第5話 ツナサンドと水族館

床のマニキュアは、拭いても拭いても綺麗には落ちなかった。

 マニキュア臭い部屋で、ハンバーグを作りナンドリーナはいつもどおりにいっぱい食べて、いつもどおりに話していた。僕は、なんとなくさっきの出来事が後ろめたくて作り笑いを浮かべて返事をしていた。

 先にナンドリーナがお風呂に入って、僕があがってきたころには電気がガンガンについた部屋で、天使は小さな寝息を立てていた。

 ナンドリーナの白い肌が、赤い唇が、黒い髪がまた体を熱くさせた。かぶりを振って両手でピシャリと頬を叩き、なんとか平常心を保つ。少し肌蹴ていた掛け布団をしっかりとかぶせて、僕も段ボール布団に寝転んだ。

 買ってきたばっかりのアイマスクをつけて、毛布を頭からかぶった。目を閉じると、浮かんでくるのはナンドリーナの白い足と、細い手首……。押し倒した時のあのビー玉みたいな目が、まだ僕を睨んでいるようだった。

 リアルに蘇ってくるナンドリーナの肌の柔らかさと、ひんやりとした体温。僕は侵してはいけない領域に片足を入れてしまった。

 もやもやする気持ちを振り払うかのように、更に布団にもぐり込んだ。早く寝よう。もう、何も考えずに寝てしまおう。

 明日になったら何かが変わるかもしれない。それが現実逃避だったとしても、今の僕にはそれしか方法がなかった。

 羊なんて数えて寝られるものだろうか。そんなことを考えながらも、二十匹を数えた後ぐらいで記憶があいまいになり意識を手放した。



 どのくらい経ったのだろうか。それは一瞬で、はたまた永遠の時間だったように思えた。

 突然、鈍い痛みが腹部に走った。

「う……」

 これは夢だろうか? でも一体なんの夢なのだろう? その痛みはどんどんと強くなっていく。このままじゃ死んでしまいそうだ。

「うわああああ!」

 飛び起きると、目の前には白い陶器の様な足がジャージの裾から覗いていた。

「えっ……」

「さっさと起きろぼけ!」

 足の持ち主を見上げると、そこには寝起きのナンドリーナが立っていた。というより、この状況は……。

「あの……お腹、痛いです」

「当たり前や! 腹踏んでるからな!」

「え、あの……」

「朝飯作れ! 腹減った」

「は、はい……」

 ようやく足がどいたので、まだ痛みが残る腹部をさすりながら起き上った。

「もうちょっと穏やかな起こし方ないの?」

「ない!」

「はい……」

 いつもよりも十五分も早く叩き起こされ、キッチンに立った。今日の朝はサンドイッチにしよう。ゆでたまごは時間がかかるので、スクランブルにしてマヨネーズと合えた。ハムとキュウリ、あとはツナで決まりだ。

 出来上がったサンドイッチをテーブルに運ぶ。

「お、サンドイッチうまそうやん」

「そ、そう?」

「いただきます」

 お皿を置くや否や、ナンドリーナがツナサンドをとって口に入れた。

「うん! うまい!」

「よかった」

 僕もテーブルについて、ツナサンドから食べようとしたその時。横からぬっと白い手が出てきて、僕のツナサンドを華麗にお皿から連れ去った。

「えっ! 僕のツナサンド!」

 慌ててツナサンドの行方を追うと、もうすでにナンドリーナの口の中に入っていた。

「うまい!」

「もう……」

「かわりにこれやる」

 そう言って、キュウリハムサンドのハムだけを抜いて、キュウリサンドにしたものを僕の皿に置いた。

「これ……キュウリだけですけど」

「キュウリ嫌いやねん! 入れんな」

「え、でもブロッコリーが嫌いなんじゃ」

「キュウリは食べれるけど嫌いやねん! ブロッコリーは食えへんぐらい嫌いや!」

「な、なにそのうちわけ……」

「ごちゃごちゃ言うな!」

「はい……」

 仕方なく、キュウリだけのサンドを口に運んだ。二個目のツナサンドももちろん連れ去られ、かわりにキュウリサンドが置かれた。キュウリだけのサンドも美味しいのだけど、やっぱりハムと合わさっている方がいい。

