n番目の彼氏が来る前にやっておく、とある一つのこと

三衣 千月

これが、私のいつも通りの日常。

 おうち映画の準備をして、ポップコーン片手にソファに座っている秀くんの長い足の間に座ってそのままもたれかかる。

 ここが私のいつもの指定席。私はこれを彼氏ソファと呼んでいる。別名、私をダメにするソファとも。だって抜け出せないんだもん。居心地が良すぎて。これさえあれば、ワンルーム家賃4万円の狭いアパートも極上のシアタールームになる。


 ぽん、と秀くんの手が私の頭の上に乗るのがとても嬉しい。

 その手をとって、すすっと膝の上まで降ろしてお気に入りのクッションのように抱える。


「へへへ。シートベルト」

「なんだそりゃ。映画館にシートベルトねえだろ」

「いいの! こうしたいんだから」


 ぶっきらぼうに聞こえるけど、だからと言って手をどけるでもなくそのままにしてくれるのが秀くんの優しい所だ。他にも素敵なポイントを数え上げればキリがないけれど、ひとつひとつ挙げていたらせっかくの映画が終わってしまうので今は割愛。レンタル開始したばかりの最新作で、前々から一緒に観ようって約束してたやつ。


「これ、ゲスト俳優であの人出るんだよね? 秀くんが好きな……えーと、ジョン・コップマンだっけ」

「ん……そうだったか? よく覚えてんな」

「ふっふっふ。これも愛というものなのだよ」

「るせえ、始まんぞ」


 映画館で上映していた時には都合が合わずに一緒に観に行けなかったけれど、こうして二人きりで鑑賞するのもまた良し。話題作だったこともあって二人とも夢中で、観終わった時には夕方だった。


   ○   ○   ○


 ふと、スマホの着信ランプが光っていることに気づく。

 表示されているメッセージを見て一気に血の気が引いた。メッセージの受信は1時間ほど前で、そこには『仕事が思ったより早く片付いた。ケーキでも買ってそっちに行く』と彼氏からの想定外の連絡が記されていた。


 待って待って待って。

 今日は遅くなるって言ってたのに! やばいやばいやばいやばい。


 えっと、メッセ来てたのが1時間前だから、電車乗って、ケーキ買ったとして……待ってほんとにヤバい。


「お、どうした? 明里」

「なななななんでもナイ! ねえ秀くん、喉かわいてない!? コンビニとか行く予定あったりしない!?」

「いや別に。おうち映画にはコーラでしょっつってデカいペットボトル買ってたろ。まだ半分以上あるからそれ飲みゃいいだろ」


 あー! バカ! 私のバカ!!

 前にバレた時にとんでもない目にあったから絶対に安全な時だけにしようと誓ったのにどうしてこんな日に限ってぇぇぇ!!

 なんとかして消さないと……ッ! 彼氏が来る前に!


「明里、もしかしてお前――」

「あー! あー! ソウイエバ、カイワスレタモノガアッタナー!!」

「棒読みどころじゃねえな。大ぶりの枝か、さもなきゃ大木として育ってんだろ」


 ぱたぱたと申し訳程度にコンロが一口だけあるキッチンに行ってこれみよがしに冷蔵庫を開ける。


「やっぱりなー、明日の朝ごはんに使うジャムがないなー、大変だなー!」

「たっぷり残ったジャム瓶振り回して何言ってんだよ」

「予備? 備えあれば憂いなしっていうか、備えあれば嬉しいというかですね――」

「ダメだ」


 秀くんが距離を詰めてきて冷蔵庫を閉める。壁ドンならぬ冷蔵庫ドン。顔が近い。嬉しい。いや嬉しいけれども! 今はそれどころじゃなくて!

 いつも優しい秀くんがちょっと強引、でもそんなところもス・テ・キ……


 逃がさないと言わんばかりに腕に抱え込まれ思わずキュンとしたその瞬間。

 ガチャリと鍵の外れる音がして、玄関ドアが開いてしまった。


 秀くんが私を抱え込んだまま大きく溜息をつく。


「やっぱりな」

「あー……私、絶体絶命……」


 扉を開けて入ってきたのは、秀くん・・・。玄関で一瞬固まった私のスイート彼氏さまは、すぐさま状況を理解して言い放った。


「明里、お前また並行世界の俺を連れてきたのか!」

「よう、俺。逃げようとしたから現行犯で捕まえといたぞ」

「サンキュ、俺。あとで一緒にケーキ食おうぜ」

「わーい、私モンブランがいーなー!」

「うるせぇ」

「まずはお説教だ」

「秀くんの声が右と左からステレオで響く……幸せ……」

「反省しろ」


 ですよねー。流れで誤魔化されたりしてくれませんよねー。

 だって会えない時間がさみしいんだもん。並行世界で暇な秀くんがいたら、ちょこっと連れてくるくらい別にいいと思うんだけどな。

 秀くんは秀くんだから別に浮気じゃないし。


 でも、なんで並行世界の秀くんは並行世界から呼ばれた側だって分かったんだろう。

 うまいこと誤魔化して外に連れ出して元の世界線に戻せば完全犯罪成立だったのに……


「明里。全然反省してないな?」

「してますぅー。ちゃんと正座してるもん」

「あのな。本当に危ないんだぞ。並行世界なんていくらでもあるんだから、下手に世界が繋がったら――って何回目だこの話」

「8回目です」

「そういうことじゃない」

「ドヤ顔で言うことでもねぇよ」


 変な能力だなと自分でも思うけど、ちゃんと用法容量を守って適度に使ってますぅー。


「ねえ、そんなことより……」

「そんなことって言ったか今」

「せめて反省のフリだけでもしろ」

「秀くん、途中で世界線を移ったって気づいてたの、どうして?」


 秀くんズはお互いの顔を見合わせて、やれやれと溜息をついた。そうだぞ。お説教しても無駄なんだから。しばらく目と目でアイコンタクトしてから、並行世界の秀くんが口を開いた。え、ちょっと待って目と目で通じ合うのズルくない? 私は? 私も混ぜてよ彼女なんだけど私。


