狛犬と少女-人外と少女の恋物語-

緑丸 鉄弥

狛犬と少女

 たとえば、空は黒以外に『青』と『鼠色』があるだとか。

 たとえば、蛇イチゴは食べても美味しくないだとか。

 

 そういう日常の些細な知識を教えてくれたのは、誰だったろうか。


 そこらの子供はきっと、大人から教えてもらうのだろう。ひとりで寂れた神社の隅に生きてきた男には馴染みのない単語であるが、きっと『親』というものからも教えてもらうのだろう。


 村のそばの、小さな山の斜面にもたれるようにして建つ、寂れた古い神社がある。

 手水舎の水は枯れかけていて、石畳には草が生え、鳥居は木の色が出てきてしまっていた。

 闇夜の中、男はそこに佇んでいた。


 今日は月が綺麗だ。

 大きく丸く、表面のデコボコまでもはっきり見える。

 

 今日はどうしようか。村に降りてみようか。

 しばしの間があったあと、男は鳥居の下の、長い階段の袂にいる影を見つけた。

 その影はあまりにも小さく、月明かりからの頼りない情報から石柱の横に蹲っているのだと分かる。こんな真夜中だから、酔っ払いだろうか。家に送り届けてやらなければ。

 

 男は真顔のまま、だが少しウキウキとした足取りで、鳥居をくぐり狛犬の台座を抜けて長い階段を下る。

 

「なぁ、あんた。こんなところで何を……あ?」

 

 影のそばに立って頭上から声をかける。

 と、そこにいた影に、男は固まってしまった。

 

 小さな影は、そのものずばり幼女が蹲っていた姿で、椿の散る紺色の着物を身にまとい、土で汚れた足を米粒みたいな手で必死に身体に引き寄せていた。長い黒髪は乱れ、細い肩が小刻みに震えている。

 

「……えーっと……」

「ぐすっ……」

「お嬢ちゃん、こんなところで何してるんだ?」

 

 一応、こちらは幼女よりは年上で、そっと彼女のそばにしゃがんで優しい声音を出す。子供の扱いは慣れているが、こんな時間に会うような年齢ではない。

 

 周囲を見回しても、親らしき人間は見当たらない。

 ぐずっ、ぐずっ、と小さく泣く幼女は、男の声に反応してくれない。ハァと大きく溜め息をつくと、びくりと小さな肩が震えた。そっとこちらを見た幼女の目に溜まっていた涙の量が、男を足先から頭まで見てますます増えていく。

 

「なぁ、おい、泣くなよ」

「うぇ……ぐすっ、」

「ったく、どうしたらいいんだ……」

 

 子供がより泣くのは仕方ないか、と男は自分の現在の姿を思い描いた。ぼさぼさに伸びきった黒髪、細い黒目に、白い肌。無表情で愛想は悪い。外で生活をしているせいで、身ぎれいとはとても言えた格好ではない。

 何より、幼女からしたら、手足の長い体格の良い男が突然声をかけてきたのだから、怖いと思うのも致し方ないだろう。

 

「俺ァ、別に変なものじゃない。こんなところで泣いてたら、誰だって声をかけるだろう?」

「……ぐず……おにいちゃん、だぁれ?」

「お前は?」

「わたし、やえっていうの」

 

 やえ。

 

 幼女はそう言うが、まったく名前のイメージがつかない。近所の子供なら名前と顔くらいは一致するのだが、記憶の中にこの「やえ」と名乗る子供の顔はなかった。

 どういう字を書くのか、と聞いてみたが、「八」と線がいっぱい、と言われてしまった。地面に思いついた漢字を書くと、「八重」だと分かった。

 

「歳は?」

「ごさい」

 

 それなら漢字が分からないのも無理はなかった。

 五歳にしてはやたら綺麗な顔をした子供だな、と思う。

 

「ここらの子供か?」

「うん」

「見ない顔だが……」

「このまえ、おとうさんとおかあさんといっしょにきたの」

 

