第4話 DVDと黒いマニキュア
――朝、目覚ましの音で僕は体を起こした。やっぱり、段ボールの布団は腰が痛くなる。昨日頑張って荷物を片付け、段ボールを増やしてだいぶ強化したのだが、やっぱり段ボールは段ボールだ。居心地がいいと思ったのも昨日までで、ふかふかした布団が恋しくなってきた。段ボール布団のせいでただでさえ熟睡できないのに、それに加えて夜通し付けっぱなしの蛍光灯せいで寝不足ときている。布団とアイマスクを近いうちに買わないと、いつか倒れてしまうだろう。
昨日は日曜日だった。僕は朝から荷物の整理に勤しみ、ナンドリーナはずっと煙草を吸ってぼぉっとしたり、ギターを弾いたりしていた。僕が全部片付け終わった頃に、「私の荷物を入れるスペースを作れ」と言われ、僕のクローゼットは半分占領された。そんなこんなで、片付けはあらかた終わったのだったが……。
僕は立ち上がって伸びをすると、ちらりとナンドリーナの方を見た。天使はまだ眠りの中だ。起こさないようにそっと身支度を始める。
月曜日というのは本当に憂鬱だ。今日から仕事だと思うと体が重くなる。現実離れしたナンドリーナとの時間に、すっかりと今の自分の状況を忘れていた。パリッとしたシャツに袖を通すと、嫌でも現実に戻されてしまう。
朝ごはんは目玉焼きとトーストにしようと思って、キッチンに向かおうとしたら、ベルトが何かに引っかかって前に進めなくなった。
「あれ?」
振り返って見てみると、ベッドからにょきっと白い手が出て、僕のベルトを鷲掴みにしていた。
「私の分も作れ」
何も言ってないのに。ナンドリーナはエスパーなのか、それともものすごく鼻が効く犬なのだろうか?
「はいはい」
「はいは一回や!」
「はい」
キッチンで二人分の目玉焼きを作る。フライパンの上で焼きあがっていく寄り添った目玉焼きを見つめて、ふと笑みがこぼれた。もし、恋人がいたらこんな風なのだろうか。そして、ナンドリーナがその恋人だったら……そんなこを妄想していた。この妄想がバレたら、間違いなく僕は殴られるのだろうけど。
目玉焼きの匂いをかぎつけたのか、目をこすりながらテーブルにナンドリーナが座った。ボサボサの寝癖のついた髪で目はうつろだ。
「にゃぁ~」
変な声を出しながら、テーブルに突っ伏して伸びをするナンドリーナがものすごく可愛いくて、思わず笑みがこぼれる。
「何笑ろてんねん。殺すぞ」
「いや、あの可愛いなって……」
ナンドリーナは殺意がこもった目でギロッと僕を睨んだ。
「ホットミルクも!」
「はっはい……」
慌ててミルクを冷蔵庫から取り出し、鍋で温める。
それにしても、ナンドリーナは可愛いと言うと、今にも僕を殺しそうな勢いで睨んでくるから困る。
トーストが焼けたので、目玉焼きと申し訳程度のサラダを皿に盛り付け、ホットミルクと一緒にテーブルに出した。
「うまそうやん。いただきます」
テーブルに置くやいやな、ナンドリーナはフォークで目玉焼きの目玉を突き刺した。黄身がじわりとあふれ出す。
「目玉つぶしちゃったの? これ最後までとっとくのが楽しみなんだよね、僕」
「あ、そ」
「うわ……」
あまりにも興味の無さそうな返事に、涙目になりながらトーストにかじりついた。
「最後まで目玉残しとくとか、ほんま幸之助やな!」
「え、それどういう意味?」
「意味なんかないわ! しゃらくさいってことや!」
「しゃら……くさい」
心が折れて、会話を辞めた。ふと、テレビを見るともう家を出る時間になっていた。
「まずい!」
いつもと違う月曜日に、時間配分をすっかり間違ってしまった様だった。一気にトーストを口に入れ、ミルクで流し込んだ。
「僕、もう行かなきゃ」
急いで立ち上がると、ナンドリーナは無言で僕が残した目玉焼きのお皿を自分の方へ引き寄せた。そして、フォークで目玉焼きの目玉を無残につぶした。
「あ、これマンションのカギ。出るなら閉めて出てね。あと、携帯とメールは昨日教えたとおりだから、何かあったら連絡してね」
僕はスペアキーをテーブルに置いた。ナンドリーナはそれをフォークで手繰り寄せ、輪っかになっているところにうまくひっかけた。
「仕事か」
「うん」
ネクタイを締めながら玄関に歩きだす。
