第2話 猫と蛍光灯

公園の階段に座り、熱々のたこ焼きをおいしそうに頬張るこの天使は、ついさっき僕を利用して男と別れた。

「なんやねん、お前も食え! そこのたこ焼きうまいねんで!」

 僕は、自分の手に持っている六個入りのたこ焼きに手がつけられないでいた。ていうか僕がさっき、すぐそこのたこ焼き屋で買ったたこ焼きだが。というかなぜ奢っているのだろうか……。

 たこ焼きを1つ口に入れてみると、さっきの一撃で切れた口の中の傷にソースがしみる。

「あう……っうぅ……」

 声にならない声が絞り出され、たこ焼きを吐きだしたくなったが気合で飲み込んだ。

「あ、あの、ソースがしみるからどうぞよかったら食べてください」

「ええの? サンキュー」

 空になった容器を僕に持たせると、新しいたこ焼きを受け取りおいしそうに食べ始めた。黒い天使はどうやら悪魔なのかもしれない。

「名前!」

 口にたこ焼きを含んだままそう天使……いや悪魔が問いかけた。

「え?」

「だから、名前や! さっきから『え?』って聞き返すな! イライラする。今度言うたら爪楊枝でつくぞ!」

「ごごっごめんなさい。大沢幸之助です」

「歌舞伎役者か」

 ぽつりと悪魔がつっこんだ。僕はこの歌舞伎役者のような名前が嫌いだった。よくいじられるし……。

「すいません……」

 なぜか謝罪の言葉が口から零れ落ちた。

「なんどりいな」

「え?」

 ギロッと睨まれて爪楊枝で手の甲を刺された。

「痛っ……!」

「私の名前や」

「ナンドリーナ……? 本名?」

「あったりまえやろ! なめてんのか!」

「いっいえ……」

 やはりハーフか日本在住の外国人なのだろうか。ミドルネームみたいな? でもそれ以上は聞けそうな雰囲気ではなかったので押し黙った。

「よっしゃ、お腹いっぱい」

 天使は見事十一個のたこ焼きを完食した。

「お腹いっぱいになったし、帰るかぁ!」

 すっくと天使が立ち上がり、僕は心底ほっとした。やっとこのはちゃめちゃな時間から解放されるのだ。

「じゃあ、僕はこれで……」

 そう言って僕も立ち上がり、歩き出そうとした瞬間だった。

「よし、帰ろうか幸之助」

 天使が僕のネクタイを掴んで引っ張った。

「ぐえっ……! くっ、くるしい! ちょっと!」

「家に泊めろ」

「ええっ!?」

 突然の言葉に、頭が真っ白になった。

「行くとこないねん。だから泊めろ」

「そんなむちゃくちゃな!」

「もっと絞めてもいいんやけど」

 ネクタイがさらに首に食い込む。一瞬お花畑が見えて、命の危機を感じた。

「ご……ごめんなさ……い……わかりま……した……」

 なんとかそう答えると、やっとネクタイの手が緩んだ。

「よしよし。ほんじゃ行こうか」

 彼女は公園から僕を連れ出すと、道路のところで立ち止まりさっと手を挙げた。

「タクシー」

 電車で帰るつもりだったのに、そんな考えなんて知る由もなく彼女は僕をタクシーに詰め込んだ。




 自宅マンションまで到着したはよかったけれど、僕の中の恐怖はじわじわと大きくなっていた。

「えっと……か、鍵が見当たらないなぁ……と……」

 マンションの部屋の前で、鍵を開けるのをためらっていた。彼女は一体何者で何がしたいのだろうか。

 もしかしたら、僕を殺しに来た暗殺者かも……。とつまらない妄想をしていると、後ろから彼女が背中をつねった。

「いたあぁい……」

「はよ開けろ」

「はい……」

 ノーと言えない圧力に負けて、実はもう見つけていた鍵を取り出し、部屋のロックを解除した。

「じゃますんで」

 ドアを開けるなり、家主の僕よりも先に部屋へあがり込んだ。

「ええマンション住んでるなぁ。なんや段ボールだらけやけど」

 そう言いながら、部屋を見回しベランダの近くの床に座った。そしてベランダの窓を開けると、煙草を取り出した。

「あの……たばこ……」

「吸っていいな? な?」

 無言の圧力を感じてこくりと頷いてしまった。

 彼女は煙草に火をつけると、フーッと煙を何もない空間に吐き出した。

