第3話

「いつしか、大神田さんに言われたことがある」


「大神田?」


「僕を育ててくれた、親みたいな人だ」


「あぁ」


「子供のうちは何をしてもいい。人は知ってから判断することが出来る。その代わり、大人になってからは責任を持って、与える側にならなければならないって」


「ふぅん。尤もらしい言葉だけど。別に特別発見もないわ」


 二人は再び歩き出して、また人気のない方へと歩き出した。その辺りは舗装されていない、いわば廃れた町の端っこ。廃工場、廃病院、廃教会。あちらこちらに貧民街の住人が住み着いた跡が残っている。


 それが今、誰もいなくなったのは、理由がある。しかし、彼らは。

 誰もいないその道を歩き続けていく。


「僕は何も分からないし、何も知らない。今この瞬間も知っていくことばかりだ。だから誰かに何かを与えることも出来ないし、そういうことは自分からしないと決めたんだ」


「どうして」


「正しいか、分からないから」


「でも、その人からは好きにしろって言われたんでしょう」


「だとして、僕は何も得られない。それを判断することが出来ないから」


「つまり……お礼の気持ちとか、そういうのが貴方は分からないのね。誰かに指示されなきゃ、何も出来ないし、意味も感じない」


「お礼、指示、そうかもしれない。与えてもらえるものが物なら分かるし、求められてるものが決まったものだったり、形が決まっていれば僕にも出来る」


 ヤマダは他人の感情の変化に敏感だった。でもそれはセンサーが感知するのと同じで、ヤマダ自身に何か与えるものではなかった。彼は既に、そういうものを捨て去っていたのだ。


 それを知って、別段憐れむわけでもなく、ただただ理解したという表情の彼女。ヤマダと話す前であれば可哀想な子だと一蹴していたかもしれない。足元に転がる空き瓶や腐った残飯を蹴飛ばしながら。


「でも、それを消した、ってのはどういう意味なのよ。さっき言ったでしょ。私と同じように、何か繋がるものがある、って」


「あぁ、そうだね」


 ヤマダは呟いて、彼女が蹴飛ばした空き瓶に重ねるように、空き缶を蹴飛ばした。少しだけ間が空いて、ヤマダは彼女の方を見ずに言い放った。


「僕がどうして生きているか、ってこと。その疑問を、思わないようにしたんだ」


「え?」


「さっき価値の話をしたでしょ。僕にはその価値を測る方法なんてない。だからいつ死んでもいい。そう思うのが普通だった」


 ヤマダの言葉に、納得したような、少しバツが悪そうな、そんな表情を見せる彼女。何よりもその言葉には、確かに自分と重なるものがあるように思えていた。


「けれど僕は大神田さんに拾ってもらって、価値を与えられた。なら、その通りに生きていくしかない。だから僕は今幸せだし、価値がないとは思わない。そういう考え方が、きっと君にもあるんじゃないかと思って」


 ヤマダがそう問いかけると、彼女は少し言い淀むようにして。


「私は、別に。生きていくためには、こうするしかないって知って、覚悟を決めたけどそれでもやっぱり無理だって思った。それと価値と、どんな関係があるの? 私に価値があるとして、要求されたセックスを断ったら、その価値がゼロになるってこと?」


 彼女はゆっくりと取り乱しながらも、先のように声を荒げることはなかった。二人はそうして、またゆっくりと立ち止まる。寂れた教会が佇んでいた。


「それは分からない」


「分からないんでしょ。なら勝手なこと言わないで。やっぱり、やっぱり貴方とは違う」


「違わないよ」


「違うって言ってるじゃない」


「なら、君は何がしたいんだい」


 ヤマダは問いかける。ついさっき問答をした時よりも、ずっと近い距離で。彼女も、その言葉で突き放しながらも、確かに彼の目を見据えたまま。


「何、って」


「君が何がしたいか、を聞けてない」


「私は、私は生きていきたいだけ。こんな風に自分を犠牲にせずとも生きていけるような」


「でもそれが無理だって、君の生き方じゃ矛盾するんだって、自分自身でわかってるんでしょ」


 彼女の言葉を、容赦なく制す。彼女は窮す。ヤマダは続けて言う。


「子供のうちは何をしてもいい。でも、僕らに出来ることは限られてる。つまり、出来ないことが確かにあって、諦めなきゃいけないってことだ。それをするためには結局、大人に頼るしかない。大人の言うことを聞いて、要求に答えなきゃいけない」