「……映画」

「映画? 面白かったけど? 私のパーフェクトプランでは後でこっちの世界の秀くんとも観るつもりだったけど」

「俺の世界じゃジョン・コップマンは降板してんだよ。代役騒ぎでちょっと話題になった」

「えー! そんな違いがあるなんてずるいー!」

「だから危ないって言ってるだろ。ちょっとしたズレが大事件に繋がることもあるかも知れなんだから」


 そんなコト言われてもー。

 でも、謎は解けた。スッキリした! それに、そろそろお説教タイムを終わらせたい。いや、終わるはずなんだけどな。


 秀くんズのお小言を右から左に聞き流していると、クローゼットの隙間から光が漏れてきた。

 来た! これを待ってた!


「ゴメンね! お小言はまた今度聞くから!!」

「えっ」

「あっ、明里! 待て!」


 すぐさまクローゼットに飛びつき溢れる光の中に飛び込む。


「待てと言われて待つ彼女はいないもんねー!」


 私の捨て台詞は光の中でエコーをかけて響いた。


   ○   ○   ○


 倒れ込むようにクローゼットから飛び出した私の前には、ひらひらと手を振る私がいる。


「いらっしゃい私。またバレたの?」

「ありがとう私! いやー、持つべきものは私だよ、うん」


 並行世界はたくさんある。

 それはつまり、私もたくさんいて、同じ能力を持った私もいるということだ。


 秀くんにも教えていない私たちの決めごとの一つ。

 『冷蔵庫からジャムが無くなったら私を喚ぶ合図』


 いやあ、おかげで助かった。とりあえず逃走成功だ。


「持ってったジャム返してくれる? ちょうど食べようとしてたんだけど」

「あ、ごめん。冷蔵庫に入れちゃった。こっちからもっかい喚べばよくない?」

「それもそうだ。でも疲れちゃったから、そっちの私やってよ。自分を喚ぶの疲れるんだから」

「確かにー」


 冷蔵庫を開けながら、ふと思ったことを聞いてみる。


「ねえねえ。あの映画さ、あるじゃん。秀くんと観ようって言ってたやつ」

「あぁ、うん。面白かったよねあれ」

「ジョン・コップマン出てた?」

「出てた出てた。だって秀くんの好きな俳優さんじゃん」

「コップマン降板した世界もあるんだって。今日喚んだ秀くんのとこがそうだった。それでバレちゃった」

「何それちょっと観たい」

「ね、観たいよね」


 どの世界であろうとも、私は私なのだ。趣味も合うし、好みも合う。秀くんが彼氏じゃない世界もあるのかな。あんまり考えられないけど。私は、私たちはどの世界であってもきっと秀くんに魅力を感じるに決まってる。


 冷蔵庫を開けて、中身を覗く。うん。冷蔵庫の中身もやっぱり大差ない。

 私の世界の冷蔵庫からジャムを取り寄せて扉を閉じる。並行世界がいくつあっても、どうしてだか自分の世界は判断できるし、同じ世界のものはちゃんと理解できる。

 だからそんなに心配ないと思うんだけどなー。秀くんってば心配性。でもそんな所もステキ。


 ぱたむ、とドアを閉じて私の方を振り返る。


「はーい、ジャム戻しといたよ――って、秀くん!?」

「ごめんねぇ、私。次私が逃げてきたら喚んでくれって頼まれてて……」

「裏切った!! 裏切ったのね!? 私!!!」

「秀くんに頼まれたら断れるワケがないでしょ!」

「そうね!」

「即答かよ。おい、コントやってないで帰るぞ」


 間違いない。私の世界の秀くんだ。感覚で分かるし、買ってきてくれたケーキの箱持ってるし。


「明里。いや、えーと、手伝ってくれた方の。これ、お礼に」

「ありがとー!! 秀くん大好き!」

「あー! それ私の秀くんが買ってきてくれたのに!」

「こっちの明里は悪い事したからケーキは抜きだ」

「そんなぁぁぁ……でもちょっと怒ってる秀くんも好き」

「分ぁかるぅ」

「二人してバカ言ってんじゃねえ。疲れるからさっさと帰してくれ」


   ○   ○   ○


 悪戯をした猫を掴むように、首根っこ掴まれて私と秀くんは元の世界に戻された。さっきまでいた秀くんも、元の世界に帰したらしい。


「まったく、ちゃんと反省したか?」

「してませんがケーキのことは非常に残念です……」

「はぁ。本当に危ないんだからな。ほら、映画観るぞ。俺はまだ観てないんだ」

「あのね、コップマンが捕まるシーンが超良かった」

「こら。ネタバレほんとやめろ」

「はーい」


 ちょっと変な能力があったって、私は私だし、秀くんは秀くんで、つまりこれが私たちの普通だと、そう思う。

 この数日後、並行世界がねじれて全部の世界の私と秀くんが集まっちゃって、どの世界の秀くんが一番かトーナメントが開催されたりしたけど、それはまた別の話。

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