鳳雛戦記

楓蔦居士

邂逅

 吐く息が白くなり、積もった雪に足が埋もれる。

 晒された頬に冷気が刺さった。重ねた襤褸の中は汗ばんでいるが、足先の感覚はすこぶる鈍い。村を六つ回ってやっと手に入れた芋や干し米が腰のあたりで揺れる。今年は凶作で、どの村も頭を抱えていた。国に納める分を引いたら雀の涙ほどしか残らなかったのだ。

 やつれた村人が擦り切れた衣を重ね合わせ、木の枝を煮て食べていた。

囲炉裏の周りに身を寄せ合って暖を取り、繕い物や傘作りをしている姿もあった。

皆の表情は一様に暗かった。

 実りが悪いのは山も一緒だ。僅かな草も生えておらず、このままでは家畜や食料を狙って熊や狼が村を襲う危険がある。回った村には四足除けの呪符を配ったが、どうだろう。

老人や幼子はこの冬を越せるだろうか。

歩きながら、都のことを思う。今年は大雪だ。あの戦いのせいで都の大半が焼け野原になった。寒さを凌ぐ建物も食べ物もないとなれば、行き付く先は生き地獄しかない。確実に国民の大半を失うことになる。道端にごろごろと人が折り重なっている様子が、やけにくっきりと想像できた。

はは。やっとのことで国を死守できたのに、今度は天災で人が死ぬのか。

虚し過ぎて、笑えてくる。

私が今まで積み上げてきたものが纏めて溝に捨てられていくようだった。

太陽は鉛色の雲で覆われているのに、一面の白が目に痛い。

 何でもない山道の筈なのに、進む足は重く、気を抜けば転んでしまいそうだった。

 切れた唇から血の味がする。枝ばかりになった木々が私達を見ていた。ここは旅路すら通っていない山奥で、動いているモノは私だけだ。そのことがひしひしと胸に迫る。雪の中に取り残されたような感覚に陥った時、すぅすぅと安らかな寝息が肩越しに聞こえた。

 やわらかい髪が頬をくすぐる。

 首を回して、背負った赤子の顔を見やる。

 丸々とした頬に、閉じられた目、杏色の髪が目に飛び込んできた。

 全てを私の背中に預けて眠るその子は、時折むにむにと唇を動かしていた。

 降り積もる雪より白い肌にほんのりと赤みがさす様は、花のつぼみがほころぶ瞬間を思わせた。

 力みのない表情に、私の心も凪いでいった。

 雪は尚も降り続くが、私は凍えることはない。

 背中のぬくもりに励まされるように、私は山道を進む。

「寒いから、早く帰ろうね」

 雪が、私の足跡を消していった。




 十二年後

 荷車がもうもうと土煙を上げながら、通りを横切っていく。

 私は大きな車輪に服の裾が巻き込まれないよう注意しながら、薬を売る。

「おお、蜜柑雀みかんすずめ白夢茶はくむちゃを売ってくれんか?最近夢見が悪くて寝付けんのだよ」

 五十路を過ぎた恰幅の良い男性の顔を見ながら、私は薬包を五つ手渡した。

 客商売をしていることも大きいだろうが、頭巾の間から覗く私の髪の毛はかなり特徴的なので、半年ぶりの再会でもすぐに気付いたのだろう。

「酒蔵の叔父さん、働き過ぎじゃない?無理はしないようにね。毎度あり」

そう言いながら、立ち並んだ屋台の間に丁度いい場所があり、背負っていた薬箱を下ろす。

「蜜柑雀、久しぶりだなあ。俺には軟膏をくれ」

「雀ちゃん、一番下の子が熱を出してしまって。よく効く熱冷ましはないかしら?」

「はいはい。待ってね」

 街の人は、半年近くも顔を合わせていないのに、ひっきりなしに声を掛けてくる。

 頑張って薬の勉強をした甲斐があった。何種類も用意した薬やお茶は評判になっているらしい。蜜柑雀、蜜柑雀と愛称で呼び掛けられては薬箱が軽くなり、懐が重くなっていく。

 嬉しい限りだ。だが、私は薬師ではない。

 私は擦り切れた衣を風でばたばたさせながら、街の人達の話を聞いた。

「ねえねえ、鍛冶屋の叔父さん。ここ最近で変わったことって何かあった?」

「ん~そうだな、街の警備が強化されてきている。なんでも、西側の異民族が国境に駐留し始めたらしい。ここ錦州陵は西側との貿易拠点だろ?都から兵士がわんさか送られてきているよ。お陰で物価が高騰してきた」

「ここはまだマシよ。先月宮廷で文官が十人近く暗殺されて、大騒ぎになったんだから」

「え?そうなの、綾羅所りょうらじょ(※衣料品店)のお姉さん」

「本当だよ、北の方も怪しい事件が起きたってさ。そこそこ身分の高い貴族様方が一家断絶したらしいよ」

「最近はどこもかしこも危なっかしい。人攫いも増えてきているようだから、蜜柑雀も気を付けるんだよ」

「はーい」

 私は世間話に花を咲かせる大人達にお礼を言い、去っていく背中を見送った。

 ――宮廷で暗殺?そう珍しいことではないけれど一度に十人も殺されるなんて、異様だ。まあ、上の火種は上の人間が後始末をするでしょう。問題は北の方の事件と、西側の動向だな。

 私は立ち上がり、大通りを見て回る。

 上等な布地が虹のように垂れた店先で、やり手の店主とやり手の商人が舌戦を繰り広げている。道端で南方の蛇使いが笛で大蛇を躍らせていた。大蛇に話しかけたい気持ちを必死に堪え、私は左手首に付けた翡翠の念珠を見やる。荷馬車が器用に通行人を避けて進んでいく。龍の彫刻が絡みついた立派な柱が客を見下ろし、窓際から笑い声が溢れていた。香辛料や生花の匂いなどが喧騒に混じり、賑わいに花を添える。

 火離国かりこくで第二の都市である錦州陵きんしゅうりょうは貿易の街だ。至る所から情報がどんどん集まって来る。私は通りに面した酒楼に足を運んだ。

 米俵と同じくらいの大きさの薬箱は、人ごみに入った時に役に立つ。私は同い年の子供の集まりではそれなりの体格をしているが、成人男性の半分にも背が届かないのだ。皆薬箱を避けていくので、大変ありがたい。

 まだ昼間だが、酒楼は料理を楽しんだり会談したりする人間で溢れ返り、店の中さえよく見えないような賑わいっぷりだった。

 男性客が目立つ中、白くて細い影が外に置かれた席に腰掛けている。

 私はほっとして、薬箱を背負い直す。

 白い紗布が流れる笠を被ったその人は、銀糸で流水紋が刺繍された白い衣を纏い、相席した客と談笑していた。

 腰に提げた剣は長く優雅で、柄に嵌った水晶が日光を反射する。

 私は白い背中に駆け寄った。

「師匠!薬売れました!」

 私が声を掛けると、笠を被った人物が振り返った。

 雲が人の姿を取ったような清涼感のある美貌の女性が、酒杯を片手に私を見た。

 笠の布の間から、星屑のような銀髪が流れる。琥珀色の瞳には深い知性が宿り、肌は磨いた玉のように滑らかだ。どう見積もっても十九歳以上には見えないが、実年齢は三十路を超えている。私の師匠であり、母であるこの人は、都から追放された元宮廷魔導師、翠翼虎すいよくこ氷輪ひょうりんだ。落ち着いた声が私の鼓膜を打つ。

燈玉とうぎょく、戻ったか」

「はい!師匠!」

 私は背筋を伸ばして報告した。

 相席していた顔見知りの男性が、「おお、蜜柑雀じゃないか」と声を上げた。

「お久しぶりです、草郷さん。お元気そうでなによりです」

「ハハハ!荷物運びは体力がなきゃやってられんからな」

 豪快に笑って酒杯を煽る草郷に、氷輪は「それで」と話しかける。

「都で不審火が出たというのは本当か?」

 小麦色に焼けた肌を僅かに赤らめながら、草郷は言った。

「ああ、本当だ。俺は金盞山道から都まで豪商の荷運びを請け負っていたんだが、丁度都に付いた先月の七日の夜、北の大門の方で火の手が上がっていたよ。いやあ、結構酷い火事で都にいた兵士や役人が総出で火消しに当たっていたな」

