第7話 赤いギターとリンゴ・スター
ナンドリーナがうちに来てから、早くも一か月の月日が流れようとしていた。まだ寒さは厳しいけれど、どことなく春の訪れを感じる様な温かい日も多くなってきた。
僕とナンドリーナは相変わらずで、特に何もなく楽しく? 毎日を過ごしていた。
仕事にもだいぶ慣れて来て、ようやくお得意様にも顔と名前を覚えてもらえるまでにはなってきた。
「……資料がない。ここにも、ここにも……」
デスクに置いてあった資料が見当たらなかったので、引き出しを順番に空けて中を確認していた。
「おかしいな……。どこにも入れた記憶がないんだけど」
最後に使っていない、一番下の大きな引き出しを開けた。そこには、忘れ去られたように白いクマのぬいぐるみが押し込まれていた。
「わぁ、可愛い!」
リンと鈴の鳴る声が聞こえて視線を上げると、小宮さんが目をキラキラ輝かせてこちらを見ていた。
「あ、これ、いります?」
「えっ! いいんですか?」
「はい、前の人の置き土産みたいですけど……」
「いいんですかね?」
「いいですよ。前の人はもう退社して日本におられないみたいですし、デスクのものは全部使っていいってことだったので」
デスクから白いクマを救出して、小宮さんに差し出した。掌サイズのぬいぐるみは、ピンクのリボンを着けて頬を赤く染めていた。
「そうですか、じゃあ……」
小宮さんは包み込むようにそっと白クマを受け取ると、嬉しそうに撫でて自分のデスクに飾った。
「ありがとうございます! すごく可愛いです」
「前の人に感謝ですね。僕には無用の物だったので、ちょうどよかったです」
「本当にありがとうございます」
小宮さんの笑顔に、胸がほんわかと温かくなる。小宮さんといると、本当に癒される。滝の側にいるぐらい、いや、小宮さん自身からマイナスイオンが出ているのかと思うぐらいだ。
「あの、今度お礼って言ってはなんですけど……ご飯でもどうでしょうか?」
「えっ!」
小宮さんのまさかの一言に、驚きで目が飛び出たかと思った。
「そ、そんな……! お礼って元々僕のじゃないし……」
「あ、そ、そうですよね。ご迷惑ですよね! 私、自分から食事に誘うなんて……」
「え、いや! ご迷惑どころか、大歓迎っていうか……」
「え……」
「え、あ……! だ、大歓迎っていうかですね! 僕の方から誘うべきかなって……」
もう、テンパって何を言っているのかわからない。でもとにかく、このチャンスを逃すかと必死だった。
すると、小宮さんがくすくすと笑いだした。やってしまった。また失態を晒してしまったのだろう。こうして僕はまたチャンスを逃すのだ。ナンドリーナがあの日言った言葉が胸をよぎる。
『さゆりとうまくいくといいな』
あの日の一言で、僕はなんとなく吹っ切れた。せっかくタイプの人が目の前に現れたのだから、高嶺の花だなんて諦めないでおこうと。ナンドリーナとは……ただの同居人なだけなんだから。一緒に住んでいるからって、ナンドリーナは僕のことなんとも思ってないし……僕だってそうなのだ。……きっと。
小宮さんはにっこりとほほ笑むと、恥ずかしそうに頬を染めた。
「よかったです。じゃあ、来週行きましょう」
「え……」
小宮さんから返ってきた言葉は、想像もしなかったものだった。どうやら、チャンスを逃してはいなかったようだ。
「お店は、大沢さんにお任せしてもいいですか?」
「あ、は、はい!」
嘘みたいだった。これは、デートを取り付けたということだろうか。しかも、あの小宮さんと……。
「いつ残業が入るかもわからないですよね、今大沢さん忙しそうだし。だから、来週は空けておくので都合のいい日に言ってください」
「あ、ありがとうございます……」
「じゃあ、楽しみにしてますね」
そう言ってにっこりほほ笑むと、小宮さんは席を立ち行ってしまった。
これは、俗に言うモテ期が来たのだろうか。まだ信じられない。
「幸之助!」
その幸せ気分をぶち壊す声がして、背中をバシッといつもの様に叩かれた。
「さ、坂上先輩。どうしたんですか?」
