第6話 さゆりとフォーク
「幸之助! ミルク!」
「はいはい」
言われる前にもう、ナンドリーナがミルクを所望していることはわかっていた。すぐさまカップに入ったミルクをテーブルに出す。
「お、早いやん」
「ナンドリーナが欲しいものとか、だんだんわかるようになってきたっていうか」
あのデート以来、僕らの距離はぐっと縮まった気がしていた。鉄板デートは鉄板でこそなかったが、僕らにとって木の板ぐらいになったことは確かだった。
「じゃあ今何が欲しいでしょうか」
ナンドリーナが挑戦的な目で僕を見つめた。
「え……えっと、サラダにかけるドレッシングとか?」
次の瞬間、フォークが手の甲に刺さった。
「いだああああああ! 何するのさ!」
「不正解には罰ゲームやろ」
「ちょ……どこのバラエティ番組なのさ……」
「正解は……ティッシュでした」
「ティッシュか……」
僕はジンジンと痛む手をさすりながら、ティッシュを取って渡した。
「まあ、まだまだ修行が足りんなぁ」
「そーですね」
二度とナンドリーナの欲しいものがわかるなんて言わないでおこう。
会社に着いてから、ふと手の甲を見ると、見事赤い点の傷が三つ並んでいた。
「あぁ……痕ついちゃってるし」
力の加減を知らないのだからと、ため息を吐きながらデスクに座る。右隣の坂上先輩はまだ来ていない様だった。と、ふと昨日まで空いていた僕の左隣りの席に、パソコンが設置されているのに気が付いた。
なぜだろうと、いぶかしげにそのパソコンを見ていると、どこからともなく上品な花の芳香、いやこれはローズの香りと言った方がいいのだろうか。でも、おばさんからするきつい香水の匂いではなく、本当に上品な香りが空気に乗って流れてきた。
その香りに誘われて、パソコンに向いていた顔を上げると、ひらりと淡いピンク色のシフォンスカートが揺れたのが見えた。
スカートから伸びる、スラリとした白い足。どんどん視線を上にあげていくと、白いブラウスの上からベージュのカーディガンを羽織っているのが目に入った。服の上からでもわかるぐらいのグラマーな胸、そして、その胸の上で綺麗に巻かれた栗色の髪が踊るように揺れた。
なぜか、僕の胸は高鳴っていた。ドキドキと、もうそれはどうしようもないぐらいに。
さらに視界をあげていくと、チェリーの様なピンク色の唇がつやつやとグロスで光っていて、長いまつ毛にくりっとした大きな茶色い瞳が僕の方を見つめていた。
ごくり、生唾を飲み込んだ。これはなんというか、すごく……タイプだ。
彼女の足は、どんどん僕の方へ近づいてくる。そして、僕の前で止まった。心臓は今にも破裂しそうに脈打っている。
「初めまして。本日からお世話になります」
鈴がリンと鳴ったような、そんな心地いい可愛い声が僕の耳に届いて、やっと僕は我に返った。
「え、あ……は、初めまして!」
慌てて立ち上がったので、椅子を後ろの席にぶつけて大きな音が鳴ってしまった。
「あ! わ! ご、ごめんなさい!」
誰も座っていない後ろの席に謝ってしまい、それはもう見事に僕は間抜けな男に映ったことだろう。彼女は口元を抑えてクスッと笑った。
「あ……なんか、ごめんなさい」
いつもの癖でなぜか謝ってしまった。ナンドリーナのせいだ。
「いえ、大丈夫ですよ」
彼女はそう言うと、姿勢を正して深々とお辞儀した。とても、きれいなお辞儀だった。
「小宮さゆりです。お隣の席に座らせてもらいます」
さゆり……どこかで聞いたような名前だと思ったけど、すぐに僕も挨拶をしなければと姿勢を正した。
「あ、ぼ、僕は大沢幸之助です!」
勢いよくお辞儀をしたら、今度は手を思いっきりデスクの角で打ってしまった。
「いだっ!! たた……」
あぁ、もう完璧にかっこ悪すぎる。こんな絵に描いたようなかっこ悪い奴、そうそういないだろう。しかも、こんなタイプど真ん中の女の子の前で失態もいいところだ。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい……ええ……」
