第3話 チェックのスカートとホットケーキ

――土曜日だ。今日は土曜日。

 この土日は段ボールの山を全部片付けるつもりでいた。そう思い出して急に目が覚め、飛び起きた。

「あぁ……いて……さむ……」

 なんだか腰や肩が痛いし、寒い。ふと、自分が寝ているのが床の上に段ボールを敷いただけの状態で毛布一枚だったことを思い出した。

 忘れていた昨日のとんでもない出来事が、一気に頭を駆け巡った。あれは夢だったと思いたかったけれど、どうやら現実らしい。

 ゆっくりとベッドに視線を移すと、いるはずのナンドリーナの姿はなく、布団だけがその形を残していた。

 やっぱり夢だったのか? でも、その甘いキャンディーみたいな残り香は、たしかにそこにナンドリーナがいたことを感じさせた。

 出て行ったのだろうか?

 そう思った次の瞬間トイレのドアが開き、すっかり着替えて化粧をしたナンドリーナが出てきた。僕の期待を大きく外れ、ナンドリーナは我が家の様にくつろいでいる様だ。

「やっと起きたんか」

「え?」

 目覚まし時計を見るともう昼の十二時だった。昨日は蛍光灯の明かりとナンドリーナの件で興奮して全然寝付けず、やっと眠気が襲ってきたのは夜中の三時を過ぎた頃だった。

「行くぞ、さっさと着替えろ」

「え? 行くってどこに? ていうか……」

「いつまでいるんですか?」と言いかけて言葉を飲み込んだ。

「なんや?」

「いえ……」

「とりあえず、はよ用意しろ!」

 シャラシャラと音をたてながら、ナンドリーナは手首に鎖のアクセサリーを巻いている。

「いや、でも今日は僕、段ボールを……」

 これ以上付き合っていられない。なんとかして帰ってもらわないと……。

「キス……」

 僕の言葉をさえぎるようにナンドリーナが言ったセリフに、冷や汗が全身から噴き出した。

「したよなぁ、幸之助。しかも寝てるかよわい女の子に」

「あ、えっと……それはその……あの」

 寒いはずなのに、ダラダラと汗が流れていく。

「警察行って無理やり家に閉じ込められて、強姦された言うてもええんやで」

 邪悪なナンドリーナの笑みに、背筋が凍っていくのを感じた。

「行きます! すぐ用意するから30分待ってください!」

「きっかり30分計るぞ。オーバーしたらデコピン一発」

「……そっそんなぁ」

 ナンドリーナはお構いなしに目覚まし時計を手に取ると、カウントダウンを開始した。僕は段ボールで足をぶつけながらも、急いで洗面所に向かった。

 どうしてこうなるのだろうか。逆らえない自分と、昨日キスをしてしまった自分に腹が立つ。




「うぅぅうう……」

 痛い……まだおでこがジンジンしている。ナンドリーナのデコピンはきっとコンクリートを砕く威力があると思う。

「惜しかったなぁ、三秒オーバーや」

 ナンドリーナは、時代劇の御代官みたいな悪い笑い方をしながら僕の前を歩く。僕は額を撫でながら、その後を着いていった。

 マンションの前の通りは、静かで誰も歩いていない。

「ねぇ、ナンドリーナどこ行くのさ?」

「私の分身取りに行くんや」

「分身?」

「分身や!」

「はい……」

 詳しく聞いても無駄みたいなので、黙って着いていくことにした。


 家から歩いてすぐの大通りでタクシーを捕まえ、心斎橋までやってきた。土曜日の心斎橋はたくさんの人で賑わっている。昨日も通ったあたりはアメリカ村、通称アメ村というらしい。ナンドリーナに教えてもらった。

 昨日の公園の前までやってきて、ナンドリーナの足が止まった。

「あ、ここって昨日の公園?」

「三角公園や。覚えとけ」

「へぇ、三角公園って言うんだ」

 昨日ここでナンドリーナと出会ったのだと思うと、不思議な気分になった。もう、何日も前のことの様に感じる。

「ちょっと、お前ここで待ってろ」

「え? あ、うん」

 そう言うと、ナンドリーナはどこかへ行ってしまった。僕は昨日座っていた階段に腰をおろし、しばらく行きかう人を眺めていた。

 大阪に来て、いきなりこんなことに巻き込まれるなんて思ってもみなかった。やっぱり、僕にとって、この街は恐怖以外の何ものでもない。

 深いため息が一つ零れ落ち、俯いた。嫌ならここでお別れすればいいものを、なぜか逆らえないナンドリーナの圧力というか、魅力というか。新しい扉をあけられたような。不思議な気持ちだった。

