上の空

オオキ ユーヒ

1.

 

 僕には好きな人がいる。

 今となってはだれにも言えない気持ちだ。




 夏らしいそよ風が吹いて、どこかから蛙の鳴き声がグァグァと聞こえる。


 蚊取り線香の匂いで夏を感じる。


 あなたは今日も縁側で、冷えた麦茶を飲みながら月明かりを頼りに本を読んでいる。


 眠る前に本を読む以前の日課が戻ってきていた。

 それを隣で眺めるのが僕の日課だった。


 僕はあなたの隣で寝そべって寛いでいる。

 普段はポニーテールに結っている髪の毛は、今は下ろされていた。


 もみあげと襟足のおくれ毛が好きだから、ちょっと残念。


 僕の視線にも気づかずに、あなたはページをめくる手をゆるやかに進める。

 その横顔は、とても落ち着いている。


「よかった。もう大丈夫そうだね……」


 安心した僕がそのしなやかな指先でぺらりと捲る紙の音を聞きながら、耳を動かしてうとうととし始めたころ。


「ソラ、もう寝ようか」


 あなたは僕の方を見ずに、たくさんの星が光る夜の空を見上げながら呟いた。


 漢字で書くと『空』と書くみたいだけど、僕にはよくわからない。

 その形しか認識してないけど、音の響きだけは判別できる。


「いつでも見ることができる空。いつでも見守ってくれる存在。空のように自由な性格で、雲みたいな模様が背中にあるから、あなたの名前はソラだよ」


 昔、名前の由来を説明してくれたけど、それも僕にはよくわからなかった。


 でも、大好きな人がつけてくれた名前だから、お気に入りだ。


 僕はあなたの綺麗な横顔をじっと見つめた。


 サラリとした艶のある黒髪。

 ぱっちりしたお目目と長いまつ毛。

 薄い唇が映える真っ白な肌。


 毎日見ていたけれど、あなたはいつ見ても素敵な人だと思う。猫の僕が目を離せなくなってしまうくらいだから。


 僕はうわそらになってあなたに見惚れた。


・・・


 その日は、一日中土砂降りの雨が降っていた。


 木造の日本家屋は滝のような雨に打ちつけられて、雨樋あまどいから水が溢れ、庭先で跳ねている。


「……ソラ」


 震えた嗚咽混じりの声で、あなたはずっと僕のことを呼んでいる。


 座ったまま顔を覆って泣きじゃくって、何度も何度も呼んでいる。


 その目から溢れる涙を、僕はどうすることもできない。


「ごめんね」


 心ではそう思うけれど、僕は人間が言うところの猫という動物らしい。


 だから、言葉にしてあなたに伝えることはできない。


 涙を拭ってあげることもできない。


 気休めでもいいから僕はあなたを悲しませたくなくて体を寄せて鳴いた。


 それでもあなたの涙は止まらなかった。


 僕の視界に映る景色も少しずつ滲んでいった。

 線香の煙が空に向かってのぼっていた。


・・・

 

 それから10日の時間が経ち、あなたは少しずつ泣くことが減った。


 それでも時折寂しそうにして、一筋の涙が頬に伝うこともあった。


 僕の心はその度に痛んだ。

 自分の無力さを憎んだ。

 それでもどうしようもないから諦めるしかなかった。


 あなたが出かけるのを見守って、帰ってくるのを待って、家の中ではあなたに着いてまわった。


 いつもずっと一緒にいた。


 あなただけをずっと見て、あなたのことだけを考えていた。


 悲しい思いにも、寂しい気持ちにもなって欲しくなかった。


「いってきます」


 あなたは今日もどこかに出かける。


 僕は「ナー」と鳴いて見送った。


 あなたの返事はなかった。


・・・

 

 30日も経つと、笑顔が多くなった。

 花が咲いたように明るい笑顔だ。


 誰かと電話をして、楽しそうに時間を忘れて朝まで、なんてこともあった。


「そういえば、ソラがね──」


 僕の話題になったこともあった。


 まだ悲しさは残っているみたいだけど、涙は出てないから、少しずつ心が立ち直っているのかもしれない。


 でも時々、疲れ切った様子で帰ってきて、ご飯も食べないで寝てしまうのは少し心配だ。


「僕がご飯を作ってあげられたらよかったのに」


 そう思うけど、肉球の手じゃ難しい。

 包丁もフライパンも扱えない。

 冷蔵庫も上手く開けられない。


 あなたを見ていることしかできない。


 人間っていいなあ、と何度思っただろう。


 そしたら僕は世話されるだけじゃなくて、あなたのことを支えてあげることもできたのに。


 あなたに何か返すことができたのに。


・・・

 