 どうも引っ越してきたばかりらしい。

 それならこの辺りの地理が分からず、こんなところで蹲ってしまうのも分からないではない。

 が、それにしても、今は夜の帳が降りた頃。迷子だったとしても、もう少し村が騒がしくなっているだろうが、チラリと顔を上げても村の方面はシンと静まり返っていた。

 

「お前のとーちゃんとかーちゃんはどうした」

「わかんない」

「わかんないって……」

「あさ、どこかにおでかけしてから、ずっとかえってきてないの」

 

 だから、さがしにきたの。

 

 八重はそう言って、ギュウと膝を抱えて縮こまった。

 

「おにいちゃんのおなまえは?」

「……俺に名前はない」

 

 これは本当のことだ。八重は「ふーん」と言うぐらいで、特に名乗りに固執はされなかった。


「家の場所は分かるか?」

「うん」

「なら、俺が送ってやる。道案内しろ」

 

 男が立ち上がると、八重はキョトンと首を傾げたあと、唐突に泣き顔がパァッと華やいだ。

 

「おにいちゃん、やさしいね」

「優しくねぇよ。ほら、足元ちゃんと見て歩けよ。転んだらぶっ殺すからな」

「うん!」

 

 八重が小さな手を差し出してくる。握れということだろう。

 

 子供はどうしてこうも、根拠もないのに大人を信用するのだろう。

 男がもし殺人嗜好のある人間などだったら、どうするつもりなのか。

 だが、残念ながら男にそのような趣味はないので、少々うんざりしながらも八重の小さな手を握って歩き出した。

 

 八重の家は、男が寝起きしている神社から遠い場所にあった。

 道中、八重は一度も転ばなかった。少し石に躓きそうになったこともあったが、八重は「よっこいしょ」などと言い、石を跨ぐようにして避けた。

 

「転ぶなよ」

「うん!」

「転んだらぶっ殺すからな」

「うん! わかってるよ!」

「今転んだだろう?」

「ちがうよ! くさをよけただけだよ!」

 

 男の問いに、八重はケラケラと楽しそうに答える。

 大きな道から、細い道に入り、何度も右へ左へと曲がる。長い長い生垣のそばを歩いた先には門があり、そこには二人の人間が立っていた。

 

「あ! おとうさま! おかあさま!」

 

 その二人が、どうも八重の親らしい。

 彼女の親は必死になって近辺を探し回っていたようで、男と八重が家に到着すると着物も髪も振り乱した姿のままだ。八重の声にこちらに振り返ると、泣き笑いのような顔でこちらに走ってきた。

 八重も、男の手を離れて、両親の腕の中に飛び込んでいく。

 

「あぁ八重! 八重! よかった! いったいどこにいたんだい?」

「おとうさま、ただいま! ずっとじんじゃのすみにいたよ」

「そうかい、そうかい。すまないねぇ、遅くなってしまって……あぁ、無事でよかった。きっと神様が守ってくださったんだね」

 

 親子の輝かしい再会を見守る趣味はない。早々に立ち去ろうとすると、八重がこちらに振り返る。

 

「おにいちゃん! またね! さようなら!」

 

 またね。またね、か。

 男は、初めて言われた言葉の意味が理解できず、何も返事をしないまま闇夜の中に溶けて行った。


 翌日から八重は毎日神社にやってきた。

 いつもいつも昼に来て、そして夜になると男が八重を家に送った。

 太陽の下で見る八重は、なんだかキラキラして見えた。

 

「八重、どうして毎日ここに来るんだ?」

「だめ?」

「まさか。暇だし」

 

 三日ほどで言葉が上達すると、八重は男に「コマ」というあだ名をつけた。

 

「お兄ちゃんをなんと呼べばいいの?」


 そう聞かれて、だが男は答えられなかったからだ。

 男は『男』として人格形成されてから、一度も『名前』などというものがなかった。

 