 全く、この頃物騒だ。

 そう言いながら、酒を追加する草郷を見て、氷輪は「ありがとう。有益な話が聞けた」と言った。卓の上に銀子を一つ置き、私を連れて酒楼を後にする。

「おう!今度何かあったら割引きで荷運びしてやるよ!」

と、威勢のいい声が飛んで来た。

 私は白い衣の隣に並ぶ。

「燈玉、平民達の様子はどうだった」

 氷輪は笠を目深に被りながら、私に訊いた。

「人攫いが増え、西の国境に他国の駐留が見られるようです。物価も変動し、まだ大通りしか回っていないのに薬がほとんど売れてしまいました。師匠、薬代です」

 私は懐から銀子が詰まった巾着を取り出し、師匠の左手に握らせた。

「これから貧民街にも顔を出そうと思っています。念のため師匠がお持ちください。最低限の銀子はありますので」

 私は前を向きながら言った。

「ああ、私も錦州陵の市場を覗いてくる。くれぐれも無茶なことはしないように」

 氷輪は巾着を袖の中に仕舞い、私の頭を撫でた。

 私は嬉しくなって、氷輪の手に触れた。

「いいか、燈玉。人前で動物と喋ったり術を使ったりするな。危なくなったら逃げなさい」

「はい。師匠」

 私達は通りの分かれ道に差し掛かった。左に曲がれば市場に、右に曲がれば貧民街に続く十字路で再び分かれる。




 人目の付かない路地裏に移動し、私は薬箱の底から、土で汚れたぼろぼろの外套と頭巾を取り出した。それらを手早く身に着け、顔や手足に泥を擦り付けると瞬く間に浮浪児に仕上がる。貧民街の住人に話を聞くにはこの格好が一番悪目立ちしない。大人達の暴力や子供同士の諍いに巻き込まれないよう注意していれば有益な情報が手に入る。

 山奥で生活している以上、どうしても情報や物資が不足する。その為、一ヶ月に一度山を下りて師匠と一緒に地方を巡歴しているのだ。

怪事件が起これば足を運び、妖魔がいれば対峙し、人間の仕業なら下手人を捕らえて役人に引き渡す。

 ここ最近、どうも気味が悪いことが起きているらしい。

 私は気を引き締めて貧民街に向かった。

 途中屋台で袋いっぱいの飴を買う。

 朽ちた建物に、申し訳程度の衣類が干されていた。饐えた臭いが辺りに立ち込め、壁の前に座り込んだ老人や子供が石のように固まっている。あばらの浮いた野良犬が路地裏を駆け抜けていった。

 

 私は周囲に人の気配がないことを確認すると、地面に座り込み、襤褸の頭巾で出来る限り顔を隠す。

 火離国では、動物を従える才能を殊の外喜ぶ文化がある。

 火離国は、百獣の長である鳳凰の加護がある国だ。二千年の歴史を持つ火離国では国が危機に陥った時、鳳凰の力を宿した傑物が国を救うことが何度かあった。その者は鳳雛と呼ばれ、並々ならぬ強さを持っていた。人間の意思を動かし、あらゆる動物を従え、木・水・風・土・金・火の力を全て扱うことができたという。

 中でも動物を従える才能は幼少期から芽生えるもので有名だ。

 我が子が誉れ高い鳳雛かもしれないと、火離国では貧富に関わらず生まれて来た子供に馬や犬を与え成長を見守るようになった。

 勿論、鳳雛は何百年に一人と言う確率でしか現れない。大抵は普通の人間だ。

 それでも、子供が動物を扱う才能があると知れば、名前も知らない大人でも手を叩いて喜ぶ。

だが、氷輪はどういう訳か私が動物と話していると烈火のごとく怒る。以前、農村から脱走した二十頭の牛を大声で説得していたのを村人から見られたことがあった。牛は文句を言いながらも大人しく村に戻り、村人からは大層感謝されたが氷輪は私の頭に拳の雨を降らせた。幾つかある特技の中でも一番珍しくて自信があるものなのに、育ての親にいい顔をされないのは少しばかり悲しい。

 だから、動物と話すのは人間が近くにいない時だけだ。

 ――こんなに便利な才能なのに、師匠はどうして怒るんだろう?

 私は頭巾で顔を覆い、野良犬を呼び止めた。

「おいで、聞きたいことがあるの」

 涎を垂らしながら走っていた野良犬は、私の声にピンと両耳を立てて立ち止まる。

 私が手招きすると唸りながら寄って来た。

「なんだ?」

 野良犬が警戒しながら言った。

「最近、貧民街で変なことはない?」

 私が飴を掌の上に乗せながら尋ねると、野良犬は尻尾を股の間に収めながら答えた。

「最近、貧民街の夜は危ない。どこもかしこも血の臭いをさせている。お前もまだ餓鬼だろう?帰る家があるならさっさと帰りな。殺されるぞ」

 掌の上に乗った飴を受け取るなり、野良犬は来た道を引き返していった。

 痩せているが、本気を出せば子供の一人や二人引き摺って行きそうな大型犬があそこまで怯えるなんて。

 立ち上がり、服の裾に付いた砂を払う。

 静か過ぎる建物を見上げながら、私は眉を顰めた。

 街が大きくなれば貧富の差が広がるように、火離国で第二の都市である錦州陵の貧民街は人で溢れ返っていることで有名だった。多過ぎて、道と建物の境もなく人が生活していると平民達は嫌悪していた程だ。それなのに、この人の気配の薄さは何なのだろう。

 建物の半数は確実に空き家になっている。

 一歩一歩貧民街の奥に近付く度に、息が苦しくなってくる。

 私は嫌な予感を抱えながら、身を寄せ合って道端に座り込んだ男の子二人組に声を掛けた。

「ねえ、最近錦州陵で変なことは起きてない?」

 飴を差し出しながら訊ねると、二人は私の手から飴をもぎ取り、夢中で頬張りながら答えた。

「変なことだらけだよ」

と、上背がある方の男の子が口を開く。

「最近、貧民街で割の良い仕事の斡旋が増えたんだ。全部他国や都での出稼ぎでさ。結構な人数の大人が仕事を受けて出て行ったんだ。でも、誰一人として返ってこない。仕事の内容では荷物運びとか護衛とか、短期間で終わるものもあったのに連絡もなければ噂も聞こえてこないんだよ」

 小柄で髪の長い男の子も話し始める。

「仕事の斡旋人も十日かそこらで見なくなった。「割のいい仕事があるぞ」って皆を誘ってそのままどこかに消えちゃった。怪しいでしょ?でもね、それだけじゃないんだ。最近貧民街で子供攫いが増えているのは知ってる?獲物は男の子も女の子も両方。家に入って赤子を攫ったり、色宿に売られた女の子達を檻ごと連れて行ったりしてる。ここでは、子供なんていても生活が苦しいだけでしょ?だから、親も探さないし、役所に捜索願を出しても受け入れてもらえない。やりたい放題だよ」

 二人の話に、私は心の中で溜息を吐いた。

 予想より、事態は深刻そうだ。

「ありがとう、助かったわ」

 私は二人にもう一つずつ飴を渡して、貧民街を進む。

 倒れている老人に薬湯を渡し、がらんどうの建物を覗き込んだ。埃被った床や、蔓の絡まった窓がこちらを見詰め返す。

 砂塵の舞い上がる通路を進み、貧民街の奥まった場所に辿り着く。

 建物が日光を遮り、薄暗い路地に私の足音が反響した。

 背後にも前にも警戒しながら進んでいると、男性の言い争うような声が通路の先から聞こえてきた。

 凄まじい剣幕に思わず立ち止まると、通路の先から突風が吹く。

「う!」

 咄嗟に袖で目元を覆い、砂嵐から目を守る。

 何事かとそちらを見やると、広場に黒い人影が二人、砂埃の中に対峙していた。

 私は只ならない気配を感じて、壁に背を付け、しゃがみ込む。

 一人は長身で仕立ての良い服を着て、向かい合った男に剣を向け、怒鳴っている。

「おい!俺は注文通りに孤児を三十二人売ってやったのに、金を払わないとはどういう了見だ!ああ⁉」

 怒鳴っている男も背が高かったが、対する男はもっと凄かった。

 軍馬も軽々抱えられそうな巨躯に、分厚い筋肉が付いている。

 剣を向けられていても、一言も発しない。

 反応がないことに苛立ったのか、人攫いと思われる男が詰め寄った。

 私は影に隠れながら「駄目だ!危ない!」と心の中で叫んだが、時すでに遅かった。

 黙っていた男は向けられた剣を素手で折ると、驚愕で見開かれた男の頭を鷲掴みにして、握り潰した。

「う、ああああああああああああああああああああああああああああ!」

 男の叫び声と骨が砕ける音が路地裏にこだました。

 男は頭を潰した死体を無造作に放り投げ、血で汚れた手を数回振ると、私とは反対側の通路に消えていった。

 私は暫くその場から動けなかった。

 男が確実に離れていったのを確信してから、私は忍び足で頭を潰された男の遺体に近付いた。恐らく奴隷商人か人攫いだろう。遺体に手を合わせ、豪華な上着を探り、男の身元が分かるようなものを探す。宝石が嵌った短刀を探り当て、私はそれを懐に仕舞う。