「てか、おまえさ。昨日私を押し倒したこと気にして寝れんかったんやろ」

「えっ……!」

 図星をつかれて思わず立ち上がってしまった。

「やっぱな。目の下、クマできてんで」

「嘘!?」

 思わず自分の目の下を触って確認する。

「てかさ、気にしすぎや。うちはなーんも気にしてへんで。男やねんから、そういうこともよおすこともあるやろ」

「もよおすって……」

「まあ、お前に私を押し倒す勇気があったことは褒めてやるわ」

 いたずらっぽくナンドリーナが笑った。

「でも所詮は童貞やな。そこで辞めるのが幸之助や!」

「ええ……。またそれ?」

「そや!」

「しゃらくさい?」

「ちゃう! 根性なしや!」

「……根性なし」

 またまた言い返せないことを言われてしまい、僕は黙って再び席に着いた。

「お前さ、休み土日やな」

 突然ナンドリーナが切り出した。

「え、ああ……うん?」

「デート」

「え?」

 耳を疑った。今確かにナンドリーナはデートと口にしただろうか。

「だから、『え?』て聞き返すなぼけ!」

「ごめんなさい……」

「デートやデート! デートに連れてけ」

「デートに……?」

「なんや、デートも始めてか?」

「ち、違うよ! あるよ! デートぐらい!」

 そこは本当だ。大学時代に人数合わせで呼ばれたコンパで知り合った子と行ったことがある。残念ながら、キスにすら進めずに終わってしまったが……。

「ふーん。じゃあ、任せるからな。デートコース」

「えっ! 僕が?」

 デートコースと言われても困ってしまう。ここは大阪で、僕はまったく大阪の地理に詳しくないのだ。デートコースと言われても……。

「あのさ、僕あんまりまだ大阪わからないし」

「は? んなもん土曜日まであと五日あるやろ! ない頭しぼってリサーチせんか!」

「リサーチですか」

 それにしても、どうして急にデートに連れて行けなのだろうか。

「あの、デートの相手僕でいいの?」

「お前でとりあえず我慢しとく」

「な、なんだかそれってあんまり嬉しくない……」

 すると、ナンドリーナが僕を熱っぽい目でじっと見つめた。そして、見たこともないような優しい笑顔を作る。

「わたしぃ、幸之助くんとぉ……デートしたぁい」

 いつもよりも一オクターブ高い声で首を四五度に傾け、ナンドリーナが言った。さも、わざとらしく。

 でも、不覚にもそれが可愛くて、顔に一気に火が灯ったみたいに熱くなった。

「……きも」

 吐き捨てるように言うと、素の表情に戻ったナンドリーナがまたサンドイッチにかぶりついた。

「すいません」

 なぜか謝ると、僕は残りのサンドイッチを平らげた。不思議と、今日の朝まで僕を悩ませていたもやもやした何かはすっかり消えていた。

 僕が会社に向かおうと玄関に向かう頃には、もう一度ナンドリーナは夢の中にいた。僕も二度寝がしたい。気持ちよさそうなナンドリーナを恨めしく思いながらも、僕は家を出た。