 少しして、ナンドリーナが戻ってきた。

「あかん、なかった」

「なにがなかったの?」

「分身や! 次の宛ていくぞ」

「あ、はい……」

 一体分身ってなんなのだろうか。アメ村を抜け、まだナンドリーナは足を進めていく。

「どこまでいくの?」

「おまえな」

「はい?」

「黙って着いてこれんのか!」

「す、すいません……」

 しばらく歩いていくと、オシャレなショップや、カフェがたくさん並んでいる通りに出た。

「ここは?」

「堀江や! 知らんのか、この田舎もんが」

 少なくとも大阪より東京の方が都会だと思うのだけど。というと、また何かされそうだったので黙っていることにした。

「あれだね、アメ村より落ち着いてる雰囲気だね」

「当たり前や。オシャレスポットやからな」

「なるほど……」

 堀江を抜け少し行くと、古いマンションが立ち並ぶ通りに出た。ナンドリーナの足が、古びた10階建てほどのマンションの前で止まった。

「ここは……?」

「行くぞ」

 ナンドリーナは、僕のことなんて気にせずマンションへ入っていく。

「あ、待って!」

 慌てて後を追いかけ、マンションの中に入った。

 エントランスは銀色の錆びた郵便受けが並び、年季の入ったエレベーターが設置されているだけだった。湿った古い匂いが充満している。

 ナンドリーナはエレベーターに乗り込んで、3階のボタンを押した。ものすごい音を立ててゆっくり上っていくエレベーターに、途中で止まらないかと少し不安な気持ちになる。

 五階につくと、一番端の303号室の前でナンドリーナが立ち止まった。

 ここはどこなのだろうか。もしかして、ヤバいところなのかもしれない。恐怖がじわじわと僕を支配していく。怪しい薬とか、葉っぱとか……そういうのの販売元とか……。引き返したい気持ちでいっぱいになって、足が震え始めた。

 ナンドリーナは腰に巻いているチェーンを外した。よく見ると、先に鍵が付いていた。慣れた様子で鍵を開けて、中に入っていく。

 僕も震える足をなんとか前に出して、後に続く。

 入口には大きなメンズの靴と、小さなレディースの靴が重なるように脱ぎ捨ててあった。八畳ほどの一ルームで和室。ごちゃごちゃと物が溢れ、綺麗好きの僕からすると汚い部屋に見えた。心配していた怪しいところでもないし、ヤバそうな人もいない。でも、ふと嫌な予感がした。