 貧民街で聞き込みをすれば何かわかるだろう。

「孤児を三十二人も買ってどうするつもりなのかな。奴隷商人を殺すなんて、よっぽど後ろ暗いことをしているみたい。師匠に知らせて夜も見回った方が良いな」

 私は急いで来た道を引き返した。

 貧民街で人攫いや奴隷商人の話をそれとなく聞き出し、殺された男が貧民街では有名な奴隷商人であることを突き止める。短刀を抱えて市場に向かうと、氷輪は露店の間で足を休めていた。通り過ぎて行く兵士と目を合わせないように、露店に並んだ骨董品を見詰めている。

「師匠、師匠。貧民街で奴隷商人が殺されました」

 私は氷輪に小声で告げた。

 氷輪の眉がピクリと上がる。

「殺された?どういうことだ」

 私は懐に隠した短刀を氷輪に渡して、先程目撃した光景と貧民街で聞いた話を伝える。

「そこに、売られた子供達はいなかったのか」

「はい、いたのは奴隷商人と殺した買い手の男だけでした」

「妙だな、商品から離れる奴隷商人に、金を払わず殺した客とは。子供達が気がかりだ」

「師匠、大抵の犯罪は夜に起きます。も一度貧民街で聞き込みをしてもいいですか?」

 私の提案に、師匠が頷く。

「ああ、私も調べたいことがある。燈玉、奴隷商人を殺した男は危険だ。もし鉢合わせたら逃げろ。護身用の札や武器を忘れずに準備しておくんだぞ」

「分かりました」

 私は氷輪と共に屋台で遅めの昼餉を取った。市場での戦果や街の様子などを言い合う。

 鶏粥を口に運びながら、師匠は言った。

「鍛冶屋や装具店を覗いたが、中々面白かったぞ。市井向けの店で魔除け用の札が売られていたんだが、いいか。その札の呪文、厄除けじゃなくて四足除け(※害獣除け)だったんだ。おい、ここは農村じゃないんだぞと店主を一発殴ってきたよ」

「師匠、品物は悪いですが殴っちゃ駄目ですよ」

「対した効力もない四足除けの札一枚が七百文もするんだぞ?殴るだろ」

「それは殴りますね」

 私は饅頭を齧りながら答えた。

 物心ついた時から、師匠は私を連れて各地を巡歴している。

どんな時でも笠を目深に被り、決して名乗ることはない氷輪は未だ都を追われた犯罪者として罵られていた。

しかし、私は自分の師匠が世間で言われるような犯罪者でないことを誰よりも知っている。だが、どんなに危険な妖怪を退治しても、嗜虐的な役人を締め上げても、氷輪の仕事は全て役人や兵士の手柄に置き換えられる。彼等に気付かれて、いわれのないそしりを受けないために、氷輪は日陰にいるしかなかった。




 とっぷり日が暮れても、錦州陵は眠らない。入れ代わり立ち代わり店が開き、往来は人でいっぱいだった。五人一組になって巡回している兵士とすれ違う。私は道の端に寄りながら彼等に向かって鼻を鳴らした。

「ふん。あなた達より、私の師匠の方が市井の命を助けているわ」

 いつだって、最も苦しむのは声の小さく弱い人間ばかりだ。

 それなのに、天井人は身内以外の人間を石ころのように扱う。

 私は昼間とは別の道から貧民街に入った。

 昼間より人の気配が濃い。働きに出ていた大人が家に帰ってきているのだ。

 私は月明かりを頼りに貧民街を進む。各地を渡り歩き、世間のことをそれなりに知った今私の足は人の気配が薄いところへ自然と向かう。本当の意味で惨たらしく非道な事は人気の無いところで起こるのだから。

 灯りの付かない家が並ぶ中、私は眉を顰めた。最近物騒だからか人がいない。

 道端で眠る人が多かったのに、今ではすっかり静かな通りだ。

 足音を殺しながら歩いていると、不意に鉄錆の臭いが鼻を掠めた。

 ハッとして立ち止まると臭いがした方向から子供の叫び声がした。

 私は地面を蹴って叫び声がした方向に向かう。

 崩れ落ちた廃墟の前で男の子が倒れ、周りに子供達が集まっている。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん!」

「お前ら、早く逃げろ、殺されるぞ!」

 地面に倒れ込んだ男の子は太腿から先がなかった。

 集まった子供達は皆四五歳位の見た目で、怯えて泣きじゃくっている。

 子供達から少し離れたところに、痩せ細った猿のような老人がいた。貴族のような豪奢な衣を纏い、蠍の尾のような鞭を握っている。ぎょろりとした目が醜悪に歪んでいた。

「イヒヒヒヒ!いいぞいいぞ、両足を捥いでやってもまだ喋れるとは、殺し甲斐がある。うひゃひゃひゃ!」

 老人が鞭を構えるが、私は子供達と老人の間に割り込み、霊石を投げた。

「そこまでよ!」

 霊石が爆ぜ、青紫色の炎を上げる。

 私は振り返って地面に倒れた少年の足に触れ、止血と痛み止めの効果がある術を発動した。足を無くした少年を背負い、その場にいた子供達五人を纏めて抱き上げて、一気に老人から距離を取る。

「お兄ちゃんをお願いね」

 私はぼろぼろの外套を地面に敷き、上着を脱いで少年と子供達の身体を包んだ。

 女物の衣は布の量が多くて助かる。傍らに薬箱を置き、六人の子供達を充分に包んだ衣に仕込んだ結界を発動させた。

 私の上衣に包まれた子供達は「うん!」と力強く頷いた。

 私は柳葉飛刀りゅうようひとう(※投擲用の小刀。暗記の一種)を取り出し青紫色の炎を見据える。

 炎の中から癇に障る笑い声が聞こえてきた。

「うひゃひゃひゃひゃ!貧民街で術士の子供に会うとは珍しいこともあるもんだなあ。ヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ!滅多にいない上玉が転がり込んできたのう、愉快、愉快!」

 炎の中から黒々とした鞭が稲妻のように迫ってきた。私は飛刀に魔力を流し投擲する。

 飛刀が鞭の軌道を変え、空に舞った。

 すると、鞭が蛸の足のように枝分かれして襲い掛かってきた。

「っく!」

 私は宙返りしながら鞭の追撃をかわす。子供達の方に飛んだ鞭は私の衣が張った結界によって弾かれた。

 私は炎から出てくる老人に向かって飛刀を四本投げた。

 炎の中から何事もなく出て来た老人は鞭を振って飛刀を散らす。

展翅牙てんしが!」

 私は一歩踏み出しながら叫んだ。

 途端に弾かれた飛刀が牛一頭分程の大刀に変化し、鞭を地面に固定した。

 私は勢いを殺すことなく魔力を腕に込めて老人の意識を刈り取るために走った。

 あと少しで老人の首に届くところで、頭上から降って来た何者かが、私を弾き飛ばした。

 一直線に壁に叩き付けられ、肺の中で息が詰まる。

 地面に転がると、私を弾き飛ばした者が地面に着地する衝撃が伝わってきた。

 軋む骨を何とか無視して起き上がると、昼間奴隷商人を殺した男が立っていた。

「良いところに来たな縛隷ばくれい。子供を全員捕らえろ。術を使う餓鬼は殺すなよ」

 縛隷と呼ばれた大男は、ジャラジャラと鎖の付いた鉄球を構えて私の前に立ちはだかった。剃り上げた頭に無感情な目、血の臭いをさせた武器に私はぞっとした。

 背後には子供達がいる。

 全員を連れて逃げるのは不可能に近い。

 縛隷は何も言わずに鉄球を振りかざした。私は袖口から黒い霊石を出して、縛隷に投げ付ける。

鋭尖剣山えいせんけんざん!」

 そのまま地面を蹴仕上げ、一直線に大男の身体を貫く土の刃の波を生み出した。

 霊石は縛隷の目の前で大破し、土の刃が縛隷の心臓を一突きにしようと迫る。

 だが、土の山は鞭によって砕かれた。

「なはははは!小賢しい小娘だ」

「う!」

 枝分かれしていた鞭がしなり、私の身体を弾き飛ばした。

 打ち据えられた腹が裂けてぴりりと痛みが走る。

 壁に叩き付けられて意識が遠くなった。が、のたうち回る鞭が子供達の方へ向かっているのを見て、視界が明瞭になる。

「そうはさせない!」

 私は髪を何本か抜いて魔力を込め、老人に向けて放った。

簪童子かんざしどうじ、子供達を守って」

 髪の毛が愛くるしい童子になる。女児と男児が二人ずつ現れ、小さな貴族のように立派な衣を纏っていた。顔いっぱいに笑みを浮かべながら、鋭い牙を覗かせ鞭に食らい付く。

 鉄球を振り回して爆風を払う大男に向かって、私は飛刀を放った。

 鞭の相手をしていた童子の一人を大男の相手に向かわせる。

 脆くなった結界を張り直すために私は子供達の方へ駆け寄ろうとした。

 その時、「うひゃひゃひゃ、無駄なことを」と言う声がして、一本に戻った鞭が目にも止まらぬ速さで私を打った。

 ビシャッと裂けた背中から血が噴き出す。

 私を打った鞭はそのまま脆くなった結界を破り、老人は廃墟の屋根に飛び乗って鞭を振り上げた。

 私は子供達の前に飛び出し、結界を張ろうとした。

 だが、迫る鞭の方が早い。四人いた童子達も鞭の餌食になっていく。

 私は目を閉じて衝撃に耐えようとした。

 バチンと何かが弾けるような音がして「何!」と老人の声が続く。

 目を開けると、白銀に輝く剣が禍々しい鞭を弾いていた。

「師匠!」

 見知った剣に私は安堵の混じった声を上げていた。

 白銀に輝く剣は氷輪の「臘月ろうげつ」だ。この剣は普通の剣と違い、術や妖魔に対して大きな脅威となる代物だ。剣の材料である鋼は何重にも破魔の術を掛けて鍛えられており、闇夜の中でも新雪のように発光する。刀身にも古代の呪文が隙間なく刻まれており、独特な美しさを作り出していた。柄に嵌った水晶が剣の持つ浄化の力を高め、並みの死霊や妖魔なら掠り傷だけで退治できるほどの威力を持つ。