 よく夜に会う人間たちにある『名前』が、自分にはない。

 言い淀んでいると、八重は少し考えたあと「じゃあ、神社にいるからコマね!」などと言ったのだった。


 八重は二週間もすればますます言葉が上達し、手足は米粒から白魚のような姿に変わった。

  

「なぜ、コマだったんだ?」

「だって、なんだかコマって犬みたいなんだもの」

 

 今なら聞けるかもしれないと「コマ」という名前の真意を聞くと、八重は笑ってそう言った。

 そうだろうか、と自分の姿を見てみるが、分からない。

 

「髪なんて犬のように固いし、歯だって私よりも鋭いじゃない。あとは、いつも家まで律儀に送ってくれるところとか」

 

 日に日に荒廃していく神社の社の隅に座って、八重は笑った。

 

 そうは言っても、女ひとりで夜道を歩くなど、危なっかしくてしょうがない。

 夜は危険だからと言っても、八重はケラケラ笑うだけだった。

 

「だから、狛犬みたいだなって思ったから、コマって呼んだのよ」

「……俺は犬なんかじゃない」

「あら、そう? 可愛いのに、狛犬」

「お前は知らないのか? あいつらは犬と名前はつくが、本性は獅子の仲間なんだぞ。犬なんていう、か弱い存在じゃないんだ」

「コマがそう言うのなら、そうなのかもね」

 

 訂正するよりも前に、コマという呼び名が定着してしまったので、今更訂正するのも憚られた。

 八重にコマと呼ばれるようになってから、なんだか出歩くのもおっくうになって、倒壊して主人のいなくなった狛犬の台座に座って毎日八重を待った。

 

 毎日八重は、長い長い階段を上って、狛犬の台座にいるコマの元へやってきた。

 毎日コマの元にやってきて、そうして笑って話すのだ。

 

「そうやってそこに座ってると、ますます狛犬みたいね」

「うるさい。ほら、足元に気をつけろ。転んだらぶっ殺すからな」

「はいはい。よっこいしょ。はぁ、本当にここの階段と道中はしんどいわね」

「八重が運動不足なだけだ。それに今、転んだだろう」

「転んでないわ。石を避けただけよ」

 

 コマの指摘に、八重が怒った素振りをして反論してくるのが、いつの間にかコマの毎日の楽しみになっていた。


 その日は、台座から降りて鳥居の横に生えた椿の木へ彼女を連れて行った。そうして八重の髪に椿を差してやると、八重は嬉しそうに笑って、代わりに美しい石が織り込まれた組み紐をくれた。石は、翡翠と言うらしい。

 

「コマは髪が長いから。私が結んであげる」

「いらん」

「いいじゃない。私が作ったのよ、これ」

「……自分でできない」

「あら、何も難しいことはないわよ。ほら、私が結んであげるわ」


 そう言って、八重がコマの背中に回り、細い指がコマの髪に触れた。

 髪を撫でる彼女の指がくすぐったい。彼女が着物から取り出した櫛が頭皮を撫でる感触に慣れない。

 思わず身体を捩るが、八重に「動かないで」と制された。


 涼しい風が二人の間を駆け抜けていく。

 山中から聞こえてくる山鳥の鳴き声に混じって、背後から八重の小さな鼻歌が聞こえてきた。

 こんな時間を、心地よいと思ってしまうだなんて、自分もだいぶ落ちたものだと内心自嘲する。


 ひとりで生きていくと、誰から教わるわけでもなく理解して、そうして二十五年も生きてきた。

 まだ自分の半分も生きていない八重相手にこんな感情を持つなんて、思ってもみなかった。


「……八重」

「なぁに?」

「いや、なんでもない」


 この感情を、言葉にできるほどの語彙がない。

 はぐらかしたコマに対して、八重が背後からこちらをのぞき込んできたが、ひらひらと手のひらで追い返した。

 

「はい、綺麗に結べたわ」

「……」

「どう?」

 