 少し時間も早かったので、出社前にコーヒーでも買おうと会社の隣にあるコンビニに立ち寄った。

 朝のコンビニは、サラリーマンとOLでごった返している。ドリンクコーナーに向かおうと雑誌コーナーの前を通った時、ふとある雑誌が目に着いた。

 『大阪ガイド! これが鉄板のデートコース特集』

 タイトルが目に入るや否や、立ち読みしているサラリーマンの間に割って入り雑誌を取った。そして、それを持ってレジに向かった。

 これでナンドリーナに参った……いや、違う。楽しかったと言わせてやる。ほくほくした気持ちでコンビニを出た。そして、気付いた。

「あ、コーヒー買ってない」



 デスクに座り、自販機で買った缶コーヒーを一口飲んだ。仕事が始まるまで、まだ少し時間がある。僕は買ってきたばかりの雑誌を開いた。

『鉄板デートコース』

 わくわくしながらページをめくる。

『まずは海遊館の前で待ち合わせ! 時間はお昼過ぎがおすすめ。噴水の前がベスト』

 笑顔の偽物カップルが、ジンベイザメの水槽の前で良い雰囲気を醸し出しながら、肩を組み写真に写っている。

『海遊館でのポイントは、クラゲの泳ぐ水槽ゾーン! 幻想的なクラゲの浮遊にムードが高まる!』

 頷きながらページをめくっていく。

『海遊館を満喫した後は、海沿いのベンチで愛を語って』

『その後は、海遊館横のショッピングモールでお買いもの』

『日が暮れてきたら再び海遊館へ! 夜の海遊館は一味違ってロマンチックに』

『海遊館近くのホテルでディナーを予約。海の見えるレストランでムードを高めて』

『仕上げは観覧車で夜景!』

 すべて読み終わった後には拳を握りしめた。いける。これはいける! 女の子はなぜか水族館が好きだし、ホテルディナーに観覧車で夜景なんてロマンチック極まりない。きっと、このデートコースは雑誌の言う通り鉄板だ。

 その時、背後から誰かに肩をたたかれた。

「なんや、デートか」

 坂上先輩登場。読んでいた雑誌を覗き込んでくる。内容を見られたらまた余計なアドバイスが飛んできそうだったので、雑誌を閉じて体をよじった。

「ええ……まあ」

「こっち来て早速か? お前なかなかやるやないか」

 坂上先輩は僕の肩をバシバシ叩くと、自分のデスクに座った。今日は、積みあがった書類がこっちに侵入してきてない。

「さて、仕事するか!」

 坂上先輩はそう言うと、書類を鞄から出してデスクに置いた。と、同時に僕のデスクに書類が崩れてなだれ込んできた。やっぱり、今日もこうなる。

「そうですね!」

 作り笑いを浮かべて、僕は書類を肘で押した。




 ――そして、デート当日。

 いつもよりも少しオシャレをして、鏡の前で笑顔を作ってみた。今日の為に、昨日の会社帰りに洋服を買いに行ったのだ。普段なら足を踏み入れないであろう、駅にできた大きなデパート。閉店三十分前にぎりぎり滑り込み、全身店員さんに見立ててもらった。ナンドリーナに見つかったらまた何か言われそうなので、そっと隠しておいたのだ。