 持ち主の性質に寄り添うような優美で力強い剣が、夜を切り裂く。

 氷輪が近くに来ていることに安堵しかけるが、縛隷の鉄球が簪童子を圧し潰して飛んできた。鉄球に何か仕掛けがあるのか、張り直した結界が薄氷のように粉々に砕け散る。

 避けられない!と思ったその時、鞘から刀剣が抜かれる音が耳元で聞こえた。

 誰?と思った時には衝撃波で地面が抉れ、鉄球が宙に放り出されていた。

「貴様、何者だ?」

 低い声が隣から聞こえる。

 そちらを見やると、すらりとした長身の男性が斬馬刀を抜いて佇んでいた。

 鶯茶の中衣と刈安色の上衣に墨色の帯を合わせ、実戦的だが威圧感のある服装をしている。兵士ではない。もっと上の立場の武人だ。長髪を頭の上で結い、精悍な顔立ちが映える。

 私が驚いて固まっていると、老人達の背後から氷輪が姿を現した。

「師匠!」

 私が声を上げると、

「燈玉!無事か!」

と、氷輪が笠を放り捨てながら言った。

「私は平気です!でも、両足を失った子供が一人います!術で傷を抑えていますが長くは持ちません!」

 私が声を張り上げると、氷輪は戻って来た剣を掴んだ。

 氷輪が剣を振りかざそうとして、私の隣に立つ男に気付くと、一瞬動きが固まった。

「お前は……」

 対する男も、笠を脱いで顕わになった氷輪の顔を見詰め、

「やっと見つけた……やはりお前か、氷輪」

と低く唸った。

 只ならぬ空気が二人の間に流れ、それを掻き消すように縛隷の鉄球が地面を割った。

「あひゃひゃひゃ!今夜は賑やかよのう!国で五指に入る武将である英峰君と、翠翼虎が現れるとは!イヒヒヒヒ、久しぶりに暴れていいぞ、縛隷」

 老人の甲高い声に、私は頭を殴られた。

 英峰君だって?

 味方から恐れられ、敵からは更に恐れられている猛攻で有名な将軍が、どうして単身で貧民街に現れたんだ?

 思わず傍に立つ男性を見上げると、彼は一直線に縛隷に向かって斬りかかっていた。

 金属が軋む音が響き渡る。

「燈玉、結界を張れ!」

 氷輪は臘月を握り締め、廃墟の上にいる老人に向かって行く。

 私は声に弾かれるように結界を張った。

 縛隷は地面に膝を付き、上空から斬りかかって来た英峰君を鎖で受け止めている。

 老人も氷輪の剣筋に鞭が付いていかず、防戦一方だった。

 怖いようと怯える子供達を落ち着かせながら私は戦いを見守る。

 このまま圧し勝てるだろうと思った時、老人の高笑いが響き渡った。

「あひゃひゃひゃ!今宵はここらでお開きとしようか」

 氷輪が老人の首を捉えた時、老人の身体が泥のように溶けた。

 黒々とした液体が縛隷の足元から吹き上がり、一瞬で巨体を呑み込んだ。

「待て!」

 英峰君が斬馬刀を黒い水溜りに突き立てたが、黒い影はそのまま地面に吸い込まれていった。

「逃がしたか」

 氷輪が剣を収め、私の元に駆け寄った。

「燈玉!一体何があった!」

「師匠、後で説明します!今はこの子を手当てしないと!」

 私は両足を切断された少年に手持ちの毒消しと止血薬を飲ませながら言った。

 師匠も少年の足を見て、迷いなく自分の服の袖を裂いた。

 血を流し過ぎた少年の顔は土気色になり、浅い呼吸を繰り返している。

 早く手当てしないと手遅れになってしまう。

「傷口にある邪気を払い傷口を焼いて止血する。君達、出来るだけきれいな水を持って来て欲しい」

 師匠は泣き腫らしている子供達を見て言った。

 その中の一人が気丈に頷くと、他の子達も追随して井戸に走っていく。

 氷輪が呪符に邪気を吸わせていると、桶一杯の水を抱えた子供達が戻ってきた。

 破いた袖を水に濡らして、患部を拭き上げる。

「私が押さえている。燈玉急げ」

「はい」

 私は両手に炎を纏わせ、少年の傷口に触れた。

 肉が焼ける臭いと、脂が焼ける音が溢れ返る。

「うわああああああ!」

 傷口を焼かれる痛みに、少年の上体が跳ねた。それを力尽くで氷輪が押さえ、私は一気に患部を焼いた。すぐに塗り薬を塗り、袖で作った包帯を巻く。少年は脂汗をかきながら気を失った。

「お兄ちゃん!」

「お兄ちゃん死んじゃうの?」

「手当てしたから大丈夫。死なないよ。救命院の人を呼んでおいで。お兄ちゃんと貴方たちを助けてくれるから」

 泣きじゃくる子供達の頭を撫でながら、柔らかい声音で師匠が言った。

 私は立ち上がって、背後を振り返った。

 そこには斬馬刀を収めた英峰君が傲然とした表情で立っていた。

「助けていただき、ありがとうございました」

 小さい時から「何かしてもらった時にはお礼を言うように」と厳しく仕込まれてきた為、普段からの癖で私は英峰君にお礼を言った。

 拱手をし、頭を下げる。

 その途端、ぐらりを身体が傾き強い力で引き寄せられた。

 ――え?首を掴まれた?

 そう感覚が追い付いた時には、私は逞しい腕の中に閉じ込められ、首筋に斬馬刀の切っ先を当てられていた。

「動くな。動いたら首を刎ねる」

 頭上から肉食獣が唸るような低い声が降ってくる。

 太い血管に的確に置かれた刃に、私は背筋が冷たくなった。

「燈玉!」

 手当てをしていた氷輪が振り返り、表情を無くした。

 腰に佩いた臘月の柄に手を掛け、淀みのない動作で立ち上がる。

「英峰君、私の娘を開放してもらおう」

 相手を射殺さんばかりの鋭い視線を浴びながら私の肩を掴んでいる男は、心底不愉快そうに笑った。

「翠翼虎。お前の臘月が俺に届く前に、俺の赫怒かくどが小娘の頸動脈を掻き切るぞ。小娘の命が惜しかったら俺の要求を聞いてもらおうか」

 国の軍事の要である誉れ高い英峰君が、子供を人質にとって何を言っているんだ⁉

 私は何とかして腕の拘束から逃れようと身を捩ったが、鋭い切っ先が喉の肉に当たり、皮膚が切れた。

「いたっ」

 思わず声を上げると、肩甲骨が砕けそうな力が英峰君の手に平から伝わってきた。

「動くなと言っただろう、次は骨ごと持っていく」

 私の首筋に流れる血を見て、氷輪が言った。

「おい、私の娘に手を出してただで済むと思うなよ!国の五指に入る将軍が聞いて呆れるわ!」

「俺の要求を呑むなら娘は解放してやる。娘の首が身体に付いているかどうかはお前次第だ」

 英峰君は向かい合った氷輪に意識を向けている。何とかして拘束から抜け出さないと、取り返しのつかないことになる予感がした。都を追放された元宮廷魔導師に人質を取ってまで呑ませたい要求が真っ当なものである筈がない。