 枯れかけた手水舎をのぞき込むと、八重も手水舎の水たまりをのぞき込んだ。鏡のように映る水たまり越しに、八重は笑い、コマもそれに少しだけ口角が上がる。

 なんだか本当に、こんな気持ちは初めてだ。ふわふわして、八重と話すだけで身体の真ん中がぽかぽかと温かくなる。

 

 熱でもあるのだろうか、自分は。

 

 夜になって八重を家に送り届ける間も、八重はいつも楽しそうで、嬉しそうで、それがコマも嬉しかった。

 コマが山中で取ってきた鳥や鹿を、「最近食べるものがない」と言う八重に分けてやったこともあった。

 

「ほら見て、コマ。今日はなんて素敵な青空なんでしょう」

「……あれは、青空というのか」

「そうよ。あの色は青よ。あの白いのは分かる?」

「さぁ……」

「あれは、雲っていうの。今は白いけど、雨が降る日は鼠色なのよ」

「雨の日? あぁ、あれが、鼠色というのか」

「そうよ」

 

 八重は、聞けばなんでも教えてくれた。

 

 たとえば、空は黒以外に『青』と『鼠色』があるだとか。

 たとえば、蛇イチゴは食べても美味しくないだとか。

 

 長くこの山と神社に住んでいるコマよりも、木の実や山菜なんかはコマよりも八重の方が詳しかった。

 だから、コマもできる限り自分の知っている知識を八重に教えてあげた。

 

 たとえば、釣りをする絶好のポイントだとか。

 たとえば、神社の屋根の上り方だとか。

 たとえば、星が美しいことだとか。

 

 初めて屋根に上った日、あまりにも危なっかしくて見ていられなかったので、それからは毎回コマが八重を抱えて屋根に上った。

 棟部に腰かけて、抱えていた八重をそのままコマの膝に乗せた。その恰好に何やら口をモゴモゴと動かしていた八重だったが、コマが気にせず空を見上げたのにつられて視線を上げると、「わぁ!」と感嘆の声を上げた。

 

「ここから見る星は、本当にとっても綺麗ね!」

「あぁ」


 瞬く星が、彼女の大きな瞳の中にキラキラと降り注ぐ。

 月のない空だったが、それでも八重の周りだけがどういうわけか輝いて見えて、その眩しさにコマは目を細める。


「ねぇ、コマ。あの星、一等綺麗に輝いているわ」

「あれは北極星だ」

「北極星?」

「あぁ。いつも北にある星だから、もし道に迷ったらあの星を探すと良い」

 

 出会った当初の八重を思い出しながら教えると、八重もそれに思い至ったようで、顔を真っ赤にして拳でコマの胸を柔く叩いた。

 

「コマはなんでも知っているのね」

「それは、八重もだろう?」

「あら、そう? ふふ、嬉しいわ」

 

 八重は、本当によく笑う。カラカラコロコロと、鈴を転がすように、小石が石畳を跳ねるように。

 その笑い声を聞いていると、不思議とコマの心が落ち着いた。笑い声を聞いているのが、好きになった。

 

 八重と出会ってから四週間経ったころ、八重に小さなコブができた。

 コブは翌日には小さな『何か』になっていて、雨の上がった晴れの中、ふにゃふにゃむにむにと動いている。見たこともないその『何か』が分からず恐ろしくなって、台座から降りて鳥居の影に駆け込むと、八重もその小さな『何か』もケラケラ笑った。

 

「や、やややや八重。な、なんだその、小さいのは」

「えへへ、可愛いでしょ。赤ちゃんだよ」

 

 赤ちゃんだと笑う八重が、こちらにその小さい何かを渡してくる。受け取りたくなかったが、八重がやんやとうるさいので、渋々両腕を差し出した。

 

「頭を支えて、もう片方の腕を赤ちゃんの下に通して……そうそう! コマ、抱っこ上手!」

「……うれしくない」

「あらそう? でも、顔は正直よ」

 

 そう言われて、赤ん坊を抱いたまま近くの水たまりをのぞき込むと、どこかニヤついたような顔をした自分がそこにいた。恥ずかしいったらありゃしない。

 慌てて頭を振って、いつもの無表情に切り替えると、八重はおかしそうに笑った。

 