 パタンと本を閉じる音がした。


 見惚れていた僕は、はっとうわそらになっていた意識を戻した。


 あなたはゆっくりと立ち上がって、畳に敷かれた布団に入って眠りにつく。


「もう背中を撫でてはくれないんだよね」


 そのことが無償に悲しくなった。


 でも、仕方がない。


 僕はお尻を上げてグッと伸びをしてから眠っているあなたを眺めた。


 吐き出される静かな寝息と一緒に 胸元が上下している。


「……ソラ」


 あなたは僕の名前を呼んだ。

 その音を聞き取った僕の耳がピクリと動いた。

 でも、あなたは寝たままだ。


 そばにいることに気づいてくれたのかと思ったけど、そんなことはないみたい。


 ずっと前の僕なら、枕元に尻尾ごとまるまって、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、思いと同じくらい体を寄せて寝ていた。


 でも、もうあなたの体温を感じることはできない。


 あの土砂降りの日から48日が過ぎた。


 立ち上がった僕の足元はぼんやりと透けている。


 鏡を見ても姿は映らない。


 前とは違って、僕はあなたとは違う世界にいるみたい。


 あなたが泣いていた土砂降りのあの日。


 僕は幽霊になったから。


 誰からも見てもらえないし、声を聞いてもらうこともできない。


 だから僕は、もうあなたに触ってもらうことはできない。


 鳴らない風鈴。

 時間が止まったように感じる音の無い木造家屋。

 静寂の夜には、当然僕の音も無い。


 水道の蛇口から一滴、ぽんとシンクに雫が落ちた。


 その音は波紋となって僕に響き、心にある好きという気持ちを揺らし、刺激した。


 あなたを想うこの気持ちは、生きていたときから誰にも伝えられない感情だった。


 もうじき明日がやってくる。

 そう、理解した。


 幽霊は、49日目には消えなくちゃいけないらしい。


 あなたは、いつか僕のことを忘れてしまうんだろうな。


 体だけじゃなくて、記憶の中からも僕は消え去ってしまうんだろう。


 日記のなかにある僕の記録も、積み重なる思い出に埋没してかすかなものになるんだろう。


 ずっと覚えていて欲しいな。


 あなたも僕との時間を幸せに思ってくれてたのかな。


 でも、僕は亡くなってしまった存在だから、どうしようもないんだろうな。


 不思議と虚しさも寂しさも喪失感も絶望感も、何もない。


 冷たくも暖かくもない、とても静かな無感情が僕を包んでいる。


 僕は死を受け入れつつあるみたいだ。

 

 瞼を閉じると生きていた時の記憶が、映った。


 僕がお腹を見せて甘えると、わしゃわしゃと撫でてくれるのが好きだった。


 鳴いたら必ず返事をしてくれて、かまってくれたことが嬉しかった。


 嫌いな病院に連れて行かれたあとは、あなたは不安そうな顔をしていて、ずっと心配させてしまった。


 我が儘ばっかの僕は迷惑じゃなかったかな。


 好き嫌いしてごめんね。


 家からこっそり抜け出したときは、日が暮れたあともずっと探させてしまってごめんね。


 先に死んでしまって、あなたをひとりにしてしまってごめんね。


 優しい顔も、笑った顔も、怒った声も、悲しい声も。


 ありのままのあなたの全部が好きだった。


 僕という存在は消えてしまうけれど、空からあなたの幸せを願ってるよ。

 

 窓の外に見える満点の星空を見上げる。中央には天の川が流れていた。


 僕は星になって、名前の通り空に馴染むんだろうか。


 それとものこらないこの体ごと、気持ちも消えてしまうんだろうか。


 うえそらでずっと大切なあなたを見守っていたい。


 あなたに幸せになって欲しい。


 その願いを込めて、僕は「にゃあ」と小さく鳴いた。 


 唯一の思い残しは、あなたに気持ちを伝えられない猫として産まれたことだろうか。


 次があるのなら、僕はまたあなたと一緒にいたいな。




 朝がやってきて、僕はあなたを残していなくなった。

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