 ああ、こうなるから今まで細心の注意を払って暮らしてきたのに。このままでは私の母であり師匠である女性が取り返しのつかない道に放り出されることになる。

 英峰君は私の首に赫怒を押し付けながら言い放った。

「氷輪、俺と一緒に宮廷に来てもらおうか!」

 師匠の表情が火であぶられたように歪んだ。

 私も、胃の中に氷塊が押し込まれたような感覚に襲われた。

 十一年前に氷輪を都から追い出したのに、今更宮廷に来いとはどういう風の吹き回しだ?氷輪は関節を白くしながら臘月を引き抜いた。

「そのような戯言を言うために、私の娘に手を出したのか!」

「何が何でも来てもらう!」

 英峰君は氷輪から湧き上がる殺気に気を取られ、私の肩を掴んでいた力を弱めた。

 今だ!私は背中で素早く印を結び、火柱を上げた。

「な!」

 火柱に驚いた英峰君が拘束を解いた。

 私は全速力で氷輪の元に駆け寄った。

「師匠!」

「燈玉!」

「くそ、待て!」

 私の背中に英峰君の腕が伸びる。

 あと少しで英峰君の指に私の襟が捕らえられそうになったが、寸前で何かが英峰君の手を弾いた。

「やめよ、英峰君」

と、低く滑らかな声がして、路地を囲む建物の屋根からすらりとした男性が舞い降りた。

 群青の衣に濃紺の夏羽織が風を孕み、仙人が現れたのかと思うような幻想的な公開を作り出した。音もなく地面に降り立つと、すっと右手を上げて英峰君の手を弾いたものを回収した。男性の手に扇子が収まる。

「子供相手に赫怒を向けるな」

「ちっ」

「講堂老師だと?」

 私の肩に手を置いた氷輪が、驚愕を隠せない声で言った。

 私の頭にも衝撃が走る。

 講堂老師は、王室お抱えの教育係だ。

 幼い頃から神童と呼ばれ、魔術研究と武術の指南に置いて彼の右に出る者はいないとまで言われるほどの有名人が何故ここにいる?

 講堂老師は知性を湛えた顔に僅かな驚きの色を浮かべ、氷輪に向き直った。

「氷輪、久しいな」

「教育係の人を辞し、凌雲梯山に戻った筈のお前が何故こんなところに」

 講堂老師は氷輪の言葉に目を丸くした。

「教育係を辞したのは三ヶ月前のことなのに、よく知っているな」

「人の口に戸は立てられぬさ。火離国の重鎮二人が何故都を離れている?」

「お前を探すためだ」

 講堂老師は扇子を懐に仕舞いながら言い切った。傍らに立つ氷輪の纏う空気が凍り付いた。私は氷輪の背後に隠された。氷輪の背中越しに、相対する美丈夫二人を見やる。

 彼等は並んで、氷輪を凝視していた。

 氷輪は臘月の柄を握り、攻撃する機会を窺いつつ、逃げるための算段を組み立てているようだった。

 一触即発の空気が流れる中、路地から数人の足音が聞こえて来た。

「おじさん、こっちこっち!早く、お兄ちゃんが死んじゃうよ!」

「分かった」

 ガチャガチャと何かがぶつかる音と、子供の声、大人の足音が混ざり合って聞こえた。

 子供達が救命院の医師を連れてきたのだ。

 部外者の声を聞き、英峰君と講堂老師の表情が苦いものに変わる。

 その一瞬を氷輪は見逃さなかった。

「燈玉!行くぞ!」

 私は薬箱の肩紐を掴み、師匠を追って建物の屋根に飛び乗った。

「待て!」

 背後から英峰君の怒鳴り声が飛んでくるが、待てと言われて待つ馬鹿はいない。

 屋根から屋根に飛び移り、師匠と並んで貧民街を後にした。




 全速力で宿に戻った私は、部屋に付くなり氷輪から大目玉を食らった。

「阿呆!危険なことはするな、命が脅かされたら逃げろと何度も言ってるだろうが!私が間に合わなかったら、今頃お前は鞭でひき肉にされていただろうよ!」

「うう~ごめんなさい。でも、子供達が殺されそうなっていたんです。黙って見殺しにすることは出来ません」

 拳骨が六発ほど振ってきたが、甘んじて受け止めながら訴える。

「……確かにそうだが、この怪我は何だ。この怪我は」

 私の上半身を突きながら師匠が言った。

 鞭で裂けたところから、だらだらと血が流れている。

「師匠!師匠!おやめください!」

 傷口がどくどくと脈を打ち、痛みがじわじわと広がってきた。

「なにが「私は平気です」だ。ほら傷口を止血するからとっとと服を脱げ」

「師匠ー!」

 乱暴な手つきで服を引き剥がされ、傷口が擦れてひりひりと痛んだ。

「うるさい!動くな!」

 傷口を拭われ薬を塗られ止血帯を巻かれたが、その間私はひいひい言っていた。

 全く慈悲の無い手つきで処置が終わるころには私の喉が枯れた。

「うううぅ、師匠。先程お会いしたお二方は、師匠のお知合いですよね?」

 着替えで持って来ていた上衣に袖を通しながら、私は訊ねた。

 剣の手入れをしていた氷輪は溜息を吐きながら手を止めた。

「ああ、そうだ。燈玉、怖い思いをさせたな。済まなかった」

 そう言って、私の首に巻いた包帯に目を向けた氷輪は再び溜息を吐いた。

「いえ、大丈夫です、気にしていません」

 私は心の底からそう言ったが、氷輪は気まずそうに目を逸らした。

「あの男は私が出会った中でも群を抜いて獰猛で向こう見ずな性質を持っていたが、真逆礼を言ってきた子供に剣を向けるとは。いよいよ魔物にでも取り込まれたか?」

 心底うんざりした口調で話す師匠に、私は苦笑いを返した。

 師匠は基本的に人間のことを語る時は淡白だ。だが、英峰君のことはよっぽど嫌いらしく嫌味に嫌味が重なっていた。師匠がそう話すのも頷ける。たった一回まみえただけだったが、始終傲慢な表情を崩さず、他人の尊厳を顧みていない態度は見ていて不快だった。

 私は二人が氷輪を探していたと言っていたのが気にかかり、質問した。

「師匠、お二方は師匠を探していたようですが、何か心当たりはありますか?」

「ある訳ないだろう。私は十二年前に都を追われて以来関わりを絶っていたんだから。特に英峰君と講堂老師は宮廷の連中の中でも最も再会したくない相手だ。向こうもそう思っているだろうよ。ああ全く、息苦しい宮廷から解放されて自由に暮らしてきたというのに何故今になって私の元に現れるんだ」

 氷輪はそう言って、二つある寝台のうちの一つに寝転がり、「忌々しい」と呟いた。

 私はまだまだ聞きたいことが山のようにあったが、靴も脱がずに布団に顔を埋める銀髪の美女を見て、口を噤んだ。

 十二年前、宮廷で何があったのか私は詳しく知らない。

以前街で、「翠翼虎は身寄りのない赤子を連れて都を追われた」「国一番の宮廷魔導師が今では子守娘に成り下がった」と多分に悪意を含んだ噂を聞き、育ててくれた人に対して失礼だと思ったが真偽を確認した。

 私の問いに氷輪は嫌な顔一つせず、「そうだ。まだ赤子だったお前を拾って私は都を去った。私とお前に血の繋がりはないけれど、お前は私の可愛い娘だよ」

と答え、力いっぱい抱き締めてくれた。

 私はその答えだけで十分だった。

 氷輪は宮廷で何があったか、何故都を追放されたのか、決して私に話さない。

 街で自身が「子守娘」と罵られていても素知らぬ顔で通り過ぎる。だが、偶に見せる表情で、都を追放されたことは、確かに氷輪の心に影を落としているのだということを私は察していた。