「だから、だからそれは嫌だって……」


「嫌なら我慢するしかない」


「それならどうやって生きるの! 我慢なんて出来るわけ……」


「君も、ちゃんと子供だね」


 その言葉に、彼女は赤面した。酷く怒っているようだったが、言葉にならない。それでも先よりは納得したように、少しずつ膨らんだ風船の空気を抜くみたいにして、ヤマダとの対話を続けようと。


「それを、セックスをしたくない、っていうのが君のしたいことだと思ってた」


「そんなの、屁理屈じゃない。それはそうだとしても、それが分かったって、何も変わらないわ」


「じゃあ、もっと簡単に言ってみればいい。」


「簡単……?」


「僕は、生きていきたいだけ。その手段が、ただセックスだっただけだよ」


 ヤマダの言葉に、彼女は一瞬の間を空けて、目を見開いた。

自分と同じくらいの、同じ子供に何を言われているのだろうと。


 大人の欲望が肥大した結果、本来の生殖行為から外れて犠牲になったとも呼べるヤマダという存在。

ただただ生理的に、汚らわしいとさえ思っていた彼から、どうしてそんなにも清々しい言葉ばかりが出てくるのだろうと、疑問に思っていた。


 彼は感情がない、ロボットのような人なんだろうと。

それか、聖人のように生きるように育てられた。もしくは、迫害された後遺症で、すべてがポジティヴになってしまうのか。


 そのいずれでもなかった。ヤマダはやはりヤマダそのもので、確かに彼はその生き方を含めて、彼という存在だったのだ。その境遇や、今の環境が彼を形作るものではなくて。

 彼の生き方は、彼が決めているのだと。


「わ、私は……」


 彼女が思わず発した声は、震えていた。けれど彼は、決して諭すような眼をしなかった。まるで彼女と一緒に緊張しながらも、精一杯手を握るみたいにして。


「私も、生きたい」


 彼女が言い切った時には、涙が零れていた。


「大人にも負けず、私が決めて、私らしく生きたいの」


 溢れる涙は決壊したまま、暫く流れ落ちていた。

 それを紳士らしく拭うような教養はヤマダにはなかったのだけれど。


「それが君の出来ること。価値だと、僕は思う」


 ヤマダはそう言って、まだ恥ずかしそうに笑う。

 彼なりに楽しんでいる。大人との有り触れたやり取りからは得られない、新しい経験を確かに獲得していた。





 彼女が落ち着けば、二人教会の中を散策し始めていて。彫刻のほとんどが風化して崩れ落ちている。ガラスは割れ、建物の外側が辛うじて残っているような状態。


 椅子もテーブルもほとんどその機能を残しておらず、唯一残された一つの長椅子からは教会のシンボルの欠片を眺めることが出来た。暗闇に緩やかに差し込むほとんど照度のない淡い光が、だんだんと明るむ世界を示していた。


「ねぇ」


「どうしたの」


「さっきはその、ごめんなさい」


「どうして謝るの」


「だって、何も知らずに言いたいことばかり言った」


「それは君の権利だもの、僕がとやかくいう権利はない。これからも好きにしてくれていいよ」


 彼女はその応対にまた呆れ顔といった様子だったが、微かに笑ったように見えた。


「大人は醜いもの。それは私の中で変わらない。私を買った人も、これから買おうとする人も、許すには時間がかかる。けれど、それを私のものにすればいいんだものね」


 ヤマダはゆっくりと頷いた。ニュアンスの部分で理解しきれなかったが、彼女が決意を固めていたことは分かったのだ。


「ねぇ、今日も予約があるの?」


「予約? いや、今日はないよ。大抵日付が変わる頃に言われるから。今日は君に付き合っていて、実際どうか分からない」


「へぇ、人のせいにするんだ。勝手に王子様気取った割に」


「そんなつもりはないんだけどね。王子様じゃないって、君が言ったんだろう」


 ヤマダがそう言い返すと、彼女は控えめに笑う。

 荒れ果てた人生、それだけが広がっていくと思っていた。

 けれどお互いにそうではないことを知って、時を経て、また一つずつ歳を刻んでいく。


「そうね。子供に頼んでも、出来ないことはしてくれないんでしょう」


「何かしてほしいことがあったの?」


「アンタ、物の例えが少しも理解出来ないの?」


 彼女の言葉に、ヤマダは少し頭を捻る。けれど回答しようと思っていたことは、その質問とは違って。


「そうだ。今の今まで悩んでいたけれど、一つ決めたことがある」


 話の流れを無視されてため息をつく彼女。それでももう諦めたように。


「はぁ、何よわざわざ」


「僕は捨てていた。諦めていたんだ。けれど君と知り合って、いろんなことを学んだ。これは価値になってるはずだ。そうして結局僕らは、いつか大人になっていくんでしょ。その時には何もかもが出来ないといけない。与える側に、求める側になるんだから」