「いや、さっき自分のデスクの資料だと思ってお前の資料持って行ってたから返しに来た!」
そう言って、僕の探していた資料をデスクにドカッと置かれた。普段整頓してないからこういうことになるのだ。
「探してたんです。よかったです」
内心イライラしながらも、笑顔で資料を坂上先輩のデスクの逆側に寄せた。これからは、大事な物は小宮さん側のデスクに寄せておこう。そう心に誓った。
ナンドリーナからメッセージが来たのは、帰ろうとして会社を出る少し前だった。内容は、『今日はご飯はいらないから、仕事が終わったら心斎橋の三角公園とこに来い。来たら電話しろ』というような、絵文字もスタンプもない業務連絡の様なそっけないものだった。また何かやらかしたのか、それともこれからやらかすのか、不安が胸いっぱいに広がったが、行かないわけにはいかなかった。
ナンドリーナを放っておけない。僕は指示通り、心斎橋へと向かった。
午後七時、三角公園はたくさんの人で賑わっていた。誰もが待ち合わせをしている様で、時計を確認したり、携帯電話を触ったりして時間を過ごしている。
僕も携帯を取り出し、ナンドリーナに電話をかけると三コールぐらいで出た。そして、「着いたよ」と伝えると「すぐに行く」とだけ答えて電話を切られた。本当に何の用なんだろうか。少しぐらい説明があってもいいのに、まるでさっきから秘密の取引をしているマフィアみたいなやりとりだけだ。どんどんと不安が募っていく。
――そして、待つこと五分。ナンドリーナがアウターも着ずに、寒そうに肩をすくめ小走りでやってきた。
「待たせたな」
「ううん……って、どうしたの? そんな恰好してると風邪ひいちゃうよ!」
「すぐ近くから来たから、上着いらんと思ったけど寒いな」
「ほら、これ着て」
すぐに僕のコートを脱いでナンドリーナに着せてあげた。
「あーぬくい!」
ナンドリーナはそう言って、ぐっとコートにくるまると、ずずっと鼻水を啜り上げた。
「ほな、行くぞ! すぐそこや!」
ナンドリーナはそう言ってきびすを返すと、僕のネクタイをぐいと引っ張った。
「ぐっ……! ひ、引っ張らないで! 行くから!」
「逃げんなよ」
パッと、ネクタイから手を離すとスタスタと歩き始めたので、仕方なく着いて行くことにした。それにしても、『逃げるな』なんて不吉なセリフを吐かないで欲しいものだ。不安でたまらなくなる。
見るからに怖そうな人が道路の脇にたむろっている通りを、ナンドリーナは平然と歩いていく。どうせどこに行くか聞いても「うるさい」とか、「いちいち聞くな」とか言われそうだから黙っているけれど、本当にどこへ行くつもりなのだろうか。今度こそ、何かヤバいことに巻き込まれるのではないだろうか……。
でも、そんな僕の不安は空振りに終わった。三角公園から歩いて一分ぐらいだっただろうか、三階建てのオシャレなファッションビルの前までやってきた。
そして、そのビルの地下へ続く階段をナンドリーナは下りて行く。看板には、LIVE HOUSE 『VEO』と書いてあった。
ライブハウスと言うのは、あれだろうか。音楽やなんかを演奏するのを聞く場所のことだろうか。そんなところ、僕は入ったことがない。入口で少し躊躇したが、ナンドリーナが階段の途中で立ち止まり頭だけ振り返ると、早く来いと言わんばかりに睨んだ。仕方なく、後に続いて地下へ降りる。壁は真っ黒に塗られていて、いろんなバンドのフライヤーが重なり合って貼られていた。乱雑に貼られているそれは、オシャレな壁紙にさえ見えた。
重い扉を押して中に入ると、また少し先に扉があって、人一人分ぐらいのカウンターが設置されていた。どうやら、受付をするエントランスらしい。
そして、そのカウンターの中からスキンヘッドでサングラスをかけた、見るからに怖そうな人がこちらを睨んでいた。いや、実際はサングラス越しなのだから睨んでいるかどうかなんてわからないけど、なんとなくそう感じたというのが正しい。僕はバレないようにゆっくりと目線をそらし、そのまま俯いた。気を損ねるようなことをしたら、殺されそうだ。
「もっちん、これ私のツレ。パスちょうだい」