「今日はハンバーグが食べたい」
「わかった。じゃあ帰りにひき肉買って帰るよ」
本当に自然にそんな会話をして、僕は家を出た。まるで何年も一緒に住んでいるみたいな会話に、胸が熱くなりエレベーターでにやけてしまった。
今日は月曜日で、疎外感いっぱいの職場に通勤の最中。確かに現実だけど、この前までとは違う、まだ僕はナンドリーナの世界の中にいるのだ。そう思うと、なぜか心が軽くなった。
オフィスに入ると、もう会社は動き出していた。電話があちこちで鳴り、外回りへ出かける人がボードに戻り時間を書いていた。
いろいろありすぎて、なんだか会社に来るのが久しぶりな気がした。
「おはよう、幸之助」
後ろから背中をバシッと叩かれ、振り返ると坂上先輩が立っていた。坂上先輩は関西支社に来てから下に着くことになった先輩だ。
ツーブロックパーマに、シャツもボーダーの柄が入っていて、ネクタイも良い感じにそれにマッチしているし、なんといってもスーツの上下の色を敢えて合わせないという、オシャレアピール。僕には逆立ちしたってできっこない芸当だ。
「おはようございます」
「どうや、片付いたか?」
「はい、お陰さまでだいぶ」
「そうか、よかったな」
そう言うと、坂上先輩は自分のデスクに座った。見ると、僕のデスクに書類が侵入してきている。坂上先輩はどうも整理整頓が苦手なタイプのようだ。
「もうあとは段ボールを捨てるぐらいです」
まあ、その段ボールは僕のベッドなわけだけど。
にこにこと愛想笑いを浮かべ席に着くと、素知らぬ顔をして肘で書類を押した。ほんと、なんてだらしのない人なのだろうか。
坂上先輩は、これでもかというぐらいの音を立ててキーボードをタイピングし、決めポーズのようにエンターを高らかに押した。悪い人ではないのだろうが、本当になんだか生理的に受け付けない。
「よし! 今日から新しくプロジェクトが始まるからな」
「……はい?」
「花園製菓さんの新商品のCM、あとはイベントやな」
「なるほど……」
「まずは、新商品の内容を花園製菓さんにオリエンを受けに行こう」
「え、今日ですか?」
「そうや。前から決まってたからな」
「わ、わかりました」
突然のオリエンテーションにとまどいながらも、書類をまとめコートを着込んだ。
坂上先輩は今日も口と頭がフル回転。お得意さんも坂上先輩を買っているようで、何を言っても通るような雰囲気になっている。しかも、すでに新商品についてすべてを把握している。新商品は『新触感グミ カムカム』。歯ごたえがあるが、噛み切りやすいという新触感のグミだそうだ。
これから競合プレゼンだというのに、もうすでにお得意さんの気持ちはうちの会社で決まっているように見えた。
すごい。生理的に無理だけど、本当に坂上先輩はすごいのだ。とにかく仕事ができる。できまくる。
僕は一言も話せなかった。目の前で行われているやりとりに、僕の入る隙はまったくない。ダメだ。ダメすぎる。自分のダメさ加減に吐き気すらする。
知らない街を、知らない人と会うために歩けば歩くほど、どんどん僕は自信をこの大阪に吸い取られていく。
花園製菓から出ると、もうすっかり日は傾き、オレンジ色の光がビルの窓に反射して、まるで鏡のようにその夕日を映し出していた。
「よし、今日はそのまま直帰でええぞ」
「はい……」
伸びをしながら、いい仕事をし終えた坂上先輩は満足げに前を歩き出した。僕はがっくりと頭を下げて、その後に続いた。
「幸之助、なんか元気ないな」
「え……あ、いや」
「あんまり話してなかったな」
「……はい」
「なぁ、幸之助。大阪で大事なことってなんやと思う?」
「……すいません。わかりません」
本当にわからなかった。でも、東京にいた時とは決定的に何かが違っているのは確かだった。
「幸之助、大阪で一番必要なものはな……」
坂上先輩はどこかでみたドラマのワンシーンみたいに、遠くを見つめてそれっぽい間を作った。
「それはな、笑いや!」
「わ、笑い?」
思ってもみなかった坂上先輩の言葉に、目の前が真っ暗になった。
『笑い』。『笑い』というのはあの『笑い』のことなのだろうか。芸人がしのぎを削りとっているあの『笑い』?