「ナンドリーナ……ここって……」

 胸騒ぎが大きくなっていき、僕はナンドリーナの上着の端を引っ張った。

「ピンク有毒白菜のマンションや」

「ひえぇっ!」

 昨日のパンチが鮮明に蘇り、奇声をあげたうえに腰が抜けて座り込んだ。血の味が口の中に甦った気さえした。

「情けないやつやなぁ。今あいつは仕事や。夜まで帰って来んわ」

「あ、あぁ……そうか」

 ナンドリーナは土足のまま中に入っていく。

「な、ナンドリーナ……土足はどうかと……」

「うるさいわ。別れた男の家なんか土足で入ろうが裸足で入ろうが一緒や」

「んな無茶な……」

 気にする様子もなく、そのままずかずか奥に入っていく。

 僕はちゃんと靴を脱いでそろえると、ナンドリーナの後に続いた。

「よかった! あった! 私の分身!」

 窓際に飾ってあるそれに、ナンドリーナが歓喜の声を上げて抱きついた。

「あの日ライブハウスに置いてきてもうたから心配しとったんや。ライブハウスにないって言われたから心配したけど、あいつ持って帰ってきとったんやな。えらいえらい」

 窓から漏れる光にきらりと反射して光ったそれは、真っ赤な真っ赤なエレキギター。

 なるほど。ナンドリーナの分身かと妙に納得した。

「一日ぶりやな」

 そうギターに話かけるように言うと、窓際に座りギターをチューニングしてその無事を確かめ始めた。愛しいわが子を見つめるような、優しい目で。

「ほら、幸之助。何ぼぉっと突っ立ってんねん、お前はそっちのタンスから私の服出して押し入れにある青いキャリーバッグに詰めんかい」

「ええっ! なんで僕が……」

「さっさとやれ。靴も忘れんなよ」

「はぁい……」

 僕は言われるまま押入れからキャリーバッグを見つけると、ナンドリーナの服を詰めだした。

 ナンドリーナの服は黒、黒、蛍光ピンク、赤、黒、赤……そして何よりも、出るわ出るわチェックのスカート。全部少しずつ色やチェックの模様が違うのだけど、でもどれも同じようなスカートだ。

「チェックのスカートだらけだね……」

「好きなんや」

 なおもギターのチューニングをしながらナンドリーナは言った。

「チェックって、色んな色が交差して出来てるやろ? ただ、いろんな色がごっちゃになっただけやったら、不快なもんや。でもな、チェックは色の並びや線のかけ方にルールを持たせることで綺麗な模様を作り出す。これってロックなんや。雑音の中にルールを持たせる……そしたらものすごいメロディーが生まれる」

 出会って数時間、初めてナンドリーナが真剣に話している。いや、まともな話をしている。それで僕は悟った。ナンドリーナの中で、チェックのスカートとロックは特別なものなのだと。

 僕は、色とりどりのチェックのスカートをバッグに詰めながら、ナンドリーナに興味が湧いているのに気付いた。不思議な魅力を持っていて、破天荒でドSで……僕はもっともっとナンドリーナについて知りたくなった。食べ物は何が好きとか、どんな癖があるのかとかなんでもいいから知りたくなったのだ。

「よし、できた」

 僕は大量のナンドリーナの荷物を詰め終えて、さっきまでギターをいじっていたはずの彼女を見た。

「できたよ、ナンドリーナ」

 ナンドリーナは分身を仕舞ったギターケースを抱きかかえたまま、じっと一点を見つめていた。その視線の先には真っ黒なエレキギターが立てかけてあった。

「ナンドリーナ?」

「ピンク白菜は、うちのバンドとよく対バンしてたバンドのギターやったんや」

 ナンドリーナは、ぽつりとつぶやくように切り出した。そして、抱えていたギターケースを床に置いて、煙草を取り出して火をつけた。

「たいばん?」

「ライブで共演することや」

 勢いよく煙を吐いて、ナンドリーナは続ける。

「あいつのギターを初めて聴いた時、胸が震えたんや。で次の瞬間に、あいつの目に引き込まれた」

 ナンドリーナはそこまで言うと、近くにあった灰皿で煙草をもみ消し、立ち上がって黒いギターの前に立った――


 ――次の瞬間。

 ナンドリーナが黒いギターを掴んだと思ったら、突然床に思い切り叩きつけた。     


僕の頭は一瞬で真っ白になった。何が起こっているのか、わけがわからなかった。

 バキッという鈍い音がして、すべてがスローモーションになった。黒いギターは見事に折れ、粉々になった破片が陽の光りを反射して、ナンドリーナのまわりでキラキラ輝いていた。