ナンドリーナは親しい様子でスキンにそう言った。もっちんとは、このスキンのあだ名だろうか。見た目と名前が合致しない。
「なに、リーナの男なの?」
そして、今度はめまいを覚えた。もっちんは想像もできない高い声で、しかもお姉言葉でそう返した。あまりの衝撃に吐きそうだ。
「ちゃうちゃう。一緒に住んでるだけや! まあ、下僕みたいなもんや!」
ナンドリーナはそう冗談っぽく言って、いたずらっ子みたいに笑った。ていうか、誰が下僕だ。
「なによ、それならそう言いなさい! ちょっと貧相だけど可愛いじゃない」
「え、あ……はぁ……あ、ありがとうございます……」
なるべく目を合わさないようにお礼を言った。
「私もっちんよ、ここのスタッフだから、以後お見知りおきー」
「は、はぁ……」
「はい、パス」
スキンはそう言って、布でできたシールみたいなものを取り出した。上の方に手が伸びてきたので胸に貼ってくれるのかと思いきや、シールを持つ手が急降下した。嫌な予感がした時には遅く、お尻をねっとりと触るようにペタリとシールを貼られた。
「良いお・し・り」
首を傾けて、嬉しそうに微笑むスキンに悪寒が走り、体がシャキッと伸びた。
「あ、ありがとうございます……」
なぜかお礼を言ってしまい、自己嫌悪に陥った。僕はお尻に貼られたシールをはがし、胸に張り直した。シールには『STAFF PASS』と書かれてあった。
「行くぞ、幸之助」
「え、あ……うん!」
ナンドリーナが正面から見て右側にある、裏口だと思われる重そうな扉を開けて中に入ったので、それに続いた。
暗くて狭い通路を歩いていく。控室とマジックで書かれた紙が貼ってあるドアの前で、ナンドリーナの足が止まった。二度ほど、思い切りノックをすると「どうぞー」と返事が返ってきたので、ナンドリーナがドアを開けた。
ドアが開くと同時に、白い煙がもわっと外へ流れ出した。ヤニの嫌な臭いが僕を包んでいく。どうやら煙草の煙が充満しているらしい。むせ返りそうになって、息を止めた。
中は八畳ほどで、電球がいくつも付いてある鏡が三枚ほど壁に設置してあり、化粧台がカウンターの様に続いている。テレビで見た芸能人の楽屋みたいだが、違うのは壁が真っ黒でコンクリートの打ちっぱなしだということだ。そしてここにも、無数のフライヤーが貼ってある。
鏡の前に一人、そして真ん中に乱雑にいくつか置かれたパイプ椅子に、二人女の人が座っていた。みんなナンドリーナみたいな真っ黒な服を着ている。
「ただいま」
ナンドリーナは三人に向かってそう言い、コートを脱ぐと僕の頭に投げつけた。
「うわあ! もうちょっと優しい返し方ないの?」
「ない!」
僕はため息を吐いて、コートを丁寧に整えると腕にかけた。
「リーナ、これなに?」
真っ赤な髪に、真っ赤口紅を塗った女の人が僕を指差してそう言った。切れ長の瞳で睨まれ、思わず目をそらしてしまった。なんだか、ナンドリーナと似た空気を持っている。
「ん? 幸之助や。今こいつの家におる。リハ終わったし、迎えに行ってた」
「えー! これが新しい彼氏なん? もやし男やんかぁ!」
そう言って、黒いロリータ服を着た金髪で巻き毛の子がナンドリーナに抱きついた。ナンドリーナは鬱陶しがる様子もなく、ただそれを真顔で受け入れている。
「もやしって、洗わんと食べた方がいいらしいで」
そうぼそっと言ったのは、緑のメッシュが入ったベリーショートの髪の女の子だった。背が小さくて細い。今にも折れてしまいそうだ。
「あ、あの……」
状況が飲み込めなくて、全員の顔をもう一度見渡した。
「紹介しとくわ」
そう言って、ナンドリーナが煙草を取り出し火をつけた。
「そこにいる、赤髪のロンゲがボーカルのアイリ。んで、この私に張り付いてる金髪ロリータがチョモ。ベース担当。それから、そこのボーっとしてるグリーンメッシュの入ったのがレミ。ドラム担当。んで、ギター、コーラス担当リーナ。以上四人で『SCARLET APPLE』」
「え? え? どういうこと?」
頭がこんがらがっていて、何がなんだかわからない。ボーカル? ベース? ドラム?