 私達二人だけの家族で平穏に暮らしていくために、氷輪に過去のことを尋ねることはそれっきりしていない。だが、興味が無かったかけではない。

 何故、人目を忍んで生活していかなければならないのか。

何故顔を合わせたこともない人間から手酷く非難されなければならないのか。

 理由を知らなければ、感情の落としどころも見付けられない。

 私は氷輪と共に街で情報収集をする際、政や都の動向に詳しそうな人間を見繕っては十二年前に一体宮廷で何があったのか尋ねた。

 噂には尾ひれが付くものだ。

 どこまで事実なのかは分からないが、私は幼い頃の記憶や周囲の人たちの会話を繋ぎ合わせて、おおよその出来事を知った。

 十二年前、火離国は隣国と同盟を結んで、北の大国である帝国と戦争をしていた。もう一息で同盟国側が勝利しようとしていた時、火離国で大規模な内乱が起きた。

 内乱は国全体に広がり、国土は焼け、人々は野垂れ死んだ。死力を尽くして帝国に勝利し内乱を鎮圧したが、火離国には深い傷が残った。

 そんな時に、氷輪は都から追放されたのだ。

 時機から見て、戦場で何らかの責を問われたのだろう。

 何時いかなる時でも付けておくようにと言われた、翡翠の念珠を見やる。一般的な念珠のより長さは短いものの、強力な霊力が込められた翡翠の玉が連なる立派なものだった。

 ぐったりと寝台に転がる母を見て「おやすみなさい、お母様」と声を掛け、部屋の明かりを落とした。

 暗闇が優しく私達を包み込んだ。




 朝市から漂う料理の匂いと喧騒に呼び起こされ、ひりひりと痛む身体を持ち上げる。

「ふわぁ。もう朝か」

 外の賑やかな喧騒に、冷えていた身体が温まっていくような感じがした。

 私は寝台から降り、氷輪が寝ている寝台へ目を向けた。

 氷輪も目が覚めたのか、芋虫のように丸まった毛布がもぞもぞと動き、ぱっちりと開いた目が出てきた。

「おはようございます、師匠」

「おはよう、燈玉。傷の具合はどうだ?」

「出血も止まり、大分痛みも引きました」

「そうか、なら良かった」

 揃って身支度を整え、寝台を綺麗にする。二人共夜更かしにも早起きにも強い体質であるため、会話の拍子も早く動作も適格だ。

 師匠は卓に座り、何やら考え込んでいる。

「朝餉はいかがいたしましょうか?」

と尋ねる機会を探っていると、部屋の戸を叩く音がした。

 私は弾かれたように戸を見やり、氷輪は鋭い視線を投げかけた。

 とんとん、とんとん。と軽い音が繰り返される。

 私は眉を顰めた。

 宿の者を呼んだ覚えはないし、宿の者が所用で部屋に来たなら「お客様」と呼びかける筈だ。軽やかに戸を叩く音に私は答えた。

「宿の方ですか~?申し訳ありません。同伴の者がまだ起きていないのです。何かありましたか?」

 私はゆっくりと戸口に近付き、取っ手に手を掛けた。

 振り向いて氷輪の方を窺う。

 氷輪は黙って頷いた。

私は勢いよく戸を開けて、掌に集めていた魔力を目の前に立っていた人物に叩き付けた。

「なっ!」

 不意打ちに驚き、後ろに飛んで私の手から逃れる。

流石に冷静な判断をするな、普段以上に子供らしさを上乗せした声で話しかけたのに。

私は踵を返して、宿の窓から逃げようとした。氷輪が窓を開けた音がしたのだ。

氷輪は軽い身のこなしで窓から飛び降りただろう。私達にとって、一般的な造りの宿の二階三階の高さなどあってないようなものだ。

しかし、窓際で純白の背中が固まっているのを見て、私は一気に窓まで駆け寄った。

開け放たれた窓の外、往来の真っ只中に深い青を纏った美丈夫が佇んでいた。

「うわ」

 私は思わず、声を上げてしまった。

 部屋の入り口を見やると、何事もなかったかのように斬馬刀を佩いた武人が立っている。

 うわあ、この人達一晩中錦州陵を捜索したんだな。宿の特定が早過ぎる上に絶対に師匠を逃がさないという気概に溢れている。やられたな、扉の外にいる方には気付いたけれど、窓の下に張っていた方には気付かなかった。

 背筋に冷たいものが這い上がってくる。

 隣で窓の下を見詰める氷輪に顔を向けると、氷輪はこちらを見て僅かに首を振った。

 ――ここで逃げるのは得策じゃない。

 氷輪の表情を読み取った私は、天井を仰いだ。

 部屋の入り口から、勝ち誇ったような声が聞こえた。

「おい、氷輪。お前娘にどんな教育をしているのだ?扉を開けた途端奇襲してくるとは」

「子供に手を上げた人でなしが何を言っているんだ?」

 氷輪は温度の無い声で答え、臘月の柄に手を置いた。

「ここでやり合う心算か?宿が崩壊するぞ?」

 嘲るように英峰君が言い、氷輪が吐き捨てる。

「おい、お前の力量で私に勝てるとでも思っているのか?」

 師匠の容赦ない侮蔑に、英峰君の表情が凍り付く。

 私も喉の奥で息が詰まった。

(退路を断たれた上に怒らせてどうなさるお心算なのですか!)

 部屋の入り口でどす黒い炎が燻り始めたのが分かり、私は窓の外に一縷の望みをかけた。

 どこかに隙はないか必死に探したが、流石は宮廷教育係見事な立ち位置である。

 無理に逃れようと術を使えば行き交う人々に被害が出るかもしれない。

 こうなるんだったら、もっと人気の無い宿を取るべきだったと心の中で嘆く。

 怒りを顕わにした英峰君が部屋の敷居を跨いで言った。

「随分な言い様だな?退路は断たれ、ここは宿。全力で戦えば被害は確実なのに、その余裕はどこから生まれるのだ?」

 張り詰めた空気の中、氷輪は流れる銀髪を背中に払いながら答えた。

「余裕も何も、この程度で私を出し抜いた心算なのか?お前達二人が宿に辿り着いたことも、私を逃がさないように策を弄したのも知っているのに、切り抜けられない訳ないだろう?信じられないなら教えてやろうか。お前達は二時辰(※時間の単位。一時辰が約二時間)程前にへとへとになりながら宿にやって来た。ちょうど講堂老師が立っている辺りで寝込みを襲うか宿を出たところを捕らえるかで話し合い、油断しているであろう起き抜けを狙うことにした。講堂老師は宿の壁と道端に拘束用の術を仕込み、お前はわざと気配を消さずに宿に入った。本来なら扉を開けた瞬間に私達の意識を刈り取るつもりだったんだろう。だが、悪いな。私の娘はそこらの術士より優秀なんだ」

 朗々と話す氷輪に、私と英峰君は硬直した。

 英峰君は驚愕で固まり、私は衝撃で凍り付いた。

 全て分かっていて、何もしなかったのか!

 私の荒れ狂う思考を無視して、氷輪はこともなげに言ってのけた。

「私が留まってやったのには二つ理由がある。一つ目は娘の教育のためだ。燈玉、お前、外の見張りに気付いたのは何時だ」

 突然話しかけられて一瞬狼狽えたが、正直に答える。

「はい、気付いたのは扉を叩く音がする少し前です…………宿の外にまで人がいることには気付きませんでした」

 私の返事を聞いた氷輪は師の顔になって言った。

「ああ、今回は扉の気配に気を取られ過ぎたことと、周囲の環境の変化を察知できなかったところが問題だな。だが対処はまずまずだったぞ。今後女人の部屋に突撃を仕掛けるような不埒な輩の対応をする時は今日のことを思い出せ」

「分かりました」

 師匠の指導に思わず頭を垂れると、部屋の入り口から怒鳴り声がした。

「不埒な輩とはなんだ!おい!もう一つの理由は何だ」

「不埒な輩は、不埒な輩だろうよ。もう一つの理由は至極単純だ」

「そうか。言ってみろ」

「お前らの相手で消耗するより寝て体力を回復したかっただけだよ。一晩中寝ずの番でご苦労だな。目の下に隈が出来てるぞ」

 師匠のきっぱりした物言いに、私も英峰君も石像になった。

 氷輪は窓の外を見やり、部屋を見上げている講堂老師を手招きした。

「今逃げるのは簡単だが、後が面倒そうだ。話だけ聞いてやる、さっさと上がって来い」

 見張っていた相手から手招きされ、講堂老師は数回瞬きをした。

 だが、些細な事では動じない性格なのか黙って宿に入ってくる。心底面倒くさそうな顔をしながら、氷輪は備え付けの椅子に腰かけた。部屋の入り口で英峰君が顔を青くしたりあかくしたりしている。

(師匠、一体どうなさるお心算なんだろう?)

 窓際で固まっていると、氷輪の口から小さな声が聞こえた。

「ああ、喉が渇いたな」

 その声を聞いて私は、ハッとした。

 そう言えば、色々なことがあり過ぎて昨晩から何も口にしていない。忘れられていた胃袋が不満を訴えるように軋んだ。

 私は一階に降りて朝餉を貰ってくるか逡巡したが、師匠に一声かけて部屋を出る。

 入り口を横切る時、念のため袖口に飛刀を忍ばせていたが英峰君は年端も行かない餓鬼には目もくれず、椅子に座った美女を射殺さんばかりに睨み付けていた。

 ふん、師匠の方が強いもんね!