「あ、でもなんだか赤くなってますよ」
小宮さんがそう言って僕の手を取った。胸がドキンと高鳴る。
「あら、なにかしらこの赤い点……? 今打った時に何かにあたってんでしょうか?」
今度は違う意味で胸がドキンと高鳴った。それは、ナンドリーナが刺したフォークの痕だった。
「だっ! ち、違います! あの、これはその! 飼ってる猫が引っ掻いてですね!」
とっさに変な言い訳をしてしまった。まあ、猫に近いのは間違いないけれど……。でも、まさか家に恋人でもない女の子を住まわせているなんて言えるわけもなかった。
「猫飼ってらっしゃるんですか! 私もなんです! うちは、スコティッシュフォールドなんですよ」
「そ、そうなんですか! す、すこてぃ……? すこ……」
「スコティッシュフォールドです」
「す、スコティッシュフォールドちゃんですね!」
「ちゃん……?」
「え、あ……」
名前じゃないのか……。種類なのか……。
「い、いえ! なんでもないです!」
「大沢さんはどんな猫ちゃんを?」
「え、ぼ、僕……僕は……く、黒猫です。それはもう真っ黒な……」
腹の中までと言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
「そうなんですね! いいなぁ、黒い猫ちゃんってかわいいですよね」
「可愛いっていうか……とても凶暴で」
そう言いかけてまた言葉を飲み込む。これ以上猫の話は危険だ。
「今日からなんですね」
慌てて話題を変えてみた。
「はい。そうなんです」
「僕もつい先月からなんですよ」
「そうなんですか!」
「だから、全然気にしないでなんでも聞いてください」
「ありがとうございます。よかったです、お隣が大沢さんで」
にっこりとほほ笑んだ彼女は、白い天使の様だった。ナンドリーナが黒い天使なら、小宮さんは白い天使だ。
「しかも、東京から最近引っ越してきたばかりで、余計に心細かったんです」
「え! 東京から? 僕もなんです!」
「え! 本当ですか? じゃあ転勤で?」
「はい!」
「私も親の転勤で大阪についてきたんです」
「いやあ、偶然だなぁ! 本当になんでも聞いてくださいね!」
「はい、ありがとうございます」
見つめ合い、微笑み合う……。これはなんだろう、ちょっと良い感じかもしれない。いやいや、童貞の思い上がりほど怖いものはない。
深呼吸をしてから、気持ちを落ち着けて席に着いた。小宮さんも続いて着席する。と、そこへ遅れて坂上先輩が出社してきた。今日もビシッとオシャレに決まっている。
「おはようさん!」
「おはようございます」
作り笑いを浮かべて坂上先輩に挨拶を返す。
「お、新しい派遣さんか!」
坂上先輩は、そう言うと僕と小宮さんのデスクの間に割って入った。小宮さんも慌てて立ち上がった。
「初めまして。今日からお世話になります。小宮さゆりです」
「初めまして。坂上です」
坂上先輩はキラリと白い歯を輝かせ、にっこりとほほ笑んだ。
「なんでも、わからないことがあったら聞いてね」
「はい」
「そうだ、今日は小宮さんの為に第一営業局で歓迎会しよう。予定どうかな?」
「はい、大丈夫です! ありがとうございます」
「幸之助! お前はどうや?」
坂上先輩が僕の方を向いて投げかけた。それにしても、どうして小宮さんと話す時が標準語で、僕と話す時はド関西弁なのだろうか。
「あ、はい、僕も大丈夫です」
あとで、ナンドリーナにご飯は作れないって連絡しておかないと……。
「よし、じゃあ決まりだね。ホント、わからないことは何でも聞いてよ」
坂上先輩はそう言うと、さりげなく小宮さんの肩をポンと触れ、自分のデスクに戻っていった。これは、もしかして坂上先輩も小宮さんを気に入ったのだろうか。もしそうだとしたら、確実に今日の歓迎会で坂上先輩が小宮さんを落としにかかることだろう。これでどんなに僕のタイプであろうが、勝てる要素は一つもなくなってしまった。