「おい、リーナ。こいつバカなんか?」
アイリがそう僕に向かって吐き捨てるように言った。
「まあ、バカっちゃバカやな」
そう言ってナンドリーナがケタケタ笑った。
「ちょ、勝手にバカ呼ばわりしないでよ! ていうか、これどういうことなの? 急に連れて来て、ちょっとはわかるように説明してよ」
「だーかーらー! 今日はうちのバンドのライブの日やねん! ただで招待したってんからありがたく思え!」
「え、ライブって……」
ようやく全貌が見えてきた。つまりは、ナンドリーナのバンドが『SCARLET APPLE』で、そのメンバーがここにいる人達ということだ。
「それならそうで最初に言ってよ……」
「いちいち説明するより、来た方が早いやろ」
「その度に僕の心臓は寿命を縮めてるんだけど」
すると、チョモが笑い出した。
「なんかわからんけどおもろいな、幸之助って!」
まただ、またおもしろいって言われた。人生二度目の面白いを頂いて、心が弾む。
「ある意味な」
そうナンドリーナが付け加えた。どういう意味だと問いただしたい気持ちを押し込んだ。今日はナンドリーナの味方が多そうだから黙っておこう。
「で、リーナはこのもやしと付き合ってんの?」
レミがドラムスティックをくるくる回しながら問いかけた。
「付き合ってはないけど、一緒に住んでる」
「肉体関係はあるんか?」
レミが更に続ける。
「ないない。こいつ童……」
「わーーーーーーーーーー」
ナンドリーナが次に紡ぎだす言葉に気づいて、大声を上げた。
「うるさい」
ギロッと、アイリに睨まれた。殺意の籠った目に、慌てて口を抑えた。
「なんや、童貞か」
レミがそう言って、スティックを放り投げてキャッチした。
「きも」
アイリはそう言って、近くに置いてあったペットボトルの水を一口飲んだ。
「ち、ちが……童貞じゃ……」
言い返そうとしたけれど、何かろくなことにならなさそうだったので黙ることにした。
「でもよかったぁ。リーナは私のだもーん」
チョモがそう言うと、ナンドリーナに絡み付いて頬にキスをした。ナンドリーナは、またも真顔でそれをスルーした。異様な光景だ。
「そう言えば今日、ヒデもくるんやろ」
レミの一言に、さっきまで騒いでいた空気がシンと静まりかえった。
「なんであいつが……」
ナンドリーナはそう言うと、煙草の火を灰皿でもみ消した。いつもより、念入りに消しているように見えた。
「今日の対バンするバンド、ヒデのツレのバンドらしいよ。だから見に来るって」
アイリの言葉に、ナンドリーナの表情が一瞬変わったように見えた。
「ほんとにヒデと別れたん、リーナ?」
チョモがそう問いかけると、ナンドリーナは鏡の前に座って髪の毛を直し始めた。
「別れた。すっぱりな」
そう言ったナンドリーナの顔が、いつもより真剣で、僕にはそのヒデがピンク白菜のことだってわかってしまった。そして、なぜか胸がズキンと痛んだ。
その時、黒いTシャツを着たスタッフが控室に入ってきた。「そろそろ会場しますんで」と声を掛けられ、みんなの表情が一気に真剣な顔に変わった気がした。
「準備するか」
ナンドリーナがそう言うと、みんながそれぞれ動き始めた。
「幸之助、お前はここから出て、さっきのハゲおかまのいる入口から入り直せ」
「あ、うん……」
僕は言われた通り、控室から出ようとした。その背中に、ナンドリーナがまた投げかけた。
「ライブ、楽しめ」
僕はその言葉に、口角が勝手に上がっていくのを感じていた。すべてが急なことで頭が混乱して忘れていたけれど、今からナンドリーナの演奏が聞けるのだ。また、僕の知らない彼女の一面を知ることができる。何より、ナンドリーナがどんな音楽を紡ぎだすのか、僕は興味があった。