 真っ白な頭の中に、ただ一つ言葉が浮かんできた。なぜ、こんな言葉が浮かんできたのかはわからないけど、ただ僕はその光景が『綺麗』だと思った。



 数秒間沈黙が流れた。ナンドリーナも僕も、フリーズして一ミリも動かなかった。

「意外と簡単に壊れるもんやな」

 やっと動き出したナンドリーナは、あっけらかんとそういった。

「でも、すっきりしたわ!」

 僕はあまりの出来事に、まだ放心状態で声すら出ない。

「よし、満足」

 気持ち良さそうに伸びをしながら、ナンドリーナは窓の外を見た。と、いつもクールなナンドリーナの顔が一気に青ざめた。

「まずい、ピンク白菜帰ってきたぞ!」

 その一言でやっと我に返った。でも、次は背筋が凍っていくのを感じた。

「かかかか帰ってっててててきたって! いいいい今は仕事中じゃ……」

「とりあえず、逃げるぞ幸之助!」

 ナンドリーナがギターケースを背負って走り出した。

「ままま、待って」

 そのまま走りだそうとした僕を、振り返ってナンドリーナが思い切り蹴った。お腹に激痛が走る。ナンドリーナの靴は厚底で、蹴られるとすごく痛いのに。

「うおううううう……痛い……」

「ぼけぇ!! キャリーバッグに服詰めたやろ!」

「あぁっ……忘れてた……」

 僕は慌ててキャリーバッグの取っ手を掴み、引きずって走り出した。玄関で靴をつま先だけ入れ、部屋を出る。こんなことなら土足で入っていればよかった。

 廊下まで出てエレベーターの方へ行こうとした瞬間、ナンドリーナに襟首を引っ張られ、喉が閉まって目がぐっと前に出たような気がした。

「ぐえぇ……」

「このぼけ! エレベータでバッティングするやろが! 階段や!」

「あぁ……そそ、そうか」

 きびすを返して非常階段の方へ急いだ。

 雨風に長年さらされていたであろう、鉄の非常階段は錆びて今にも崩れそうに見えた。ナンドリーナはおかまいなしで跳ねるように階段を下りていく。僕は一瞬躊躇したが、意を決して階段を降りはじめた。キャリーバッグを引きずっていては逃げられない。僕は火事場のくそ力で頭上にキャリーバッグを持ち上げ、必死で階段を下りた。

 来た道をひたすら走った。買い物しているカップルも、スーツを着たサラリーマンも、ベビーカーを押すお母さんも追い越して必死で走った。

 こんなに走ったのはいつぶりだろうか。心臓が今にも破れそうなぐらい苦しい。

 アメ村の手前まで走ってきた頃には、もうふらふらだった。ビルの壁に背をつけてずるずると、二人ともその場に座り込んだ。

「き、きみは……はぁはぁ、なんでそういつもむちゃくちゃなんだ……こんな破天荒な……」

 僕が息も絶え絶えにそう言うと、ナンドリーナは額に手を当てて急に笑い出した。

「でも、おもろしろかったやろ」

 笑いながらナンドリーナが言った。

 さっきまで恐怖でいっぱいだった出来事が、思い出すとなんだかおもしろおかしくて、僕も噴き出した。

 二人して大声で笑った。通りかかった人たちが檻の中の珍獣を見るみたいな目で、僕らのことを見て通り過ぎていった。でも、少しもそんなことは気にならなかった。

 不思議だった。ナンドリーナのはちゃめちゃな世界の中に、僕もいつの間にか入り込んでいる、そんな気分だった。



 僕のマンションがある駅まで帰ってきた頃には、陽も落ちかけていた。

 駅のホームは、家路を急ぐ人がわれ先にと階段を下りていき、僕ら二人だけになっていた。

「ねぇ、ナンドリーナ。つまんない質問していいかな? この荷物って……」

 最後まで言い終わる前に、ナンドリーナが言った。

「幸之助の家に運ぶ」

「そうですよねー……」

 本当に愚問だったようだ。

「あのさ、ナンドリーナさ、家とか……帰らなくていいの?」

「家はない!」

「ない?」

「定住せえへんねん。遊牧民や」

「遊牧民って……」

 それは俗にいう、ホームレスでは? と言えるはずもない。

「じゃあ、男の家を転々と?」

「人聞き悪いな」

「すいません……」

「まあ、間違いではないけどな」

 これはもしかしなくても、僕のマンションに住み着こうとしているのだろうか。

「安心せぇ、次の男が見つかったら出ていくから。あと生活費もちゃんと入れるから」

「え、あ……うん」

 と返事をしつつも、次の男が見つかるまでナンドリーナが家に住むということが決定していることに気づいた。どうやら、僕に拒否権はないらしい。

 でも、本当に迷惑だとか、嫌だとか思っていない自分がいた。それどころか、不思議と今は少し楽しいかもしれないと思い始めていた。洗脳されているのだろうか。それとも、東京から出てきた孤独がそうさせているのか?

