第2話

 ヤマダの境遇を此処で語る必要はない。ヤマダがそれを求めないからだ。

 だが売春をしている未成年ともなれば、大方大層な暮らしとは縁がないこと、想像に難くない。


 ヤマダは「買い手」から親しみを込めて「ヤマ」と呼ばれることが多かった。ヤマダはその呼称を愛称として喜んで受け取り、彼らと接した。


 ヤマダはその「仕事」をしてギリギリの生計を立てていたが、それ以外の時間は年相応な暮らしをしていた。金が入れば友人とカラオケやボウリングをしてみたり。飲めぬ酒に手を出してみたり。そんな贅沢は月に数える程度。あとは日々可もなく不可もない安穏とした生活だった。


 彼は自らの春を売って生活をしている。


 今日もまたどこからか声がかかった。彼はその度に独り呟くのだ。


「ありがとうございます。」


 下宿先はこの町の裏の仲介人である大神田の別宅だった。古びた一軒家の二階に住まわせてもらっている。そうして「買い手」が見つかると大神田を通してヤマダに声がかかる。


 彼は声がかかると数少ない洋服からまともそうな服を着て待ち合わせ場所へと向かう。


『ヤマ、久し振りだね。最近忙しかったらしいじゃないか、僕がどれくらい君に会いたかったことか』


 待ち合わせ場所に現れたのは中肉中背のカトウという中年だった。彼はいわゆる常連で、会った瞬間からヤマダに馴れ馴れしく触れた。同性同士、第三者から見て配慮すれば仲のいい親子だが、カトウの触れ方には男色のそれが滲み出ていた。


「僕もカトウさんに会いたかったんだ。いつも本当にありがとう」


 屈託無く彼はそう言い放った。彼が世辞でそれを口にしていないことは、買い手は熟知していた。彼は世辞など言わないのだ。嫌なことは嫌と、良いことは良いという人間なのだ。


 そうして二人は当たり前のように歓楽街に光るネオンの麓、価格表示されている建物へと躊躇なく入っていった。その頃にはおそらく、手を繋いでいただろうか。


 平たく言えば彼はデリバリーヘルスに近しい。それも本番有りきの、違法な商売だ。従って彼の報酬は「買い手」の希望次第である。どこまでを求めるのか。何なら可能なのか。


「今日は何がいい? この前何かしたいって言ってたよね。僕も気になってたんだ」


 当然彼の存在の希少価値は高い。市場における絶対数が少ないという理由だけではない。彼はフリーランスであり、養殖か天然かで言えば、天然である。性的嗜好が男性なわけではない。そんな無垢な少年を我が物にしたい、調教したい、陵辱したいと思う世の男色家にとって、正しく希少価値だ。


 女性のそれと比較するには些か相違点が多すぎるため単純比較は出来ない。ただ、結局の所彼を求める者が多数いる。そして彼のような者は殆どとして居ない。それが相場の全てであり、彼の価値全てである。


 彼は個人事業主として、不当で過酷な肉体労働よりも体を売ることを選んだ。ある種、ただそれだけなのだ。


 もちろん、それが可能であったことは豪運でしかない。ある種不運であると嘆くものもいるだろう。それでも彼は今、幸せなのだ。誰が異議を唱えようとも、彼は今の環境を望んでいるし、可能な限りこれからもそうしていくつもりだろう。


「ありがとうございました、カトウさん。今度はさ、一緒にご飯でも食べよう?」


 ホテルから出てきた二人、ヤマダはカトウに本心からそう云った。彼の服は皺くちゃになっていた。所々破れていたり、染みになっている所も見える。


 カトウは嬉しそうに、けれど半分バツが悪そうに頷いた。そうして一瞬だけ思案してから微笑み、あぁ。それなら何が食べたいのかちゃんと考えておきなよ。ヤマのためならなんだって奢ってあげよう。と、答えた。


「本当に? ならね、焼肉が食べたいなぁ。最近食べてないんだよ、ビビンバとかさ」


 彼は遠慮なくそう言った。もちろんカトウも彼が遠慮をしないのを了解しているのだ。二人はやはり、まるで部活の大会を見に来てねとお願いする子供とその親のように、当たり前に約束を交わして、別れた。