今日も坂上先輩の隣から流れてくる書類を肘で押して、一日が始まった。
歓迎会、僕の時の汚い居酒屋とは違って、オシャレなイタリアンバルにやってきた。女子だとこうも扱いが変わるのだ。
予想通り、ずっと坂上先輩は小宮さんの隣を陣取り、一生懸命口説きにかかっていた。すごく違和感のある標準語で、女の子がいかにも喜びそうな言葉を並べる。遊びなれている坂上先輩ならではの手口だった。
もはや、僕の入る隙などなく、それに付け加え関西のノリに溶け込めるわけもなく、完全に壁の絵と化して、見つからない様に店の隅の方からその様子を見つめていた。早く帰りたい。
「隣、いいですか?」
その時、ふわりと上品なローズの芳香がした。声の主を見ると、そこには小宮さんがいた。
「あ、ど、どうぞ!! いいんですか、主役がこんなところに……」
「はい。ちょっと、まだ大阪のノリについていけなくて」
「僕もですよ。だから一時避難です」
小宮さんがフフッと、やわらかく微笑んだ。
それにしても、本当に天使の様だ。白いオーラが出ていて、顔の周りがキラキラと宝石でも散りばめたように輝いている。
「大沢さんって、東京はどのあたりにお住まいだったんですか?」
「僕は三軒茶屋です」
「あ、近いです! 私、世田谷なんですよ!」
「本当ですか? すごく近いじゃないですか! いや、ほんと偶然ですね」
「ね、なんだか運命感じちゃいます」
「え……」
その言葉に羽が生えて、舞い上がって行きそうになった。小宮さんは本気で言っているのだろうか、それとも冗談? それがわかれば、僕は今まで童貞でいなかっただろう……。
自分の恋愛スキルのなさに、つくづくうんざりしながらも、この言葉の意味を酔った頭で必死で考えた。
「今は、どちらに?」
「え、ああ、会社の借り上げマンションにいます。会社から一駅ぐらいのところで。小宮さんは?」
「私は芦屋の方です。両親がそこのマンションを買ったので」
「そうなんですか! 芦屋って、この辺でいう高級住宅地ですよね?」
確か、この前部長がそんなことを言っていた気がする。
「そうなんですか?」
「そっか、小宮さんってお嬢様なんですね」
「そんなこと……っていうと、嫌味になってしまいますね。たしかに、両親は会社経営をしてます」
「やっぱりそうですか」
どうりで上品だと思った。それと同時に、これはもう遥か遠く断崖絶壁の崖の上に咲くまさしく高嶺の花だと理解した。僕にはとうてい手が届かない、そんな人だったのだ。
「でも、それが特別だなんて思いたくないです。両親が決めたレールを歩くの嫌なんです。だから、いつかは実家も出て行きたいんですけど、両親が反対してて。実は大阪に来るときに一人で東京に残るって言ったんですけど、許してくれなくて」
「そうだったんですか……それは大変ですね」
「でも、いつか親から離れて暮らしたいです。だからこうして自分で働きに出たんです。それも最初はすごく反対されたんですけど、押し切っちゃいました」
「なんだか、小宮さんって僕の知ってるお嬢様と違います」
「そうですか?」
「はい」
小宮さんは本当にしっかりしていて、自分がお金持ちだからって、そこに甘えているだけじゃ駄目だと考えられる素敵な人なのだと思った。まさか、性格までパーフェクトとは……。まさに非の打ちどころの無い人だ。
「大沢さんって、面白い方ですね」
「そ、そうですか? そんなこと言われたことないです」
「面白いですよ! あ、そうだ、よかったら連絡先交換しませんか? まだ越してきたばかりでお友達いなくて……」
「れ、れれ連絡先……!!」
顔から火が立ち上った気さえした。女の子からこんなことを言われるとは、これまでの人生の中で、そして、これから先の人生の中でもおそらくない出来事だ。これは夢じゃない……のか?
