員にまじまじと見つめられる。意図が読めず小首を傾げて見せると目元が僅かに和んだ。

 ペトロが持ってきた書状の確認が済んだ監視員が一礼する。

「確認しました」

 ついてくるように視線で指示されペトロの背中を追う。そのままリタの部屋までやってきた。と、いう事はだ。

「準備しておいで」

 出発の日が来たのだ。

 退院後に面会に来ることもなく、ペトロに託した手紙も返事がないままだったのだ。久し振りにエンに会える。元気にしているだろうか。

「すぐに支度します!」

 すぐさま部屋に駆け込み、リタは装備を整える。荷物は毎朝確認を行っていた。作業着を脱いで長旅用の衣装を着込む。

 ちなみに虎賂会で使っていたガントレットや武器の類は証拠品として必要らしく、保安員の予備が数点と現地調達が求められた。愛用の武器を接収されたのは痛手だが、支給されたものは手入れが行き届いていた。それにいつまでも虎賂会にいた時のことを引きずる訳にはいかない。

 ペトロと合流すると公用車に乗り込み領事局へ向かう。

 地に足がつかないとはこういうことを言うのだろうか。そう感じるほど、リタの足取りは浮き足立っていた。

 エンが案内されたという部屋にリタもたどり着く。ノックをしようと手を上げた時だった。

「こちらから護衛を一人雇っております」

 室内から声が聞こえた。思わず息を飲んで室内の様子を探る。

「いらねぇよ、一人で問題ない」

 エンの声だった。

 びしり、と音をたてるようにリタの瞳が凍った。傍らでその様子を目撃してしまったペトロが慌てる。

「リタちゃ……」

 だが、はいそうですかと引き下がるリタではなかった。ノックのために掲げた手を下ろし、ドアノブに手をかける。

 勢いよく扉を開くとエンと目が合った。

「お前……」

 黒曜石のような深い黒の瞳が驚きで見開かれる。久しぶりのエンの姿に感情が激しく渦巻く。元気にしていただろうか。少し痩せてしまってはいないか。会いたかった。

 それらを押しとどめると、笑顔を貼り付けて取り繕う。

「局長よりエン・ユーストゥス様の護衛の任務を賜りました。どうぞリタとお呼びください。よろしくお願いします」

 一息に言葉を並べて頭を下げる。

 エンは僅かばかり呆気に取られたようで動きを止めていた。やがてペトロの方にリタを指差しながら向き直る。

「断ったらどうなる?」

 水を向けられたペトロが気まずそうにリタを一瞥して肩を竦めた。

「懲役三七年だね」

 三七年は決して短い刑期では無いが虎賂会、そしてジルヴィアとしての働きを思えば情状酌量された方だろう。期間が開けたリタは五五歳。まだまだ人生を楽しむ余地が残された年齢だ。

 気持ちが落ち着いたエンが改めてリタに向き直る。

「出てきた後でうちに来ればいいだろう」

「嫌です!」

「嫌ってお前……」

 リタに引く気は無いようだった。エンの提案を切り捨てた剣幕のままに声を荒らげる。

「港の中でさえ何があるか分からないのに外ですよ!」

「これでも護身術には多少の覚えがある」

 嘘では無いのだろう。確かに彼であれば自分一人の危機を脱するくらいの実力はある。だが、エンが対応できない程の頭数・武装で囲まれたらどうするのか。ただでさえ困っている人を放っておけない性質たちなのに、首を突っ込んで厄介事に巻き込まれたらどう対処するのか。

「後ろに目があるんですか、腕が生やせるんですか、バイク並みに走れるんですか」

「いや、それはさすがに」

「人が増えればできることだって増えます」

 リタの空色がやけに光を湛え出す。

「エンお兄さんが私のこと、きらい、なら仕方ないですけど」

 言葉尻が滲んだ。断られる理由を探して考えて顔を上げる。

 静かに凪いだ黒曜の瞳と目が合った。

 それまで荒れ狂っていたリタの空気がみるみるうちに落ち着きを取り戻す。

「嫌いじゃないから連れていきたくないんだよ」

 それはエンの本音だった。せっかくリタの無罪をフォルマに掛け合ったのに、下手に同行を許して危険に巻き込むのは望むところではない。項垂れてしまったリタの華奢な肩に手を乗せる。