胸がドキドキして、頬から耳にかけてが熱くなってのぼせたみたいになっている。こんな高揚感は初めてだ。二回深く深呼吸して少しそれを落ち着かせると、さっきのスキンのいる入口へ向かった。
ライブハウスは狭く、僕の想像していたものとは全然違っていた。ステージも高い位置にはなく少し段があるくらいの高さで、天井も低い。五十人ほどがすし詰めの状態で狭い箱の中に入れられているかのような、そんな気分だった。前の方はなんだか怖そうな人たちが集まっているので、避けて真ん中より少し後ろぐらいの場所を確保した。
リンゴ・スターの『IT DON‘T COME EASY』が流れ始め、ステージが暗くなった(リンゴって、今思えばダジャレじゃないか)。そして、ナンドリーナ達が舞台袖から出てきて、それぞれの楽器を手に取りチューニングを始めた。
そして、ぴたりと音楽が止んだ。と、同時にナンドリーナのギターの音がライブハウスの中に鳴り響いた。キーンとした耳鳴りにも似たその音は、光の矢となり僕の心臓を突き破っていった。
細いレミの体から力強いドラムの音が打ち出され、チョモの弾くベースの重低音が僕の体の中に響いた。アイリの低い声がメロディーを奏でだすと、それは一つの音楽になり、僕の脳内に流れ込んできた。
空気が振動してビリビリと震えているのを感じた。僕の指先を、つま先をその振動が電流の様に痺れさせていく。そして、その痺れは全身に回り、脳髄までも痺れさせていく。
目をずっと見開いたまま、僕はその空気の拍動を全身で感じていた。
ナンドリーナの指が動く、ピックが弦を揺らす。
黒い髪がなびく、赤い唇が動く。
赤いギターが、ライトを浴びて光を反射する。
汗が飛ぶ、黒い髪が陶器みたいな肌に張り付く。
真っ黒なあの目が、僕を捉える。
僕の心臓は完璧にうち抜かれた。ナンドリーナという弾丸に打ち抜かれた。心臓から血が溢れだしてくる。そして、その血は全身にめぐり、燃えるように体を熱くする。
観客がジャンプするたびに、地面が揺れ、空気が揺れる。その揺れが僕の心臓の鼓動と同調する。みんながジャンプする中、僕だけが何もせずナンドリーナをただ見つめていた。
これは夢だろうか。いろんなビートが、色が僕に刻み付けていく。ナンドリーナという存在を。
この時間が永遠だったらどんなにいいだろうか。
僕はこの時間を永遠に閉じ込めたかった――。
ライブが終わった後、僕は一歩もそこを動くことができなかった。放心状態というのはまさにこのことを言うのだろう。爆音のせいでシャーという砂嵐の様な音が、ずっと耳の中で鳴っている。少し間を置いて、もう一組のバンドの演奏が始まるようだった。
一旦ドリンクを飲みにバーへ向かう人の群れの中に、僕は見つけてしまった。そいつを。
金髪で毛先がピンク色になっている髪に、筋肉質な体、切れ長の瞳は強く前を捉えていた。今日は髪を立てていなかったが、間違いなくそいつだった。
すれ違う間際、スーツを着ていた僕は目立っていたのか、ピンク白菜と目が合った。一瞬、ピンク白菜の顔が怒りの表情に変わって、僕は身構えた。けれど、すぐにピンク白菜はチッと舌うちをして僕から目をそらし、バーカウンターの方へ歩いて行った。
なぜか手足が震えだした。ライブが終わった後の高揚感なのか、それともピンク白菜への恐怖からか。僕は耐えきれなくなって、ライブハウスの外へ飛び出した。
重い扉を開けると、そこにはおかまスキン。
「あらぁ、リーナちゃんの下僕じゃない」
「あ、ど、ども……」
「どうしたの?」
「い、いえ……ちょっと外の空気を吸いに行こうかと」
その時、裏口が開いて、ナンドリーナが丁度出てきた。後に続いて、アイリとレミとチョモも出てくる。
「あ? 幸之助?」
「ナンドリーナ!」
ふいに、さっきのライブのことが鮮明に蘇り、胸が熱くなった。