「引っ越してきたばかりだから何もないんだけど、ホットミルクでいいかな?」

「おぉ、気が利くな。頼む」

 キッチン用品とかかれた段ボールの中から鍋を引っ張り出し、ミルクを火に掛ける。しばらくふつふつと沸いてくるミルクを見つめていた。

「なんやこれ! こんなん好きなんか」

 彼女の言葉に何かとても嫌な予感がして、すぐに声の方を見た。すると段ボールの中から、大事なアニメのフィギュアを取り出していじくりまわしていた。

「こんなん集めてんのかぁ、幸之助」

 僕の大好きな学園アニメの主人公、『緑ちゃん』の腕があらぬ方向を向き、足が片方もげた。

「うわっああああああ! 止めてください! これ限定発売の超レア物なんですよっ!」

 慌てて駆け寄るとフィギュアを奪い返した。

「なるほど。幸之助童貞やろ?」

「なっ!」

 言い返したかったけれど、図星の僕は何も言えずに黙り込んだ。

「童貞かぁ。やっぱりなぁ」

 そう言って挑戦的に見つめるその瞳に、胸が高鳴った。そして、初めてこのマンションで美人な女の子と二人きりだということを実感してしまった。

 生唾が出てきて、慌ててごくりと飲み干す。あまりにもはちゃめちゃなことばかりで、ちゃんと見ていなかった彼女の姿を改めて頭からつま先まで見てしまった。

スレンダーで真っ白な肌。整った顔。真っ赤な唇……。

「なにやらしい眼で見てんねん! ボケ!」

 僕の手の甲に鋭い痛みが走った。

「痛っああああああああああ……!」

 見て見ると、僕の手の甲には爪楊枝が刺さっていた。小さな赤い点がくっきりと残っている。

「半径一メートル以内に近寄ったら爪楊枝で刺すぞ」

 ちゃっかりたこ焼きの爪楊枝を持って帰ってきていたのだ。

「は……はい。すいません」

 なんだかほっとしたような、残念なような複雑な気分だった。ジンジン痛む手の甲をさすりながら、言われた通り半径一メートル以上距離をとった。

「それより幸之助」

「はい?」

「ミルク。ふいてる」

「あぁああ!」

 慌ててキッチンに戻り、火を止める。

「焦げてない。よかった」

 今度は食器の段ボールからマグカップを出し、出来上がったホットミルクを注いだ。

「できたよ、ホットミルク」

 ホットミルクを手渡すと、両手で包み込むように受け取った。

「ホットミルク好きやねん」

 フーフーしながらミルクを口に運ぶ彼女の顔が猫みたいで可愛い。

「ナンドリーナさんっていくつ?」

 このままここに泊まるわけだから、少しはコミュニケーションを取ってみよう。おそるおそる会話に試みてみる。

「二十三歳。っていうか幸之助さ、その敬語とかやめへん? 堅苦しいわ。名前も呼び捨てでええし」

「あ、ああ、ごめんなさい」

「幸之助は? いくつ?」

「あ、えと二十五歳」

「ふぅん。サラリーマン?」

「あ、うん。広告代理店で、一応……」

「ふーん。どっから引っ越してきたんや?」

 ナンドリーナがまだ未開封の段ボールを足でつついた。

「東京だよ」

「どうりで腹たつしゃべり方やと思たわ。うざ」

「うざ……いかなぁ……。あはは……」

 ナンドリーナが程よく冷めたであろうミルクを一口飲むと、のどが上下に動いた。それがエロティックに見えて、よからぬ気持ちが湧きあがり、かぶりを振って追い出した。

「あの、ナンドリーナは仕事は何してるの?」

「ギタリスト」

「ギタリスト……って、あのギタリスト?」

「どのギタリストがあるねん! なんや、ギタリストは職業ちゃうてか?」

「い、いえ! そんなこと言ってませんってば……!」

 爪楊枝が攻撃体勢に入ったので防御体勢を取った。

「そ、それでジャンルは?」

「ロック」

 ふてぶてしく答えると突然すっくと立ち上がった。

「シャワー!」

「え、あ、あのドアのとこ……」

 ナンドリーナは僕が答えるのと同時に、シャワーの方へ向かった。

「タオルは?」

「あ、はい!」

 タオルの入った箱はどれだっただろうか。早くしないとまた怒られるので必死で段ボールを探して見つけると、ナンドリーナに手渡した。