「結構、様になってるかな?」

 なかなかの出来栄えに満足していると、洗面所の扉が勢いよく開いた。

「どけ! 邪魔!」

 ナンドリーナはまだパジャマのジャージのまま、寝癖で爆発した髪でうろうろしていた。

「は、はい……」

「なんや、妙に気合入ってんな」

 にやりと、ナンドリーナがほくそ笑んだ。

「そ、そうかなぁ……いつもと一緒だと思うよ?」

 しらばっくれてみる。いつもよりもオシャレをして張り切っているなんてわかったら、どんなにバカにされるかわかったものじゃない。

「そーか。値札、ついてんぞ」

「えっ!!」

 慌てて背中を触って確認する。

「冗談や」

「え……」

 やられた。ナンドリーナは勝ち誇った様子で、僕より低い位置にいるのに上から見下ろしているような顔をして見せた。

「まあ、似合ってんちゃうか」

 ナンドリーナはそう言うと顔を洗い始めた。

「えっ! 似合ってる?」

 今、確かにそう言ったように聞こえたが……。

「二度というかぼけ」

 ナンドリーナはそう吐き捨てるように言って、歯ブラシを口に含んで洗面所を出て行った。

「二度というかって、ことは……」

 やっぱり、似合っているって言ってくれたのだ。嬉しくてその場で踊りだしそうになった。いや、正確にはもう踊りだしていた。

 今日のデートはきっとうまくいく! そう、なぜか確信した。だって、こんなにも幸先がいいのだから。



 マンションを出て並んで駅までの道を歩く。

「なんか、いつも通りだねナンドリーナは」

 黒い服にピンクのチェックのスカート。腰にはチェーンがぶら下がっていて、お決まりの黒い革の厚底靴。

「は? 文句あんのか?」

「え、いや! ありません!」

 デートと言えば、フリルのついたワンピースってイメージだった。

「もしかして、デートって言えば、フリルのついたワンピース着てくるとかアホな妄想してたんちゃうやろうな」

 ギクリとして体が硬直した。心が読まれているのだろうか。

「しかも、そのワンピースは淡いピンクで、華奢なヒールの靴でも履いてんねんやろ」

 さらに追加で理想を当てられ、思わず俯いた。

「反吐が出るわ!!」

「すいません……」

 でも、怒られてもなお、僕は想像せずにはいられなかった。真っ白な肌に、きっと淡いピンクのワンピースは似合うだろう。細い足にヒールの靴を履き、柔らかい表情で微笑むナンドリーナはきっとかわいくて……。

 次の瞬間、お腹に激痛が走った。

「うぐ……」

 見ると、僕のお腹にナンドリーナのパンチがめり込んでいた。

「な、なんで……僕なにもしてない……」

「顔がにやけとんねん! どうせ変な妄想しとったんやろ!」

「そ、そんなぁ」

 まあ、確かにしていたけれど……。

 幸先がいいように思えたデートは、結局いつも通りに始まった。



 地下鉄の駅で切符を買って、改札を通る。改札を通ったあとに、ナンドリーナがおもむろに僕に切符を渡してきた。

「え? あの、切符」

「持っとけ!」

「ええっ! なんで?」

「なくすからや!」

 ナンドリーナが真顔でそう言うものだから、思わず噴き出した。

「なにそれ! 小学生みた……」

 次の瞬間には、僕の頬をナンドリーナの拳が捉えていた。

「ぐふうぅ!」

「笑うなぼけ!」

 ジンと痛む頬をさすりながら、僕はにやけていた口を平行に戻した。

「すいません」

「てか、お前なくすなよ!」

「はい……」

 なくすともっと酷い目に合いそうだったので、黙って僕は切符をポケットに入れた。

 駅の階段を下りていく途中で、ナンドリーナがぽつりとつぶやいた。

「行先、大阪港ってまさか水族館じゃないやろうな」

「えっ……」

 思わず階段の踊り場で足が止まってしまった。

「まさかの、海遊館ちゃうやろうな」

「そ……」

 『そ』と口から出た後は何も言えなくなってしまった。

「出たわ。水族館とかベタすぎるやろ。これやから童貞は」

「だ、ダメですか……」

 がっくりと肩を落とした。鉄板デートコースじゃなかったのか? いや、今更だけどナンドリーナに鉄板デートコースなんて元々通用するのだろうか? これは大失敗だ。

「まあ、たまには水族館もいいかもしれんな。久々やし行ったるわ」

「え? ほんと?」

「外出てきたのに帰るのもったいないしな」

 ナンドリーナが先に地下鉄の階段を下りていく。

 まだだ、まだ挽回できそうな感じがする。電車到着のメロディが流れたので、僕も慌ててナンドリーナの後を追った。



 休日の海遊館は結構混んでいた。予約していたチケットで並ばずに入ることができた。これにはナンドリーナも上機嫌で「おまえにしては上出来や」と褒め言葉まで頂いた。

 長いエスカレーターに乗って上を目指す。海遊館は最上階かららせん状に通路が続いていて、ぐるぐると下りながら水槽を見ていく仕組みになっている。と、雑誌に書いてあった。ナンドリーナが先に乗って、僕はその後ろに乗った。登っていくエスカレーターの途中で、ナンドリーナが後ろを振り返った。