「クライアントさんに楽しんでもらう営業をするのが大事なんや。ただ仕事の話だけくそ真面目にしててもあかんねん。お前は見るからに真面目そうやもんな」
ドが付くほど真面目ですと言いたかったが、ぐっと言葉を飲み込む。
「適当に軽さが必要やねんなぁ。わからんか」
「は、はぁ……」
「なあ、おもろくなりたかったらどうしたらええと思う?」
「……え? 漫才見るとかですかね?」
「まぁ、それもええやろ。でもそれは普段には生かせへんなぁ」
「はぁ……」
「ええか、おもろくなりたかったら、自分がおもろいと思った奴となるべく一緒にいて、話し方とか身の振り方とかを盗むんや」
「盗む……」
ふと、頭にナンドリーナの顔が浮かんだ。僕のまわりのおもしろ人間なんて、ナンドリーナしかいない。
「そうか、ナンドリーナ……」
急にナンドリーナに会いたくなった。
「まぁ、そういうことやから、俺今日空いてるし……」
「じゃあ、お疲れ様でした!」
「え、あ、おい!」
坂上先輩がまだ何か言っている気がしたが、僕の気持ちはもう前に進んでいた。先輩に一礼すると、その場から駅の方へ歩き出した。
早歩きから小走りに、そしていつの間にか走り出していた。来た電車に飛び乗り、最寄駅へ帰る。そして、何も迷うことなく駅前のスーパーへ。まずは、ずっと買おうと思っていたアイマスクを買いに雑貨売り場へ。そのあとは、ひき肉や付け合せの野菜を買って家へと急いだ。
家までたどり着いた時には、もうスキップしたいぐらいの気持ちになっていた。なぜだか、こんなにもナンドリーナに会いたい気持ちが抑えられない。
鍵を開け、廊下をすべるように移動して、リビングのドアに手をかけた。
「たっだいま!」
勢いよくリビングのドアを開けるや否や、シンナーのようないかにも体に悪い匂いが鼻孔をついた。
「う、くさ……」
思わず鼻を抑えた。なんだろうか、この刺激臭は。
「おう」
返事をしたナンドリーナを見ると、テレビを見ながらマニキュアを塗っていた。なるほど、刺激臭がするはずだ。マニキュアは真っ黒な色をしていた。塗るならもっと可愛い色を塗ればいいのに。
ナンドリーナに近づいていくと、何かを足で踏んだらしく、カサッと音がした。
「ん?」
見ると、床にはアメリカンチェリーの飴の包み紙があちこちに散らばっていた。
「もう、こんなにゴミちらかして」
包み紙を拾いながら、ナンドリーナに近づいていくと、テレビで流れているその映像に見覚えがあって凍りついた。
「そ、それ……何観てるの?」
「ん? アニメ」
「じゃなくて! それ僕の!」
ナンドリーナが視ていたのは、僕の大好きなアニメのDVD『魔女っ子ルナ☆るな』だった。子供むけ定番変身魔女っ子アニメである。
「ちょ、ちょっと勝手に見ないでよ!」
「いいやろ別に。ていうか、お前ますますきもいな」
「き、きもい……」
「童貞オタク」
「う……」
何も言い返せなくて俯いた。ナンドリーナの傍らには『魔女っ子ルナ☆るな』のDVDが全巻山積みになっている。今日一日かけて見たのだろうか。
画面の中では、ルナ☆るなが悪い奴を倒す前に決め台詞を言うシーンが流れていた。
「スーパーキューティ魔女っ子ルナ☆るな参上! 悪い子みんな星の彼方へ飛でいけぇ!……」
ナンドリーナは、画面のルナ☆るなに合わせて見事にアフレコしてみせた。
「これ、おもろいな」
「でしょ? とくに六話からがおもしろいんだよね」
「あぁ、わかるわ。六話はやばかったな」
「……ってナンドリーナ! もしかして僕のDVD全部見たんじゃあ……」
僕のDVDコレクション中にはもちろんアニメ以外のものが……入っている。うまく違うアニメのパッケージに入れて、カムフラージュしてあるのだが。
「いや、全部は見てへん」
「そう、ならよかった」
胸をなでおろし、きびすを返してキッチンに向かおうとしたその時、ナンドリーナが口を開いた。
「まぁ露出モノと巨乳モノはどうかと思うよ」
「えっ!?」
慌てて振り返ると、ナンドリーナはにやりと笑って、隠していたはずのアダルトDVDをトランプのカードみたいに扇形にして僕に突きつけた。