 駅を降りてすぐの大型スーパーの前を通りかかって、足が止まった。そして、何を思ったのか、僕は自分でも予想できない言葉を口にしていた。

「そうだ、ナンドリーナの歯ブラシとかいろいろ買いに行こう」

「おぉ、たまには気がきくな幸之助」

 にやっとナンドリーナが笑った。その笑顔を見たら、もう細かいことはどうでもよくなった。



 夕飯の食材を買いに来た主婦で賑わう一階の食品売り場で、カートを押しながら野菜コーナーを歩いていた。こうしていると、僕らはカップルに見えたりするのだろうか。

「なぁ、腹へったんやけど」

「そうだね。夕飯何にしようか」

「なんか作れるんか?」

「うん。僕料理得意だよ。ずっと自炊してるし」

「んじゃ、お前に任せる」

「わかった」

「ただし、ブロッコリーは嫌いやからいれんな」

「はいはい」

「じゃあ、頼んだ」

 ナンドリーナはそう言うと、ふらっとどこかの売り場へ行ってしまった。本当に猫みたいに自由気ままだ。

 玉ねぎとにんじん、ジャガイモが安い。今日はカレーを作ろう。野菜をかごに入れ、今度は歯ブラシの売り場へ向かった。僕が使っているのと同じメーカーの歯ブラシをかごに入れる。色はもちろんピンク。青とピンクの歯ブラシが並んでいるのが、昔から夢だった。まさか、こんな形でその夢が叶うなんて思ってもみなかった。……まあ、これが付き合っている彼女だったら完璧だったけど。

 精肉売り場で牛肉を見ていると、急にバサバサという音がして一気にカゴが重くなった。

「おも……」

 かごを見ると、ナンドリーナが外国産で着色料たっぷりの、体に悪そうな飴を七袋もカゴに入れていた。アメリカンチェリー味と書いてある。

「ちょっ……七袋もいらないでしょ」

「あほか、この飴あんま売ってないんやぞ。買いだめや。あ、あと……」

 顔の前にずいっと、ホットケーキミックスをつきつけられた。

「ご飯のあとに作れ」

 そう言ったナンドリーナがすごくかわいくて、何も言わずに牛乳と卵と蜂蜜を追加で買い物かごの中に入れた。



「なんやカレーか」

 出来上がったカレーを見て、ナンドリーナがつぶやいた。

「あれ、だめだった?」

「いや、カレー嫌いなやつおらんやろ。それにしても具がでかいな」

 ぐちぐちと文句を言いながらも、どんどんカレーを口に運ぶ。まだテーブルも出してないので、二人して段ボールを机替わりにしてご飯だ。

「おいしい?」

「まずかったら、食わん」

 まったく、天の邪鬼な答え方しかしないのだから。でも、それがナンドリーナなのだろう。最高の褒め言葉としてとっておくことにした。

 数分後、半分だけおかわりをしたナンドリーナはペロリとカレーを平らげた。

「ごちそうさん」

「お粗末様でした」

 するとナンドリーナが僕を睨みつけ、キッチンを指差した。

「ホットケーキ」

「えっ? もっ、もう?」

「ホットケーキは別腹や」

「別腹って……」

「つべこべ言わずにさっさと作れ」

「はいはい……」

「『はい』は一回やろ!」

「はい。すいません」

 もう、なんだかこうして言うことを聞くのにも慣れてきた。僕はどこまでドMなのだろうか。仕方なくキッチンへ行き、フライパンとボールを取り出した。

 ホットケーキミックスに卵、牛乳を入れ、だまにならないように混ぜていく。何年ぶりだろう。ホットケーキなんて焼いたのは。

 僕の家は姉と僕の二人姉弟で、小さい頃はよく姉におままごとや、人形遊びをさせられた(フィギュア好きはそのせいなのだろうか)。小学生の時、一時的に料理に目覚めた姉にいろんな味のホットケーキを試作させられた。きつね色になったホットケーキの表面を見ながら、そんなことを思い出していた。

「そろそろいいかな」

 ホットケーキをお皿に取り、上からバターを乗せハチミツをたっぷりとかけた。

「はい、おまちどうさま」

 出来上がったホットケーキをテーブル……もとい、段ボールの上に置いた。すると、みるみるナンドリーナの顔がほころんで、まるで子供の様に笑った。

 かわいいと、言いそうになって口をつぐんだ。また怒られると学習したので、これは僕の心の中にとどめておくことにしよう。

 ナンドリーナが、ホットケーキをフォークで一口サイズより少し大きめに切り、口に運ぶ。そして、頬に手をあて、じっくり味わうようにほおばる。よっぽどホットケーキが好きと見える。