「ここにいれば身の安全は保証されるんだろ? 大人しくしとけよ」

「自分は危ないところに行くのに不公平です」

 そう零すリタの勢いは萎んだ風船のようにしょぼくれていた。

「じゃあ、もう出るからな」

 最後に形の良い亜麻色の頭に手を乗せると踵を返す。

 軽やかな足音と共にリタがエンの腕にしがみついた。

 別れを惜しんでいるのか、可愛いところもあるじゃないか。そう、エンが思ったのもほんの一瞬だった。徐々に腕に力が込められ、「抱きつく」ではなく「締め付ける」という形容に変わっていく。

「リタさん?」

 引き抜こうとしても腕が抜けない。

 恐る恐るリタの顔を覗き込むと、目がしっかり据わっていた。それだけでは無い。しっかり腰を落としエンをこの場に縫い止める楔と化している。

「お兄さんが一緒に行くって言うまで離しません」

 とても固い意思表明だった。

 一呼吸あって鼻を啜るように肩が上下する。腕はどうにも抜けそうにない。鬱血を覚悟する程度には強い束縛だった。

 困惑しながらリタの格好を見下ろして数回瞬きを繰り返す。長かった髪が短く切り揃えられているのにはもちろん気付いていた。だが、格好は長距離を歩くための旅に向いた衣服を纏っている。靴も長距離を歩くための負荷に最大限配慮されたものだ。扉の近くには所在なさげに大きなバックパックが鎮座している。エンに同行するために整えられた装備だ。

 根負けしたエンが腕から力を抜く。

「分かった、分かったから泣くな」

「お兄さんが泣かせてるんです!」

 ぎゃん、と叫ぶリタの眦には光の粒が浮かんでいた。拭ってやろうと片腕を伸ばす。

 とうとう涙腺が決壊してしまったのか、溢れ始めた涙をリタは袖口で懸命に拭っていた。

 初めて会った時のようだなと思った。

「条件が一つある」

 リタの前に跪いたエンが真剣な眼差しで顔を覗き込む。

「死ぬな」

 たった一言だけだった。どういうことかとリタが小首を傾げるとエンは淡く笑ってみせた。

「命をかけるのと投げ出すのは違うだろ」

 熱くなる頬を堪えながら言葉を続ける。本心を口にするのはいつだって照れ臭い。残念なことに上手に誤魔化せるほどの器用さを持ち合わせてはいないのだ。

「俺はお前に死んで欲しくない」

 リタの頬から雫が一筋こぼれ落ちた。

「約束できないなら……」

 そう言いながらエンは立ち上がる。

 エンの目元に、耳に差した紅がリタの目に鮮やかに映った。離れていく前に、今度は行動ではなく言葉で示さなければ。

「します!」

 乱暴に目元を拭って顔を上げる。

「エンお兄さんのことも、自分のことも守ってみせます!」

 ようやくエンが笑った。別離ではなく、共に行くことを許可する意図の笑みだ。ほんの僅かに苦笑が滲む、照れくさそうな笑顔だ。

「でもきっと無茶すると思うので」

 その顔が見たかったと言ったら怒られてしまうだろうか。張っていた意地はいつの間にか霧散していた。

「その時は今みたいに叱ってください」

 ようやくリタも笑顔を浮かべる。

 エンは虚を突かれたように瞠目して、それからリタの頼みを一笑してみせた。

「世話の焼ける連れだな」

 リタもつられて悪戯っ子のような笑みになる。

「じゃあとっとと出るぞ」

 ふと、意図に気付いたリタが踵を返した。機敏な動きで荷物を抱え直して再びエンに駆け寄る。

「道中、気をつけて」

 翡翠の瞳は眩しいものを見つめていた。

「行ってくる」

「行ってきます!」

 振り返ることなく二人は歩いていく。その先に待つものが険しい道であっても、きっと乗り越えていくだろう。


 澄み渡った青空を一匹の燕が力強く飛び去って行った。 



 二人は楽園への到達及び調査の任務を完遂させる。後の歴史に語られるはずの大偉業はやがてその荒波に揉まれて消えてしまった。しかし、彼らがそれを嘆くことは無いのだろう。


 誰も知らないおとぎ話の誰も知らない最終章


 これは、その始まりの物語

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幾星霜の空を往け 風待芒 @susuki_nohara

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