「う、うああああああああああああ!」
慌ててDVDを全部取り上げた。
「どうして! なんで! どうやってなんで! っていうか、やっぱり全部見たんじゃないか!」
「そんな慌てんなや。たかがAVやろ」
「たかがじゃないよ! 勝手に見ないでよ!」
「あーうるさい。ホンマ、童貞はそのぐらいでギャーギャー言うからかなわんわ」
何度も何度も童貞と言われて、正直腹が立っていた。僕だって好きで童貞なわけじゃない。ふと、反抗心が芽生えてしまった。芽生えなくていいところで……。
「ちち、違うよ! 何度も童貞って言うけど僕童貞じゃないから!」
自分でも言ってから泣きそうになった。実際は童貞で、キモオタなわけで……。ナンドリーナが言っていることが正しいのに。ちょっとした反抗心と見栄で、僕は馬鹿を言ってしまった。
「へぇ」
ナンドリーナの赤い唇がにやりと微笑んだ。
「違うって言うんやったら、やってみるか? 私と」
「なっ! あ、いえ……いや!! な、何を!?」
「何をって、決まってるやろ?」
ナンドリーナの透き通るような白い肌が、僕のよからぬ妄想を掻き立てていく。そろりと、ナンドリーナが立ち上がり僕に詰め寄ってくる。
「あ、あの……その……ナンドリーナ……僕はその」
どんどんと詰め寄られ、僕は一歩ずつ後退する。まるで、ナンドリーナに誘導されているみたいで……。
ついに、ベッド際まで追い詰められた。もう逃げ場はない。それでも、倒れずにベッド前で必死に足を踏ん張っていた。
「なあ? したい?」
ナンドリーナのしなやかな指が僕の頬をなぞると、そこから導火線に火がつけられた。導火線の火はたちまち僕の体を駆け抜け、爆発した。生唾をごくりと飲み干す。ナンドリーナは本気なのだろうか。
頭がぐらぐらと揺れ、ついにベッドに座り込んだ。ナンドリーナが、僕の上に乗ってじっと目を見つめる。
心臓が口から出そうなぐらいに脈打って、顔中……いや、体全部がズキズキと拍動するのを感じていた。
チェックのスカートから伸びた白い足は黒い網タイツで覆われていて、それが余計に僕の体の熱を増していく。
ナンドリーナは、更に僕の首に手を回した。ひんやりとしたその手の平に、僕の体がナンドリーナの体に熱を移していく。
「な、ナンドリーナ……」
甘い甘いキャンディーみたいな匂いが、感覚を麻痺させていく。脳髄までも麻痺させて、目の前がピンク色に見えるほどだった。
震えながら、僕は必死に手を伸ばした。ナンドリーナの髪にあと少しで触れそうなところまできて、すっとナンドリーナは僕の上からどいた。
「冗談や」
「え……」
僕の体は、まだナンドリーナの残像を感じて熱く燃え上がっていた。
「やっぱ童貞やな」
ナンドリーナはそう言うと、何事も無かった様に床に座り、また真っ黒なマニキュアを塗りだした。
熱くなった体は静まらない。呑気にマニキュアを塗っているナンドリーナに、無償に腹がたった。
そして、僕は理性を失った。
マニキュアを塗っているナンドリーナの白くて細い手首を掴んで、そのまま床に押し倒した。真っ黒なマニキュアが倒れて、じりじりと床に染みを作っていく。つやつやと光るその液体は、僕の情けない欲情にまみれた顔を映していた。
ナンドリーナの黒い髪が、さらりと落ちる。
「ええで」
赤い唇がそう動いた。
「そうしたかったら、そうしたらええ」
ナンドリーナはビー玉みたいな目で、僕を見てそう言った。
「その代わり、心まではやれん」
手が震えだした。突然ナンドリーナが怖くなった。真っ直ぐに僕を見る黒い瞳が怖くなった。白い肌が、赤い唇が……すべてが。
そして、そんなナンドリーナを押し倒している僕自身が。
じりじりと胸が痛んだ。こんな形でナンドリーナを犯して、僕は何がしたいのだろうか。
「ごめん……」
ナンドリーナの手首を離すと、赤く指の跡が付いていた。それがさらに僕の胸を痛めた。
僕がどいた後も、ナンドリーナは床に寝転んだまま、こぼれたマニキュアずっと見続けていた。
「まるで、血だまりみたいや」
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