「ふざけないでよ……もう、もう嫌なの!!!」


 カトウが去り、自分も家に戻ろうかと路地に入る瞬間の出来事だった。

甲高い叫び声のような怒号に、思わずヤマダはそちらを向いた。


 そこにはあられもない姿で飛び出してきた、肩で息をする一人の少女だった。


 服は着ていたが所々肌が露出している。無理やり衣服を脱がされた後のようだった。


 そしてどうやらこの場所はホテルの裏口だったらしい。その様子から察するに、彼女もまた”春を売る”少女なのだろうか。ヤマダは少し考えてから、彼女の方へと早歩きで向かっていく。


本来ならば興味を示さないヤマダが彼女へと近づいたのは、何でもない気紛れだった。


「どうしたんだい? ひどく興奮してる、落ち着いて。そんな格好じゃ、誰かに見られたら大変だ」


 彼女が何かを言う前に……否。正しくは彼女は何かを言おうとしていたが、息が詰まってまだ喋れない様子だった。それを制してヤマダは自分の服を羽織らせ、半ば無理やりにその路地から連れ出した。


 同業者だと、直感が告げたのだ。買春は売春する側も当然、責任が重いのだ。そして一度捕まれば同じことはできない。たとえ未成年であり守られる立場であっても、そうなった時に自分たちを養ってくれるのは国でも法でもない。即ち、新たに生きる術を見つけなければならない。さもなくば、野垂れ死ぬのみだ。


「ま、待って……ちょっ、貴方何なの?」


 ヤマダは何も答えない。別に、ヤマダは彼女を助けたいとは思わなかった。それは、”自分が助けることの出来る人間”だとは、本気で思っていなかったからだ。自分にそんな能力がないことは、もはや本能的に自覚していた。


 けれど、そもそも助けるとは何だろう。救うとは、なんだろう。それは自己意志と繋がっていなければ、唯の第三者のエゴでしかない。ヤマダはそんな自己意志を、無意識の内に神格化していた。ロボットが自我に芽生えた瞬間、その感情をまるで宝石のように大切にする、そんな想像に似ている。それは生きるためにそうせざるを得なかったのかもしれない。


 そうして彼女もまた、”救われたい”とは思ってもおらず……その感情のベクトルはヤマダのそれとは確かに違ったのだけれど。


「追ってこないね」


 ヤマダは、軽く駆け出してすぐに振り返っても誰もいないことに気がついた。念の為、走るのを止めてからも早足でホテル街の外れまで飛び出してきた。


 少し落ち着きを取り戻すと、彼女は震えた体で呟いた。二人は目立たない路地裏に入ると、速度を緩めてゆっくりと並んで歩く。


「私には、やっぱり無理……」


 ヤマダはその言葉を聞いて邪推したが、それが必要とないと悟って無言を貫いた。隣を歩く速度は変えぬまま。


「私はね、私は……こんなことするために女になったんじゃない。もっと当たり前に、友達と遊んだり、買い物をしたり、オシャレにハマったりしたかっただけなの」


 彼女は自嘲気味に、それもヤマダが何も言わないのを理解したのか、独り言のように呟いた。


「私は満たされると思っていた。求められれば、それで。それで空っぽが埋まるし、お金も貰えて生きていける。ううん、違う。そうしていかなきゃ、私みたいに何も持っていないければ、生きていけないんだもの」


 彼は変わらず前を見て歩き続ける。


「でも、もう嫌……あの嫌悪感に耐え続けるのも、乱暴な痛みにも、空っぽな愛の言葉にも、もう限界なの。私には権利も何もないんだって、思い知らされるの。私が選んだはずなのに。でも、私は、私にはこれしか選べなかったの……」