「くぅ~っ! やっぱりホットケーキはうまいな。別格や」

 一口目を味わったあとは、次々と口にホットケーキを運び、あっという間に二枚もたいらげた。

「うまかった!」

「はい。お粗末様でした」

 空になったお皿を下げる。まだホットケーキのたねが残っているので、朝はホットケーキを焼こう。

 ナンドリーナはお腹を満足そうにさすると、スーパーの袋に手を伸ばした。

「よっしゃ、これで仕上げや」

 そう言いながら、袋からアメリカンチェリーの飴を取り出した。

「え? まだ食べるの?」

「飴や!」

 そう言って袋を破いて、ひとつ取り包み紙から出すと、赤い着色料たっぷりの飴を口の中にいれた。

「ナンドリーナ、よく食べるね、細いのに」

「そうか? こんぐらいだれでも食べるやろ」

「いや……食べないよ」

「よし、整頓しよ」

 ナンドリーナはガリガリと飴を砕くと、ブルーのキャリーバッグを開けて、中の服を取り出し始めた。もはや出て行く気は一ミリもないようだった。

 スカートを一枚ずつ取り出していくナンドリーナを見ていると、ふと今日の出来事が頭をよぎった。

「にしても、土足で家に入られてあげくに、ギターまでめちゃくちゃに壊されて、あいつ警察とか呼ばなかったのかな……」

「ないなぁ。私が入ったってわかってるやろうしな。それに、あいつはそんなことせん」

「へぇ……」

 えらくピンク白菜はナンドリーナに信用があるみたいだ。そんな良い奴には、僕は見えなかったけど……。

 そこで、ふと疑問が浮かんだ。

「ね、ナンドリーナはどうしてピンク白菜と別れたの?」

「なんや、気になるんか」

「そりゃ……あんなことするぐらいだから、相当恨んでるのかと。浮気とか?」

「いや、まったく恨んでない。浮気されたわけでもないし」

「冷めたとか?」

「それも違うな」

 ナンドリーナは、二個目の飴の袋を破いて口の中に放り込んだ。

「たとえばな、幸之助がリンゴになったとして……」

「どうしてリンゴ?」

「なんでもええやろ! みかんでも桃でも一緒や! 黙って聞け」

「はい……」

「幸之助がリンゴになったとして、隣に大好きなリンゴがなってたとする。仮にこのリンゴをさゆりちゃんと命名して……」

「さ、さゆりちゃん……」

 話の腰を折った僕に殺意に満ちた視線が突き刺さり、ピッと姿勢を正して口を閉じた。ガリガリとまた飴を砕く音が聞こえる。

「さゆりちゃんはとても綺麗なリンゴで、間違いなく最初に収穫されてしまう。離れたくない幸之助は、さゆりちゃんに傷をつけてしまいたいと思う。でも、傷のついたリンゴは売れない。だから、自分も傷つけて一緒に地に落ちて腐っていこう……これってさ、ある意味ホラーやん、しかも幸之助のエゴやん」

「んん……?」

 いまいち意味がわからない。ナンドリーナワールドだ。

「そんなことなるんやったら、私はそのまま離れ離れになった方がいいと思う」

「じゃあさ、先に傷ついて自分だけ落ちたら? 収穫されるの見なくてすむし……」

「アホ。それはアホのすることや。そんなにまでさゆりに本気になれるか」

「そうなの?」

「そうや」

 本日3個目の飴を口に放り込んだ。肝心なことがわからずじまいだ。

「で、結局なんでわかれたの?」

「わからんかぁ。修行して出直してこい」

 ナンドリーナはまた飴を口の中で飴を砕くと、立ち上がって煙草を吸いにベランダへ出た。

 わかるわけない。だってナンドリーナの世界なのだから。それでも、僕はなぜか納得してそれ以上聞こうと思わなかった。

 満月を見上げてナンドリーナがつぶやいた。


「ホットケーキもう一枚焼け」

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