「あ、やっぱりダメですよね」
「いやあああああ! ダメとか、まさか、そんな、ダメどころか……その、是非!」
慌てるな、まだ慌てる時間じゃない。小宮さんはお友達と言ったんだ。落ち着いてポケットをまさぐり、携帯を取り出した。そして、お互いに連絡先を交換し合う。
「これから、よろしくお願いしますね」
「は、はい! こちらこそ」
みんなはまだ目の前でワイワイとお酒を酌み交わしている。いつもは帰りたいと思える光景も、なぜか今日は心地よく思えた。なんていい日なんだ。
家に帰ってきたのは十二時を回った頃だった。すっかり酔っ払いの僕は、時々地面から足が浮いているんじゃないかというぐらいに浮かれていた。
「ただいまー」と意気揚々と扉を開けると、小さなナンドリーナの厚底靴があらぬ方向を向いて脱ぎ捨ててあった。その靴を揃えて、家に入る。
リビングの扉を開けると、近くのコンビニの袋と、そこで買ったであろう空になった弁当の器がテーブルの上にほったらかしになっていた。テレビはついたままになっていて、関西ローカルの深夜番組で、馬鹿馬鹿しい罰ゲームをしている様子が流れていた。
そして、グレーテルが帰り道を示すように、アメリカンチェリーの包み紙が点々と落ちている。それを拾いながらたどっていくと、ベッドの上でパジャマにも着替えていないナンドリーナがすやすやと寝息を立てていた。
きっとお腹いっぱいになってウトウトしたから、そのまま寝てしまったのだろう。
ナンドリーナの寝顔は、子供と大人の中間の、可愛いような綺麗な顔で……。人形みたいなその整った顔に、僕はただ見惚れていた。起きてしゃべると、すごく怖いのに。こうして寝ていると、本当にナンドリーナは綺麗で儚い。触れると壊れてしまいそうな、繊細なガラス細工の様だ。
さっきまで、白いオーラとローズの香りに包まれていたのに、部屋の扉を開けてすぐにナンドリーナの黒いオーラと、甘いキャンディーの香りに全部かき消された。ナンドリーナの狂ったハチャメチャな世界に戻ってきた。それはとても不思議な感覚で、ナンドリーナのことはまだまだ何もわからなくて、彼女がどこから来てなぜ僕の側にいるのかも全部わからないのに、それでもそれがなぜか怖いとか、気味が悪いとかじゃなくて、初めてジェットコースターに乗った日みたいに、ドキドキしてこの先何が起こるのか楽しみで……。
起こさないように、そっとナンドリーナに布団をかぶせた。
なんだろう、この気持ちは。とても不思議な気持ちだ。恋愛相手として好きだとか、愛しているだとか、そういうのなのかはわからない。ただ、ナンドリーナが愛しいという気持ちでいっぱいになった。
すると、突然メッセージの受信音が鳴り響いた。
「うわあっ!」
その音に驚いて、大きな声を上げてしまった。マズイと思った時には、すでにナンドリーナが目をパチッと開けていた。
「んん……なんや。幸之助か。帰ってたんか」
「ごめん、起こしちゃった」
「まだ風呂入ってないから、丁度よかったわ」
ナンドリーナはそう言うと、目をこすりながらぐっと伸びをした。
「あー頭痛い。寝すぎた」
不機嫌そうなナンドリーナは起き上がると、煙草を吸う為に窓際に向かった。
僕は携帯を取り出して、送り主を確認すると……信じられない人からメッセージが来ていた。
そう、それは、小宮さんからだった。女の子の方からメッセージをもらえるなんて。しかも飲み会の後に、社交辞令だと思っていたのに、だ。
僕は震える手で、トーク画面を開いた。そこには、可愛い猫のキャラクターが投げキッスしているスタンプが動いていた。しかも、そのキャラクターが投げキッスをするとハートが出てくるのだ。僕は一旦携帯を伏せて目をこすってみた。もしかしたら、これは幻覚かもしれない。もう一度画面を見ると、やっぱりスタンプが投げキッスしている。
しかも、内容が……『今日は本当に楽しかったです。大阪はまだわからないので、今度美味しいお店とか教えてもらえると嬉しいです。それではまた明日、会社で』ときた。
今度美味しいお店を……これは遠回しに、一緒にご飯でもと誘ってもらっているのだろうか? いや、社交辞令かもしれない。どちらにせよ、メッセージをくれたのは確かだ。どうやって返そうか……。腕を組んでいろいろ考えていると、急に手から携帯の重みがふっと消え軽くなった。
「しまった……!」
そう言った時には、もうすでにナンドリーナの手の中に僕の携帯がおさまっていた。
「『今日は本当に楽しかったです。大阪はまだわからないので、今度美味しいお店とか教えてもらえると嬉しいです。それではまた明日、会社で』」