「パンツ見たら殺す」

「ええっ! だ、大丈夫だよ! 見えてないから」

「てことは、一応確認したってことやな?」

「ち、ちちちちが……!」

 ナンドリーナは僕の頬を両手でつまみあげると、めいっぱい横に伸ばした。

「ひ、ひたひでふぅ(痛いです)」

「下から見えんように、しっかりガードせーよ!」

「は、はひ……」

 やっと手が離れた時には、頬が五センチ伸びたように感じた。

 エスカレーターが最上階に到着すると、そこは水槽トンネルになっていた。

「おっ! 前来た時はこんなんなってなかった!」

 ナンドリーナが嬉しそうにトンネルの方へ歩いていく。

「見て見ろ幸之助! あの魚、すごい綺麗や!」

 はしゃいで、まるで子供みたいな笑顔を浮かべて笑うナンドリーナに、胸がぎゅっと掴まれたように苦しくなった。水が揺らめき、ナンドリーナの白い肌に波紋模様の光が反射する。

 なんだろう、この気持ちは。こんな気持ちが日に日に大きくなっている気がする。

 見惚れていると、ナンドリーナは先に次のゾーンへ向かってしまった。

「あ、ちょっと待って! はぐれるよ!」

 次は、カワウソのゾーンだった。ナンドリーナは身を乗り出してカワウソを見ていた。

「もう、早いよ! はぐれちゃったらどうするの?」

「見て見ろ! 幸之助! めっちゃ可愛い!」

 ナンドリーナの口から可愛いなんて言葉を聞くなんて思わなかった。それよりなにより、そう言ってはしゃいでいるナンドリーナが可愛くて仕方なかった。

「うん、すごく可愛いね」

 それはカワウソに向けたものではなく、ナンドリーナに向けたものだった。しまったと思った時には、ナンドリーナの顔がこちらを向いていたので、思わず僕は防御体勢に入った。また殴られる……。

 だけど、ナンドリーナは殴るどころか、笑顔で次の水槽へと駆け出していた。

「え、あ……ナンドリーナ待ってってば!」

 その後も、ナンドリーナはどこの水槽でもご機嫌で、着いていくのがやっとなぐらいだった。メインの大きな水槽、『ジンベイザメのゾーン』へやってきた時にはヘロヘロになっていた。

「もう、ナンドリーナってば……早いって」

 ナンドリーナは、大きな水槽の前でただ佇んでいた。そして、ボーッとジンベイザメが回遊しているのを見つめていた。

「ナンドリーナ?」

「大きいな……」

 ナンドリーナは、そうぽつりと言った。人がたくさんいて、ざわざわとしているはずなのに、はっきりとナンドリーナの声が僕の耳に届いた。じっと水槽を見つめるナンドリーナの横顔はこの世のものとは思えないぐらいに綺麗で、青白い光を放ってまるで人魚みたいだった。ナンドリーナは水槽を見つめて、僕はずっとナンドリーナを見つめていた。

 きっと、ほんの一分ぐらいのできごとだった。でも、それが永遠みたいに感じた。儚くて今にも消えてしまいそうな、泡のような時間の中に、僕はしばらく浮かんでいた。

 ふと、僕は思った。ナンドリーナはいつか消えてしまうのではないかと。いつか泡になって、知らない場所へ旅立ってしまうのではないかと。いつまでも、僕といてくれるはずがない。