 私は部屋を出て階段を下り、一階の受付に声を掛ける。途中二階に向かう講堂老師とすれ違ったが彼は私を一目見たきり、黙って行ってしまった。

 私は迷った末に四人分の軽食と茶菓子を頼んだ。

 氷輪を宮廷から追いやった人間をもてなすなど業腹だが、食べ物があれば大抵の人間は凶暴性を顰める。薬を盛ることも考えたが、そう簡単に騙されてくれる御仁とも思えない。

 ――師匠は話だけ聞いてやると言っていた。つまり、話しの内容によっては交渉の余地がない訳でもないぞ、ということか。

 昨晩の英峰君の怒声が耳元で蘇る。

「俺と一緒に宮廷に来てもらおうか!」

 十二年捨て置いたというのに今更何があるというのだ。

 私は美しい女性の寡黙な後ろ姿を思い浮かべた。




 餅と茶器を載せた盆を持ちながら、肘を駆使して引き戸を開ける。部屋では、四角い卓を三人が囲んでいた。

 英峰君と講堂老師が入り口側、氷輪が窓側に座り何とも言えない空気が流れていた。

 壮年の美丈夫二人に見詰められていても動じることなく、氷輪は端然と席についている。

 私は入り口の傍に置いてある台に盆を置き、茶を入れて三人の前に置いていく。

「どうぞ」

 氷輪は小さく頷き、茶杯を煽る。

 講堂老師はもてなされることに驚いたのか、一瞬目を丸くしたがすぐに茶杯を手に取り、

「感謝する」

と私に言ってきた。

 品格のある人なんだなと私は場違いにも感心してしまったが、私の心の浮つきは英峰君によって粉砕された。

「おい、なんだこれは」

 眉を吊り上げて睨んでくる男に、

「軽食用の餅と緑茶です」

と、平坦な声で対応した。薬の一つでも盛っておけばよかったと今更ながら後悔する。

 氷輪が口を開いた。

「英峰君、お前礼儀作法をどこに忘れてきた?今すぐ探しに行った方が良いぞ?」

 首筋に氷の刃を突き立てるような声に、私は内心怯えながら氷輪の隣に座る。

 英峰君が彫りの深い顔を歪めて口を開きかけたが、それを遮るように講堂老師が言った。

「英峰君、控えよ。ここにいるのは下らない諍いを起こすためではないぞ」

 端的な指摘に英峰君は口を噤む。

 氷輪がふんと鼻を鳴らした。

「それで……どんな理由があって私の娘に手を出した?」

 氷輪の温度の無い問いに、講堂老師が頭を垂れる。

「昨晩の狼藉には謝罪する。貴殿の令嬢を傷付けてしまったことは弁解の余地もない」

 本来なら頭を下げるべきは師匠の目の前に座る傲慢な男の方だというのに、典雅な白皙の美男が氷輪に向き合っていた。

 氷輪の纏う空気が一変する。淡い銀灰色の瞳が黒く沈み、鋭い視線を自身の目の前に座る男に向ける。高圧的な褐色の美丈夫は何も言わない。

「講堂老師、貴方には借りがある。貴方の顔を立てるために話だけは聞こうと思っていたが……少し待ってくれ」

 低く抑えられた声が消えないうちに、ぱあんと甲高い音が鳴り響いた。

上背のある男の身体が入り口まで吹き飛ぶ。

氷輪は立ち上がっていた。

 目にも止まらぬ速さで英峰君の頬を張ったのだ。

 私の背中から冷や汗が流れる。

 今の一撃は只の平手打ちではない。氷輪の魔力を多分に乗せた強烈な一撃だ。一般人なら頭蓋骨が砕ける。案の定英峰君が起き上がると、額と口から血を流していた。

 氷輪は英峰君には一瞥もくれず、講堂老師を見やると手を収めた。

「講堂老師。一回確認しても良いか?貴方はあの人でなしと一緒に連れ立って行動していたのか?何かの間違いじゃないのか」

 有無を言わせない迫力が滲む一声に、講堂老師は居住まいを正した。隣に座っていた同僚が吹き飛ばされたのにも関わらず、表情にも態度にも変化がない。

 まるで、英峰君が平手打ちされることを読んでいたとでも言うような印象だ。

 講堂老師は、白い体躯から溢れ出している殺気に臆することなく口を開いた。

「ああ、そうだ。英峰君と共に、貴殿を探していた」

「上からの指示か?ははは、そうだろう?最悪な人選で道中は気苦労が絶えなかっただろう、災難だったな講堂老師」

 口調は明るいが、纏う空気は煮え滾る溶岩そのものだ。

 氷輪の白魚のような手が臘月の柄にかかる。

 じわじわと激しい怒りに肌が焼かれていく感覚がして、私の脳は警鐘を鳴らした。

 まずい、こうなった氷輪と向き合う人間の末路は一つだけ。

 私の目の前に血塗れになった部屋が広がった。

 濃い鉄錆の臭いが吐き気を引き起こす。

 それは一瞬のことで、瞬きをすればまだ血塗れになっていない部屋がある。

 隣の人から発せられる怒気と殺気に慄きながら私は矢継ぎ早に言った。

「お母様、お母様。少し首の皮が切れただけで、私は平気です。これ以上は宿に迷惑が掛かってしまいます。どうか、臘月を収めてください」

 ゆったりとした白い袖を握り締め、「お母様」と繰り返す。七つで修練を始めてから滅多に言わなくなった懐かしい呼び名に、氷輪の肩が僅かに動いた。

 小さい頃から戦場も墓場も貧民街も見慣れてきた。

人が人を殺すことは珍しいことではない。氷輪が殺し屋を斬り捨てたところを何度も見ている。

 だが、私がそれに慣れることは一生ないだろう。

 暴力は嫌いだ。

 例えそれが誰かを守ることに繋がっているのだとしても、自分自身の命が保証されているのだとしても、あんな惨たらしいものを受け入れて良い筈がない。

 だから、氷輪に必要以上に剣を振って欲しくなかった。

 私は力を込めて袖を握った。上目遣いで師匠を見上げる。

 銀灰色の瞳が細められる。私は黙って首を振った。

 やめてください。

 氷輪の視線が私の首元に注がれる。昨晩の切り傷は包帯で見えない。

 私の祈りが通じたのか、氷輪は大きく溜息を吐いた。

「そうだな、宿を弁償出来る程の金子を持って来ている訳でもない。分かった、止めるよ」

 臘月から手が離れたのを見て、私はほっと息を吐いた。

「おい、英峰君。燈玉に感謝するんだな」

 氷輪は起き上がった英峰君に向かって言い放った。

 英峰君は額を抑えながらちらりと私を見やる。

 琥珀色の瞳が私を捕らえると、暗い色に濁る。

 言い様の無い悪寒が足先から這い上がってきた。

 まだ二回しかあったことが無い子供に向ける目ではない。

 何か……もっと暗く淀んだものが彼の中で渦巻いているのを感じ、私は反射的に目を逸らした。あれは見続けてはいけないと本能が知らせる。

 私が縮こまっていると、英峰君は顔に付いた血を拭って何事もなかったかのように席に戻って来た。

 氷輪は英峰君には一瞥も寄こすこと無く席に付き、講堂老師に向かって口を開いた。

「して、私を宮廷に呼び戻しに来た理由は何だ?十二年も前に都を追放された私に何の利用価値がある?この国には将来有望な若者も、歴戦の猛者も揃っているだろうが」

 咎めるような口調に講堂老師は鋭い視線を投げかけ、英峰君は眉を吊り上げた。

 温度の無い空気が部屋を支配し、呼吸器官を圧迫する。

 宿の外から賑やかな笑い声が部屋に響き渡った。ああ、この世にも笑い声は存在するのだなと思い返すほど、部屋の空気は張り詰めていた。

 唇に残った赤を拭うと、琥珀色の目を細め低い声で英峰君は言った。

「厭忌入道が脱獄した」

「何だって?」

 私の隣で師匠が身を強張らせた。私も聞き間違いではないかと思い、

「厭忌入道?何かの間違いでは?」

と返していた。

 掌がじっとりと汗で湿り始める。言い表しようのない寒気が骨の髄を蝕み、全身に毒虫が群がり、皮膚を食い荒らされていくような痛みが広がる。

「有り得ない。彼は十二年前に内乱を起こした際、国中の魔術師によって身体の自由を奪われた後、何重にも拘束術を掛けられ地下監獄の最奥に封印された筈です。一度投獄されたら生きて戻れないと言われる程厳重な警備を敷かれている監獄から脱獄したなんて……信じられません」

 私は思わず首を振った。

 脳裏に、焼け落ちた街の景色が蘇る。

 氷輪に手を引かれ、私は広場に積み上げられた遺体に手を合わせた。ぼろぼろになった住人の手当てをしながら、師匠は街に蔓延っていた悪霊を払い、崩れた家屋を修繕した。都からの救援は僻地であるために遅れ、日を追うごとに広場の遺体は増えていった。