「のぞくなよ」

 そう言い残すと、ナンドリーナはシャワールームのドアをぴしゃりと閉めた。

 これは一体どういう展開なのだろうか。女の子が僕を利用して男と別れ、家に無理やり案内させて、シャワーを浴びている。

 浴室から漏れてくるシャワーの音と湯気、そしてほんのりとシャンプーの香り。もんもんと何かが込み上げてきて、頭の中がピンク色に染まっていく。

 僕は燃え上がってくる煩悩を鎮める為に、ベランダに出た。外の冷たい空気が熱くなった頬を冷やし、僕のテンションを下げていく。なんだか落ち着いた。

 ふとナンドリーナの吸った煙草の吸殻が落ちているのに気付いた。

「あーあ。こんなところに捨てて……」

 吸殻を拾うと吸い口が濡れていた。その瞬間、冷めていったはずの僕の煩悩がまた燃え上がってきた。

 僕はいったい何やっているのだろう。突然現れてめちゃくちゃした女を家に泊めてやるなんて、なんて人がいいのだ。普通なら手を出したっていいくらいだ。何をおとなしくしているのだろう。もしかしてナンドリーナもそのつもりで……。

 そう思うと、もう足は勝手に前に出ていた。シャワーの音の方へ吸い込まれていく。僕は何をしようとしているのだろうか。そう思いながらも足は止まらない。

 浴室のドアの前でドアノブに手をかけた瞬間――

 ――ガンッと鈍い音がしたと同時におでこに激痛が走った。

「っつうぅぅぅ……」 

 ちょうどナンドリーナもドアを開けたのだった。僕は額を抑えたままその場に崩れ落ちた。

「何してんねん」

 虫けらを見るような冷たい目線で見下ろすナンドリーナに、なぜか胸が高鳴る。

「半径1メートル以内近づくなっていったやろ」

「はい……すいませんでした……」

「言い忘れてたけど、なんかパジャマになるもん貸せ」

「はい……」

 結局僕はこうして大人への階段を登ることもなく、すごすごとリビングへ退散した。

 ナンドリーナに言われた通り、段ボールの中からトレーナーとジャージを取り出し、シャワー室の前に置いた。僕も着替えを済ませ、シャワーは明日の朝浴びるかなんてぼんやりと考えていた。

 しばらくして、ナンドリーナがシャワーから戻ってきた。僕のジャージはナンドリーナにはちょっと大きかったみたいで、袖から指先がちらりと覗き、それが妙にぐっときた。また僕のピンク脳が動き出しそうになり、見つからないように太ももを自分でつねった。

 そんなことを知らないナンドリーナは、濡れた髪を拭きながらベッドの上に座った。

「眠い!」

「あ、そうだね。もう夜も遅いし、そろそろ寝る?」

「寝る!」

 そう言うと、ナンドリーナは濡れた髪のままベッドに横になって布団をかぶった。

「え、あの、髪乾かさないの?」

「めんどい」

「そですか……」

 僕の枕が濡れるから申し訳ないという発想は、ナンドリーナにはないらしい。

「おやすみ」

「え……」

 あたりは段ボールの山、山、山。僕の寝るスペースも、スペースがあったとしても布団がない。

「ちょ……あの、僕は一体どこで寝ればいいんでしょう」

 ナンドリーナはめんどくさそうに布団から手を出すと、床を指差した。やっぱりそう来た。

「あの、床フローリングだし、寒いし……」

「段ボール」

「え?」

 今たしかに段ボールと聞こえた。

「段ボール意外とあったかいんやで。ほれ、毛布ぐらいはくれてやるわ」

 けたけたと悪意のある笑声をあげながら、毛布を僕の頭にかぶせた。

「そんな……僕ん家なのに」

「文句あんのか?」

「いえ、ないです……」

 ナンドリーナに何か言われるたびに、なぜか口答えできない。今日はっきりした。僕はきっとドMだ。それでもってナンドリーナはドSなのだ。気づけば完璧な主従関係が出来上がっている。

 仕方なく大切なフィギュア達を段ボールからクローゼットに一時避難させ、砕いて床に敷いた。寝転んでみると本当に意外と暖かかった。駅で寝ている人が寒くないのかなと思ったことがあったけど、段ボールがあることでかなり暖はとれているのだとわかった気がした。