 そんな気がして、息ができないほどに苦しくなった。

 そして僕は、ナンドリーナの手を握ってしまった。ひんやりとしたその手に、僕の熱が伝わる。

「……幸之助」

 ナンドリーナが僕の方を見た。目が合って、心臓がドキンと高鳴る。なんだかいいムードだ。そう思った。

 次の瞬間……。

「百万年早いんじゃぼけえええ!」

 そうナンドリーナは言い放つと、強盗を取り押さえるように僕の手を背中まで捻り上げた。

「あだだだだだだだだだ!」

「なーに手ぇつないでんねん! ふざけんな!」

「す、すすすすすいません! 調子乗りました!」

 ナンドリーナの手が離れて、僕はその場に膝をついた。

「ほんま、油断も隙もあったもんちゃうな!」

 そう吐き捨てるように言うと、ナンドリーナが歩き出した。

「あ、待ってってば!」

 慌てて立ち上がると、ナンドリーナの後を追った。やっぱり簡単には行かない。それがナンドリーナなのだから尚更だ。

 ジンベイザメの水槽を真ん中に見ながら、グルグルらせん状に下りていく。そして最後にタカアシガニの水槽を抜けると、待ちに待った『クラゲゾーン』。鉄板デートコースの話では、ここがポイントだったはずだ。

「ナンドリーナ、クラゲのゾーンだね」

 すると、ナンドリーナはさっきまでとは比べ物にならないぐらいのスピードで素通りしていく。

「えっ! ちょ、ちょっと、ナンドリーナ! クラゲだよ? クラゲ」

「クラゲなんて気持ち悪いもん見るか!」

「ええっ! でもほら綺麗だよ? ね?」

「昔海水浴でクラゲに刺されてから、大嫌いなんや!」

「そんなぁ」

 まさかのクラゲゾーン素通りで海遊館を出た。

 鉄板デートコース、なんだか雲行きが怪しくなってきた。



 海遊館から出て次はたしか、海沿いのベンチで愛を語るだっただろうか。愛は無理だとしても、海沿いのベンチで話すなんていいムードになるはずだ。

「ナンドリーナ、ちょっとベンチで休まない?」

「そやな、疲れた」

 ナンドリーナが賛成してくれたので、海沿いのベンチまでナンドリーナを誘導した。

 が、しかし……今日は思った以上に風が強くて寒い。

「……寒い」

 不機嫌そうにナンドリーナがそうつぶやいた。ただでさえスカートという薄着なナンドリーナは、小刻みにカタカタと震えていた。

「……寒いよね」

 慌てて僕は自分のコートを脱いで、ナンドリーナに着せてあげた。

「あーぬくい」

 そう言ってナンドリーナは、ミノムシみたいにコートにくるまった。

「よかった」

 今度は僕がシャレにならないぐらいに寒いけど、ナンドリーナが風邪をひくよりマシだ。

「お前、優しいな」

 ナンドリーナが、そうつぶやいたように聞こえた。でも、風の音でよく聞こえなかった。

「えっ?」

「だから、聞き返すな言うてるやろぼけ!」

「あ、はい……」

 結局なんて言ったのかは定かじゃないけど、都合のいいように考えておこう。その方がきっと楽しい。

「あかん! 寒すぎる! もっとマシな場所ないんか!」

 やはり、コートだけでは耐えられなかったのか、ナンドリーナがそう言って立ち上がった。

「そうだよね、僕も凍死しそう」

 次のデートコースがショッピングモールの予定だ。きっと、そこに喫茶店でもあるだろうからそこへ行こう。

「ナンドリーナ、喫茶店入ろう」

「そうしてくれ」

 僕たちは海辺のベンチで愛を語ることなく、ショッピングモールの中へ移動した。



 ショッピングモールに入ってすぐの喫茶店で、ホットコーヒーとホットココアで暖を取った。その後、ぶらぶらと買い物することにした。

 休日だというのに、ショッピングモールの中は閑散としていた。ちょっとさみしい感じもしたけれど、こうして並んでショッピングというのは僕の思い描くデートそのもので、勝手に口角が上がってしまうのを感じていた。