 氷輪は悪霊を斬り捨てながら、遥か先を見据え唇を噛み締めていた。

 老いた両親を失った小作人が、泥を啜って喉の渇きを癒しながら呟いた。

「ふざけるな……ふざけるな!厭忌入道め。封印されて尚、民草に牙を剥くのか!俺達に一体何の恨みがあるって言うんだ!」

 その街は、厭忌入道が操っていた悪霊によって焼かれたのだ。

 当時私は四歳だった。

 四年も封印されているのにも関わらず、厭忌入道にまつわる事件が至る所で起きていた。

 鉄錆の臭いが口の中に溢れる。

 耳元で家族の亡骸を掻き抱いて泣き叫ぶ人々の声が木霊した。

 あんな惨劇を引き起こすことができる人間が地の底から這い戻ってきたと言うのか。

 息が上手く吐けないでいると、隣から感情の無い声がした。

「奴も、自力で脱獄した訳じゃない。奴の部下が外部から手引きしたんだ。十二年前の残党がいたんだよ」

 私はその声に弾かれるように師匠を見上げた。

 銀灰色の瞳が天井の一点を見詰める。

「そうだろう?」

 滑らかな低い声が部屋に散った。

 決して大きな声ではないが、確信に満ちたそれは部屋にいる人間全員に降りかかった。

 押し黙っていた英峰君が、唇を震わせた。

「そうだ」

「ハハハッ」

 氷輪が乾いた笑い声を上げる。

 涼やかな顔が僅かに歪んだ。

「十二年前、奴は国の魔術師総出で封印したんじゃないのか?あの時、お前らは私に言ったよな?「厭忌入道は力を奪って最奥に封印し配下は全て始末した。これで国を害することは不可能だ」と。ハハッ……それなのに、みすみす脱獄を許したのか」

 講堂老師が口元に当てていた扇子を懐に仕舞い、氷輪に向き合った。

「ああ、そうだ。厭忌入道の残党がいた。氷輪、お前が正しかったのだ。今の国の戦力では厭忌入道に太刀打ちできない。どうかきゅ」

「ふざけるな!今頃私の元に現れて「お前が正しかった」だと?だったらなんだ!十二年前私の言い分を聞かず宮廷から追放したのは誰だ?再三の忠告を無視して中途半端な封印を施したのはお前達だろう!「残党がいた」?ふん、そんなところだろうな。十二年前に保身に走ったツケが今になって巡って来たんだ。宰相や大臣達は首を刎ねられても文句は言えないだろうな」

 白づくめの玲瓏な人は怒りが限界に達したのか、引き攣った笑いを浮かべながら目の前にいる権力者達を痛烈に非難した。

「氷輪……」

 講堂老師のくぐもった声に、師匠はすぐさま切り返した。

「自分達で蒔いた種は自分達でどうにかしろ、私は知らん!二度と宮廷に関わるつもりはない!」

 明確な拒絶に部屋が静まり返る。

 私は隣に座る師匠をちらりと盗み見た。

 私より上背のある氷輪の表情は、垂れ下がる銀髪によって隠されている。声からして積年の怒りが込み上げてきているのだろう。だが、私は拭い切れない別の感情も潜ませていることに気が付いた。

 本当に厭忌入道が脱獄しているなら、火離国全土に血の雨が降ることになる。

 それを見過ごす師匠ではない。

 各地を奔走し、厭忌入道を討伐しようとする筈だ。

 だが、今までのやり方ではすぐに限界が来る。幾ら師匠が「翡翠の翼を有した虎」と称賛されるような稀代の術士だとしても、一人の力はどこまで行っても一人の力なのだ。

 国は早急に手を打たなくてはならない。確実に厭忌入道を葬る手を。

 もし間違った選択をすれば、火離国に安寧の日々は二度と訪れなくなるだろう。

 誰もが押し黙っていると、英峰君が息を吐いた。

「宮廷魔導師として政に関わるよりも、「子守娘」として隠遁生活を送る方が性に合っていたか」

 憎らしいくらいに落ち着いた口調で、英峰君は言った。

 数ある氷輪の蔑称の中でも特に悪意が込められた「子守娘」に私の背筋が凍る。氷輪がそう言われる原因になったのは自分だと解らぬほど無垢ではないのだ。

 英峰君の声に、氷輪の硬い声が答える。

「おい、わざとだな。私の自尊心を煽って了承を取る作戦なら残念ながら逆効果だ。お前は昔から私のことを嫌っていたが、全くご立派な人間だよ。金輪際私達の前に現れるな」

 氷輪はそう言って冷め切った茶を飲み干し、袖を翻した。部屋の中に突風が巻き起こる。目を庇うために腕を上げると、腰に手を回された。ぐらりと身体の支えが無くなり、浮遊感に捕らわれる。

 風に身体を持ち上げられ、足が床から離れた。目眩を覚え掻きまわされた胃液が喉から溢れそうになる。私は強く目を瞑り、不快感に耐えた。

 耳元で風が猛り狂い、内臓と身体が引き剝がされていくような感覚がし、私は縋るように腰に回された腕を掴んだ。

 空気の匂いが変わり、徐々に風が収まっていく。

 足に地面が触れ、途端に体が重くなる。

「ううっ」

 風が収まると、私は氷輪と共に川辺に立っていた。浅い水底に苔が色を添え、川魚が時折身を躍らせて飛沫を上げる。遠くに大きな橋があり、一台の牛車が渡っていくのが見えた。

「師匠ー!びっくりさせないでください。座ったまま風を起こすなんて……ああ、宿代払っていませんよね⁉どうしましょう?」

 千鳥足で先を歩く氷輪の後を追うと、白い礼人が振り返った。

「ああ、驚かせて済まなかった。宿代は立ち去る寸前に、卓の上に置いて来た。部屋に居た奴らが手を付けない限り大丈夫だろう」

 口を開きながら、氷輪は紗布が付いた笠を目深に被った。

 私は頭を振って不快感を逃し、氷輪の隣に並んだ。懐から頭巾を取り出し、悪目立ちする杏子色のくせ毛を纏めて押し込む。宿を逃れる時に持って来たのだろう。氷輪は私の薬箱を担いでいた。

「申し訳ありません師匠。そちらは私がお持ちいたします」

「おお、頼む」

 私は頭を下げて、氷輪から薬箱を受け取り急いで背負う。昨日薬が売れた分、普段より軽かった。小石を踏み鳴らしながら私は師匠に訊ねた。

「師匠、厭忌入道が脱獄したのは本当でしょうか?町ではそんな話、一言も耳にしませんでしたよ?」

 遠くから市場の賑やかな声が聞こえてくる。屋台の料理の匂いが風に乗って鼻腔を優しく擽った。氷輪は背筋を伸ばし、服の裾を靡かせながら言った。

「恐らく事実だろう。昨日情報を集めた時、やけに都近辺が騒がしくなかったか?火事や宮廷の死人も厭忌入道が関わっているなら説明が付く」

「でも……厭忌入道が脱獄したなら厳戒令を出して民に警戒を促すべきでは?何も知らないまま賊の餌食になりますよ?」

 私は胸に痞えていた問いを吐き出した。

 氷輪は小さく溜息を吐いて言った。

「そうだな、上の連中が奴の脱獄を天下に知らしめないのには大きく分けて三つの理由がある。一つ目は我が身の保身。大陸一の警備を誇る地下監獄が破られたとなれば我が国の軍事力は面目丸潰れだ。二つ目は情勢の安定。このところ西側の隣国が不穏な動きを見せている。今のところは様子見で済んでいるが厭忌入道が脱獄したことが知られてみろ。これ幸いにと攻め入られるぞ。そうなれば国は内と外の両方から破滅する。最後の理由は、国内の混乱を防ぐためだ。奴は人々の心の隙間を上手く利用してくる。味方同士で疑心暗鬼になれば最悪同士討ちが始まるだろうな」

 淡々と説明する氷輪を見上げながら、私も焼け落ちた街の数々を思い出す。

 そこでは、厭忌入道が封印されるまでにどんな悪行を成したか語られることも多かった。

 彼は悪霊や死霊を操り、人々を騙して殺し合いをさせたそうだ。彼の言葉一つで人々は錯乱し、家族や友人を容赦なく手にかけていったという。

 そんな恐ろしい力を持つ厭忌入道が蘇ったとなれば、確かに民は混乱するだろう。その混乱さえも利用して厭忌入道が何か仕掛けてくるかもしれない。

 あの光景が国中に広がるのだ。どれだけ恐ろしいか嫌でも理解する。

 川辺から土手に上る氷輪の後に続きながら私は口を開いた。

「師匠、これからどうされますか?」

 氷輪は私の方を振り返らずに答えた。

「ひとまず貧民街を探る。昨晩の老人と大男に繋がる痕跡が残っているかもしれないし、消えた住民や子供達も気がかりだ」

 粛然と答える声に、私は肩紐を握り締めた。

(やっぱり、困っている人々を放っておけないじゃないですか)

「分かりました」

 私は喉元に出かかった本音が出ないよう、簡潔に返事をした。

 私達の足は貧民街へと向かう。砂塵が時折舞い上がる中、私は思った。

 ――師匠、今でも本当は民を守る盾でありたいと思っているのではないですか?

 喉元まで声が出かかるが、どう頑張っても意味のある音にはならない。

 私は結局黙ったまま師匠の後に続いた。

 






 

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鳳雛戦記 楓蔦居士 @aiu624

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