「そんな単純なものでもないと思うけど」


「子供の僕らは何をしてもいい。大神田さんの言葉はきっと、僕らに予行練習をしなさいと言ってる、そう思ったんだ」


「予行練習?」


「そう。価値のある僕が、一つしてみたいこと」


「いいから早く言って」


 彼はいつものヤマダではなかった。それでも、確かにヤマダだった。操られているような、愛想のいい、仮面を被ったような、あのヤマダ。常連が見たら、何か変わったなというかもしれない。それが面白くないと暴力を振るわれるかもしれない。けれど、今のヤマダには関係がなかった。


「君を救いたい」


「え?」


「これはうまく表現出来てるかわからないけど、君の王子様になろうかな、と思ったんだ。どうだろう?」


「ちょっと、話が飛びすぎて分からないんだけど」


 彼女はこれまでにないくらい狼狽していた。ヤマダはその言葉の節々に不安や、確認しながら紡ぐ所作があったものの、表情そのものはヤマダのままだった。


「僕は価値を手に入れた。今回の君との出会いで、今までにないものをたくさん手に入れたと思ってるんだ。これはこれから僕が誰かに会ったときに話が出来る。初めて価値として実感したものだ」


 それはどうだろうと彼女は言いたげだったが、ヤマダが説いてきたことからすれば、全うにも聞こえる。そして何より、考え方はどうあれ彼にとってそれは大きいことなのだと、彼女は分かっていて。


「価値があるなら、誰かに求めてもいいし、与えてもいい。僕は今日初めて、捨てたものを拾う。僕がそうしたいと、生きたいって思う以上に思ったから」


「そ、それが私を救うって、何と関係があるの?」


 彼女はバツが悪そうに聞き返すと、ヤマダは当たり前だと言わんばかりに。


「君に与えてもらえたから、恩返ししたい。大人に返すのはまだ無理だけど、君になら返せる、かもしれない」


 その言葉を聞いて、もう彼女も何も言わなかった。胸の奥に熱いものが込み上げてくる。滲み出る涙を抑えて。別にこんなもの、感動でもなんでもない。そう言い聞かせるために。はいはいと、態と煙たげに頷いて見せる。


「それで、何をしてくれるの。王子様」


「あぁ、そうだ。だから、僕とセックスしよう」


 彼女は思わず笑−−−わなかった。

 そうして複雑な表情を浮かべたまま、彼の手を引いて。


 もう明るくなるだろうと思っていた暁の空は、まるで二人の存在を理解しているみたいにじっとその時を止めて。

 欲望渦巻く歪んだ街に住まうたった二人の少年少女を。


 その瞬間だけ、この世に二人だけだった。



**




二人はそれ以降、会うことはなかった。

後にも先にも、彼が他の女性と寝たことはない。


その一帯は化学兵器によって汚染され、立ち入り禁止になった土地。

どれだけの時が経ったか、ヤマダはある日突然血を吐いた。

眩暈がして、頭痛、激しい吐き気に襲われてその場に倒れこんだ。

その時同じ場所にいた”買い手”は、じっとその様子を眺めていた。


ヤマダは意識が朦朧とする中でふと思い出す。

あの日のことを。


それ以降、彼は思うのだ。

今日も誰かを救えているのかもしれない。

自分自身も。そして、彼女も。


寒い冬を必死に乗り越えれば、桜が舞う春が来るように。

その桜を、自分自身が見ることはなくても。桜を咲かすために尽くしたのならば。桜が咲けば、確かに自分が生きた証になるのだ。


少年はヤマダと言う。

未だに本当の名前は誰も知らない。

生きる意味を失いかけた少女も。

けれど、そこに確かに存在した価値のことは、誰かが知ってるのだ。


今もまた誰かがここで。

大人になれないまま。

春を売り続けている。





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春を売る少年と eLe(エル) @gray_trans

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