「あ、あそこのアクセサリー屋見たい!」

 そう言うと、ナンドリーナが僕を置いて先先店の中に入っていった。なんとなく女の子ばかりがいるその店に入りにくくて、僕は入口で待つことにした。

 数分後、ナンドリーナが紙袋を持って出てきた。

「うわぁ! いっぱい買ったね」

「まあな。はい」

 そう言ってその紙袋を僕に手渡した。

「え?」

「よろしく」

「あはは……。ですよね、当たり前ですよね」

 黙って紙袋を持って歩き出した。ピンクに黒字のロゴが入った可愛い紙袋は、僕が持つととても浮いて見える。

「あ、次そこの服屋!」

「はいはい……」

 ナンドリーナはどんどん店に入っては買い物して出てくる。紙袋がどんどん増えて、五個になっていた。

「ナンドリーナ、すごく買うね……。ていうかどこにそんなお金が……」

 ギタリストってだけでは、そんなに稼げないと思うのだけど……。

「うちはせかせか働かんでも金があるんや。だから好きなことして暮らしてんねん」

「ええっ? なにそれ?」

 なにか怪しい商売でもやっているのだろうか……。

「言っとくけど、妖しい商売なんかしてへんぞ!」

「あ、今僕が考えてたことわかった?」

「お前の単細胞で考えつくことぐらいお見通しや! 言っとくけど、ちゃんとした金や!」

「そ、そうなの?」

 親からの仕送りとかだろうか? だとしたら、とんでもないお金持ちの家のお嬢様だったりして。

「あのさ、でもそれならどうしてマンション借りて住まないの?」

「ウサギや」

「ウサギ?」

 寂しがりということだろうか? とてもそんな風には見えないけど。

「さ、次行くぞ」

「えっ、あ、はい!」

 まあ、深くは聞かないでおこう。なぜだかそう思った。それを知ってしまった時、ナンドリーナは僕の元からいなくなりそうで怖くなったからだ。

 でも、どうしてナンドリーナが僕の元からいなくなったら怖いのだろうか。最初は早く出て行って欲しいって思っていたのに……。



 ショッピングモールで過ごすうちに、すっかりと日は傾き夕方になっていた。

 次は夜の海遊館だ。照明が暗くなっているらしく、ロマンチックだとあの雑誌には書いてあった。

「ナンドリーナ、もう一度海遊館に行こう」

「はぁ?」

 ナンドリーナがあからさまなしかめっ面をした。ここまでは計算内だ。

「それがね、この時間帯からは夜の海遊館って言って昼の時とは違う雰囲気で面白いらしいんだ」

 昼間あんなに喜んで水族館を回っていたのだから、飛びつくはずだ。きっと、今僕はドヤ顔をしているこどたろう。ここが今日のデートの一番のポイントと言っても、過言ではなかった。

 だけど、ナンドリーナの口から出てきた言葉は……。

「却下」

「ええっ!」

「んな何回も魚見て何がおもろいねん!」

「でも、昼間は楽しそうだったし……」

「一回で十分や!」

「そんなぁ……」

 すっかりナンドリーナは水族館に興味がなくなっている様だった。仕方ない。夜の水族館は飛ばすしかなさそうだ。それにしても、一番の頼みの綱だった夜の海遊館がダメとなると、あとは観覧車にかけるしかないのだけど……。それにしても、まだディナーの予約まで時間がある。

 どうしたものかと頭を悩ませていると……。

「幸之助、あれ乗るぞ!」

「え?」

 ナンドリーナが指差した方向を見て慌てた。

「観覧車!?」

「なんや、高所恐怖症か?」

「いや、違うけど……その……」

 この後の夜景の予定が狂ってしまう。

「なにモゴモゴ言うてんねん! どうせ高所恐怖症やろ! なら尚更連れてくからな! たっぷり揺らしたる」

 悪人みたいな顔をしてにやりと笑うと、僕の首根っこを摑まえて観覧車に向かって歩き出した。

「ぐ、ぐるしぃ……歩くから……歩くから離して……!」

「逃げんなよ」

 逃げるもなにも、乗るつもりだったのに。と心の中で思いながらも鉄板デートコースが見事に崩壊していくのを感じていた。最初から、鉄板デートコースなんてなかったのだ。そんなものは、ナンドリーナの前では通用しないと痛感してしまった。