 そこで彼は、ゆっくり立ち止まった。


「選べなかった、って思うのはどうして?」


 彼女は遅れて立ち止まり、振り向いては生気のない顔で、興味のない顔でヤマダを見つめた。


「選んだのは君だよ。それは決して”選ばされた”ことなんかじゃない」


「……私が悪いということ?」


「いいや、違う。良い悪いじゃない。良いも悪いも、結局起こったことだって話さ」


 彼女はその言葉に苛立ったのか、それとも呆れたのか、ため息ひとつ吐いた後、ゆっくりと前を向いて歩き出す。


「……助けてくれる王子様だなんて思ってなかったけど、流石に不気味ね」


 不気味。ヤマダはその言葉に含まれる意味から、彼女の本意を汲み取ることが出来なかった。


「それは、王子様ではないからね」


「話してみて、一緒にいるのが気持ち悪いという意味。伝わってる?」


「それにしては随分長い道を一緒に歩いてきたと思うけれど」


 彼女はその投げかけには答えない。彼は”まとも”ではないと理解したようだ。


「じゃあ、どうして私に声をかけたの」


 ヤマダは少しだけ考えてから。


「同じ気がしたからかな」


「貴方と、私が?」


 彼女は半分不可思議な顔で、半分は嫌悪の表情で彼に投げかけた。


「どこが、とかじゃない。なんとなく」


「口説き文句としては三流ね」


 そうして二人はまた人気のない繁華街を歩く。


 けれどいくら若い二人とはいえ暗くなってからかなりの時間が経っていた。歩を進めるたびにポツリ、ポツリと人気が増えてくる。


 二人は極めて軽装である。ともなれば、あまり良い目で見られることはない。そうして危惧していた通り、警官がやってきたようだ。誰かから通報を受けたのだろうか。


 ただ、これも経験していることだ。経験していることなら対応できる、ヤマダは冷静だった。彼女はそれに気がついて少し狼狽した。ヤマダはすぐに彼女の手を取って走り出す。


 待て、と警官の声が響く。それに目もくれず、ヤマダは走り続ける。

 彼女は警官の方を一瞥したが、ヤマダが手を引く力に容赦がなく、感情を浴びせる間もなく必死に後についていくだけだった。


 ヤマダは決して体力に自信があるわけではなかった。それでも何故か、この時は必死だったのだ。これほど他人に興味を寄せたことが、自分自身珍しくて。彼女を通して見る自分が、何者か知りたい一心で。


 そうして二人は肩で息をしながら、見慣れない場所に辿り着く。人気を避けて走り抜けてきた。運が良かったとしか言えないが、彼らは逃げ切ることが出来た。辺りは静まり返り、人気もない。しばらく警官に見つかる心配もないだろう。


 ヤマダの倍以上、全身で呼吸している彼女を見て。


「ごめんね、お互い捕まったらまずいと思ったから」


 彼女は何も答えず、呼吸を整えるのに必死だった。


 それを待つ間、ヤマダはその数十秒の出来事を振り返っていた。

 何故か、それは笑みが零れてくるものだった。不思議だ。自分自身不思議でたまらなくて、思わずヤマダは独り呟いた。


「楽しかったなぁ」


「へ……?」


 彼女はまだ息を切らしながらも、ヤマダより大きな声で疑問符を発する。


「いや、こんな風に必死に誰かと走り抜いたのなんて、いつ振りだろうと思って」


「あのねぇ……子供じゃないんだから」


 彼女は呆れた口調で、ようやく呼吸も整うものの、もうだめだとばかりにゆっくり腰を下ろした。


「捕まったって、別によかったのに。私はもう、何もないもの」


 彼女は自嘲気味にそう言った。

 しかし、彼女も分かっていたはずだ。この地域で売春婦として捕まってしまえば、監視の目が付いて二度と同じことが出来なくなる。そして碌な職を恵んでもらえず、そのまま野垂れ死ぬ子供も大人も大勢いることを。


 彼女がそう呟いたのを聞いて、深くは聞かないと思った彼が口にした。


「僕のことを話そう。王子様ではないってことしか、君には教えていない」


「いつまで下らない冗談を引っ張るの。その身なりで、お世辞にも人間って表現がいい所でしょ」


 彼は年齢に対しては小柄で、痩せ気味だった。それもそのはず、食事は与えられる分だけ。

 時には異常性癖の持ち主から軟禁を受け、食事制限に掛けられることさえある。散々要望を聞かされた挙句、一文無しで逃げられることも珍しくはない。そうしてしまえば、彼は日々の食事を摂ることも当たり前ではないのだ。男に男を売るという商売が希少な分、単純な売春よりもリスクや難易度が上がってしまう。


 彼女はもう観念したのか、それとも単純に一人では心細いと感じたのか、ヤマダと会話することを受け入れた。それを感じ取ったヤマダは、意気揚々と自己紹介を告げる。


「僕はヤマダ。僕自身を売って生活をしている」


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