「じゃあナンドリーナ、電気消すよ?」

 蛍光灯の紐に手をかけた瞬間、ドスッという鈍い音と共にお腹に激痛が走った。見ると、ナンドリーナの足が布団から伸びて僕のお腹にめり込んでいる。

「げほっ……けほっ……なっ、何するんだよ!」

「電気は消すな!」

 殺意の増したナンドリーナの顔をみて、僕は速やかに蛍光灯の紐から手を離した。

「でもどうして?」

「幸之助」

「え?」

「もう一発いく?」

「結構です……」

 よっぽど電気を消されたくないらしいし、その理由も聞いてはいけないようだったので諦めて僕も段ボールに横になった。ナンドリーナはそのまま壁の方をむいて、布団を深くかぶった。

 数分間、沈黙が流れる。先に沈黙を破ったのはナンドリーナだった。

「幸之助」

「なに?」

「ずっと気になってたんやけど、さっきからなんで私のことフルネームで呼ぶん?」

「え? フルネーム?」

「だから……」

壁を向いていたナンドリーナが起き上がり、こちらを向いて口を大きく開けてはっきりと発音した。

「納・戸・莉・衣・菜って」

「なんど……りいな?」

 ハーフか日本に住んでいる外国人だと思い込んでいた。あまりにも日本人離れしたきれいな顔だったから、余計にそう思ってしまっていた。

「ぷっ、あはははははっ……」

 おかしくなって思わず僕は噴き出した。

「なんやねん! 気色悪いなぁ」

「ごめん、でも僕てっきりナンドリーナって外国名かと思ってた。日本に住んでる外国人か、ハーフだと思ったよ。納戸莉衣菜だったんだ」

「はぁ? あほちゃうか。正真正銘の大阪府民や! 生まれも育ちも親もな!」

 そう言い終わると、ナンドリーナの顔がみるみるにやけていって、耐えきれなくなったのか急に噴き出した。

「あほやろ、おまえ! 天然!」

 今までのたくらみ笑いとかじゃなくて、純粋な笑顔だった。

 その笑顔がすごくかわいくて僕は思わず……。

「笑顔、可愛いね」

 その瞬間ナンドリーナが真顔に戻った。

「お前、むかつく」

「えっ……」

 ナンドリーナはギロッと僕を睨むと、また壁を向いてしまった。これはまた怒らせてしまったのだろうか。

「……ていうか、これから私のことはナンドリーナって呼べ」

 ナンドリーナから返ってきた言葉は、意外なものだった。

「え? なんで?」

「なんでもどうしてもないねん。おもろいからや」

「おもろいから……」

「おもろかったら、それでええんや!」

「あ、はい……」

 それが大阪人のノリというやつなのだろうか。

 あおむけになると、蛍光灯がまぶしくて目の奥が痛くなった。思わず目を閉じると、蛍光灯の丸い残像が赤や青や黄色になって浮かび上がる。

 これは、真っ暗にして寝る派の僕にはだいぶきつい。横を向いて毛布を目深にかぶって光を遮った。それでもなんだかまぶしい気がして、今度は毛布にもぐりこむ。そんな風に三十分くらい格闘したが眠れなかった。毛布にもぐっていたせいで汗をかき、喉もからからになっていたので水を飲もうと起き上がった。

 ナンドリーナが寝ているベッドを見ると、ゆっくりと布団が上下に動いていた。眠ったのだろうか。

 そっと足音を立てないようにベッドに近づいた。息を殺して覗いてみると、ナンドリーナは炬燵で暖をとる猫みたいに丸くなって寝ていた。気まぐれで気が強くて自由で、ナンドリーナは猫に似ている気がした。

 綺麗な横顔はまるで人形の様で、長いまつげが小さく揺れていた。

 あまりにも、美しいその寝顔に僕の心がざわざわと騒ぐ。触れたい……どこに? 透き通りそうな白い肌? 違う。真っ赤な……。

 僕は次の瞬間、自分でも想像のつかない行動をとっていた。まるで魔法にかかったみたいに、ただそこに吸い込まれていた。

 暖かくて柔らかくて、不思議な感触。僕の心臓は今までにないぐらいに脈打っていた。顔も耳まで熱くて、目はうるんできて……。

 ナンドリーナの顔がすぐそこにあって、ナンドリーナの唇と僕の唇が重なっている。ふわふわと足元が浮かんできて、まるで夢心地だった。

 唇が離れて、ひんやりとした空気が僕の唇を冷やしていく。

 やっぱり僕のピンク脳は鎮まってなんてなかった。無防備なナンドリーナにこんなことをするなんて……。

 僕が後悔の念に駆られていると、布団の中から爪楊枝を持った白い手がぬっと出てきて、戦慄が走った。そして目を閉じたままのナンドリーナがぽつりと言った。


「次近づいたら爪楊枝で刺すぞ」

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