ナンドリーナはわざと声色を変えて、バカにしたように読み上げた。
「ちょ、ちょっと! 勝手に読まないでよ!」
「名前は……さゆりか。なんや、さゆりって彼女か?」
ニヤニヤと、ナンドリーナが携帯を掲げて僕を見た。
「ち、違うよ! 今度来た派遣さん。今日はその人の歓迎会だったんだよ」
「へぇ、かわいいんか?」
「か……かわ……」
小宮さんのことを想像して、顔が一気に熱くなっていくのを感じた。
「図星やな。しかもどんぴしゃのタイプとか?」
ナンドリーナの予想が的中して、ドキリとした。でも、そんな風にドキリとする必要もないはずだ。僕はナンドリーナと恋人でもなんでもないのに、なぜか罪悪感が胸に湧いてきた。
「た、たとえそうでも関係ないでしょ!」
その気持ちの正体がわからなくて、思わず強気に返してしまった。
「はいはい、タイプなんやなぁ。私がうまくいくように返事してやるわ」
「ちょ、や、やめてよ!」
ナンドリーナから携帯を奪おうと、手を伸ばしたが、ヒョイと交わされてしまった。それと同時になぜか、ふつふつと怒りが込み上げてきた。この怒りはなんなんだろうか。今まで、ナンドリーナにいろんな嫌がらせや暴力を受けても、こんな気持ちになったことがないのに。携帯を返してくれないから? 勝手に返事を送ろうとしているから? それとも、僕のタイプの人がメッセージを送ってきたのに、ナンドリーナが何とも思っていないから? だとしたら、僕はなぜそんなことで怒るんだろう。
もう、頭の中はめちゃくちゃだった。
「返してってば!」
思わず、大きな声でそう言ってしまった。ムッとした表情のナンドリーナは、大きく振りかぶって携帯を僕の方めがけて全力投球した。
「ぐふぅ!」
おでこにガンっと当たった携帯は、見事僕の手の中にすぽっと納まった。
「そんな大声出さんでも返したるわ! 近所迷惑やろ!」
「す、すみません……」
さっきまでのイライラとした熱は、おでこの痛みと共にシューッとしぼんでいった。何にイライラしていたのかもわからないぐらいに、おでこが痛い。
「さっさと返信したれよ」
「う、うん……」
ナンドリーナは、そのままシャワーへ向かった。
一人になった部屋で、着替えをすまし窓際に座った。今日買ってきたのだろうか、小さな黒い灰皿がサッシのところに置いてあった。
僕は携帯を手に取り、返信というボタンを押した。そして、あたりさわりなくものすごいテンプレの返事を打ったのは言うまでもない。本当にいくじなしの童貞野郎だ。送信ボタンを押した後に、それでよかったのだと、なぜか妙に納得してしまった。僕には所詮高嶺の花。それに……。
その後にナンドリーナの顔が浮かんだのは、どうしてなのか僕にもわからなかった。
この間通販で頼んでいた布団が昨日届いたので、今日で段ボール布団とはお別れだった。ベランダに段ボールを出して、布団を敷く。敷いた布団の上に寝転がると、久々に味わうふかふかの布団の感触が体を包み込み、たまらず顔を埋めて擦りつけた。
そこに、ナンドリーナがシャワーから戻ってきた。そして、風呂上りの一服とばかりに、濡れた髪の上にタオルをかけたまま、窓際に座った。
窓を少し開けると、煙草に火をつけて煙を勢いよく吐き出す。煙は天井に上り、空けた窓から空気が入ってきてその煙を外へ連れ出していく。布団に寝転がったまま、その様子をしばらく見ていた。
「布団、気持ちいいか?」
「うん。やっぱ段ボールはダメだよ」
「そやな」
そう言って笑うと、ナンドリーナは立てかけてあったギターを手に取った。そして、シャカシャカとかき鳴らした。アンプにつながっていないギターは、乾いた音を奏でていてお世辞にもカッコいいとは言えなかったけど、そのシャカシャカ音は確かにメロディーを奏でていた。
それがとても心地よくて、僕はそっと目を閉じた。
「そういやさ、さゆりってリンゴのたとえ話したときに、私がリンゴにつけた名前やな。さっき名前見て、既視感あったって思ってたんや」
そうだ。僕も小宮さんの名前をどこかで聞いたことがあると思っていたけど、それだったんだ。
僕は目を閉じたまま、クスッと笑った。
「僕もね、どこかで聞いたなって思ったんだよね」
ナンドリーナの、笑い声が耳に届いた。
「ほんま、偶然にもほどがあるな」
「ほんとだね」
ナンドリーナのシャカシャカしたメロディーが一瞬途絶えた。
そして、ナンドリーナの声が僕の耳に届いて、僕はなぜかとても胸が苦しくなったんだ。
「さゆりとうまく、いくといいな」
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