 チケットを買って観覧車に乗り込んだ。僕らを乗せた観覧車は、ゆっくりと夕日の海をバックに登っていく。

「ほら、見てみろ幸之助。どんどんあがってくぞー」

 にやにやしながら、ナンドリーナが言った。完全に僕が高所恐怖症だと思っているみたいだ。

「あの、だから僕高所恐怖症じゃないよ?」

「は? そうやってやせ我慢してるだけやろ!」

「いや。本当に高いところ全然平気。なんなら、今立って揺らしてもいいぐらい」

「なーんや、つまらん!」

 ナンドリーナはそう吐き捨てる様に言うと、どかっと背もたれにもたれ窓の外の景色に目をやった。

「ご期待に添えませんで……」

「ほんまにな」

 ゴンドラがどんどん上がっていく。すぐそこには、オレンジ色に染まった海が広がっていた。キラキラと波間が光りを反射し、窓の外を見ているナンドリーナを橙色に染めていく。

「夕焼けの海もええもんやな」

「うん、そうだね」

 穏やかな時間が流れていた。2人とも何も話さず、ただ外の景色を見つめていた。それが不思議と気まずいとか居心地が悪いとかじゃなくて、心地よくてずっとこうしていたいとさえ思えた。

「60点!」

 突然そうナンドリーナが言い放った。

「え?」

「お前の今日のデートの点数や」

「なんか、中途半端……」

「どーせ雑誌に踊らされたんやろ」

「う……」

「けどま、お前にしては上出来や」

 ナンドリーナが窓から視線をはずし、僕の方を見て今までに見たことのない笑顔を浮かべた。僕の心臓が最高潮に高鳴って、目がしらが熱くなった。

「楽しかったわ!」

 その一言で、思わず泣きそうになった。こんなことで泣きそうになる僕って、どうかしている。でも、本当になぜだが涙が溢れそうになって、窓の外を慌てて向いた。

「僕も、楽しかった」

 そう返すのが精いっぱいだった。そして、その『楽しかった』という過去形は今日のデートの終わりの時を告げていた。それが、なぜだかとても寂しく思えた。まるで祭りの後のような、そんな切なさだった。


 観覧車が地上に着くと良い時間で、そろそろレストランに向かっていい頃になっていた。

「じゃあ、ご飯行こうか」

「腹減ったわ!」

「近くのホテルのフレンチ予約したから」

「……やっぱそう来たか。まさか、ホテルの部屋まで取ってないやろな?」

「と、とってないよ!」

 さすがにそれは勇気がでなかった。

「まあ、やろうなぁ。幸之助やもんな」

「あ、それどういう意味? 根性なし?」

「違う! 童貞や!」

「……はぁ」

 ため息しか出てこなかった。

「ほら、さっさと行くぞ! 腹減った」

「はいはい」

 その後、フレンチを食べて、ロマンチックないいムードとは程遠いような、いつも通りの僕らのディナータイムが過ぎて行った。



 ディナーが終わって、最寄の駅に帰ってきた。昼間ならんで歩いた道を一緒に家に帰る。

「フレンチっていうのは、なんであんなちまちま出してくるんやろな」

「うーん。目でも楽しめるようにだよね。コースだし」

「しゃらくさい!」

「またそれ?」

「てか、腹減った!」

「えっ? さっき食べたばっかりでしょ!」

「それでも腹減ったんや! 帰ったら……」

 ナンドリーナがそう言いかけて、ピンときた僕は遮るように言葉をかぶせた。

「ホットケーキ焼けでしょ?」

 ナンドリーナは一瞬驚いたような顔をしたけれど、すぐに笑顔になった。

 この笑顔にいつしか僕はハマっていた。それはもうどっぷりと。

 そして、ナンドリーナは僕に向かって言ったのだ。



「わかってるやん」

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