「お疲れ様、すごかったよ! 最高だった! なんかこう、体が熱くなったっていうか! 特にあの最初の曲! あれがすごくかっこよかった!」
さっきの興奮を思い出して早口で一気にそう伝えた。
「ほんまか」
少し頬を染めて、ナンドリーナが頭を掻いた。こんな表情のナンドリーナは見たことがない。嬉しそうで、そしてどこか恥ずかしそうだった。
「リーナ、うちら先に入ってるから」
アイリがそう言って、ライブハウスの中に入ると、レミとチョモも続いて入って行った。
「もうすぐ対バンのバンドの演奏始まるから、中入るぞ」
興奮していたのもつかの間、ピンク白菜のことを思い出して一気に気持ちが落ちた。
「う、うん……。でも僕はちょっと外の空気を吸ってるよ……」
「なんやねん! せっかくやねんから入るぞ!」
「だめ、僕はいけない……」
「なんやねん! なんでそんな……」
そう言いかけた時、入口の方の扉が開いた。その場にあった空気が吸い込まれたような感じがして、扉を開けた人物の方を見た。
時間が止まった。そんな気がした。
「あらぁ、ヒデちゃんじゃないのぉ」
スキンがそう言った。そう、そこにはピンク白菜がいたのだ。
「……リーナ」
低い声で、白菜がナンドリーナを呼んだ。胸がどうしようもなく痛くて、苦しくて、グッと拳を握った。
「何やねん」
「ちょっと話があるんやけど。そこのもやしにもな」
「こっちには、もう話すことはない」
そう言って、ナンドリーナが白菜に背中を向けた。
「あ、あらあらぁ、ちょっと私席外すわねぇ」
そう言って、門番のスキンは空気を読んで裏口の方へ消えてしまった。
僕と白菜とナンドリーナ、三人がこの狭いエントランスに取り残された。誰も何も話さなくて、空気さえも凍りついたかの様に気温が冷えていくのを感じた。
「俺にはある」
そう言って、白菜はナンドリーナの細い腕を握った。その瞬間、胸の中が煮えたぎるように熱くなって、目が潤んだ。真っ黒な煙が僕の足元から登ってきて、どんどん体を重くしていくようだった。
「お前、ほんまに俺のこと嫌いになったんか?」
「っ……」
白菜の問いに、ナンドリーナは言い返すでもなく声を詰まらせた。
「リーナ……ほんまは……」
「うるさい! お前なんかキラいや!」
そう言って、ナンドリーナは白菜の手を振り払った。白い手が動いた残像が、僕の瞳の中で溶けて消えた。その時のナンドリーナの表情は、僕が見たことがないぐらいに痛そうで辛そうで……。
それが何を意味しているのか、僕は悟ってしまった。
そして、それと同時に胸が痛くなった。苦しかった。頭がグラグラして、涙が溢れそうになった。
ナンドリーナは、出口の方の扉を開けて出て行ってしまった。僕も慌てて後を追おうとした。
「あいつは、お前には乗りこなせん」
そう、後姿に吐き捨てられた言葉を、僕は聞こえない振りをした。ドアを開けた瞬間に、悲鳴にも似た、空気が入り込んでくる音が鼓膜に突き刺さった。
階段から降りてくる強い風に、砂埃が運ばれてきて僕の顔にチクチクと当たった。手で顔を覆い、その風に逆らうようにして、地上への階段を上っていく。階段を上りきると、ナンドリーナがビルの前で茫然と立ち尽くしていた。
「ナンドリーナ……」
ナンドリーナはポケットをまさぐり、煙草を取り出すと火をつけた。
「あの……バンド、見なくていいの?」
もっと気の利いたことが言えたはずなのに、僕はなぜかそんな関係のない言葉を口にしてしまった。
まだ寒い、三月の風が僕の体を冷やしていく。心も一緒に。
ナンドリーナは、まだ煙草を一口しか吸っていないのに、地面に投げてもみ消した。そして夜空を見上げて言った。
「帰ろう、家に」
嗚呼、愛しのナンドリーナ 蒼井 るり @aoiruri1012
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