「ねぇ、コマ。コマは、ずっとここにいる?」

「……さて、どうかな」

 

 赤ん坊を早々に八重に返すと、珍しく神妙な顔をした彼女が、そんなことを聞いてきた。理由を促すも、八重は少し考えてから「ううん、なんでもない」とはぐらかす。

 何か話したいことがあるのかと思い、八重と赤ん坊を抱えて神社の屋根に上った。

 穏やかな風が流れる中、八重は赤ん坊を抱きしめたまま、コマの腕の中で顔を伏せてしまう。

 キャラキャラと笑う赤ん坊の声だけが空に溶けた。

 

「どうした。何があった?」

「別に。なんでもないわ」

「本当に?」

「うん。……ねぇ、コマ。コマは、ここの村は好き?」

「別に、特段好きでも嫌いでもない」

 

 コマの返答に、八重は「そっか」と言った。

 

「私は好きよ。ずっと小さいころから住んできたんですもの」

「……そうか。八重が好きなら、俺も好きだ」

「あら、ふふふ。ありがとう、コマ。私も、好きよ」

 

 それでも、八重は頑なになぜあんな問いをしてきたのか、理由を言わなかった。

 突然「ここの村が好きか」と聞いてきた理由も、言わなかった。

 

「ねぇ、コマ」

「なんだ?」

「私、コマと出会えて幸せよ」

「ん? しあわせ?」

「そう。幸せ」

 

 幸せとは、なんだろうか。

 

 いつもならすぐに聞けるのに、その日はなぜか言葉に詰まってしまって「しあわせ」とやらが何なのか、八重に聞くことができなかった。

 

 八重とあの夜に出会ってから、一か月と半月が経った。

 彼女の手は白魚のようだったのに、徐々にしわが増えていった。コマは、そんな八重の手が好きだった。

 

 優しく髪をなでてくれる手。

 少しひんやりとしているが、あたたかい手。

 

 八重も、コマの手を「あたたかくて、大きくて、好きよ」と言ってくれた。


「はい、これ」

「……なんだ、これ」

「あなたの組み紐、結構傷んできたでしょう? だから、新しい組み紐を作ったの。綺麗でしょう? 今度は水晶を入れてみたの」


 そう言って渡された組み紐には、確かにキラキラと輝く透明な石が入っていた。千切れかけていた古い組み紐を髪から抜き、新しいものに交換すると、八重は満足そうに笑った。


「なら、これを」

「なぁに、これ」

「孔雀石だ。この前見つけた。お前にやる」


 八重の小さな手に収まるサイズの孔雀石に、八重は驚いて目を丸くしたものの、嬉しそうに両手で包み込む。


「ありがとう、コマ」

「……ふん」


 素直に感情を出せない自分が憎たらしい。

 そっぽを向いたコマを見ても、八重は何も言わない。むしろ、嬉しそうに孔雀石を撫でるものだから、どうにも居心地が悪かった。

 台座の上で、あぐらをかいて座っていたコマの膝に両手と顎を乗せて、八重は「ありがとう、コマ」とまた言った。


 孔雀石を贈った次の日から、八重はそれをペンダントに加工して毎日身に着けるようになった。

 彼女の胸元で揺れる、硬貨大の孔雀石は、八重の美しさを一層引き立ててくれていた。


「ねぇ、コマ」

「なんだ」


 階段を、いつもよりもゆっくり上ってきた八重は、コマが手助けをしてやっと階段を上りきると、大きく息を吐いてからこちらを見上げてきた。

 身長だけは、この一か月半の間、コマの胸の位置から伸びる気配がなかった。


「コマは、ずっとここにいる?」

「なんだ、この前から。俺はずっとここにいると言っているだろう」

「あら、そう? そう、そうね。ずっとここにいるわよね」

 

 変な八重。

 コマがそう零すと、八重は苦笑して「ごめんなさいね」と言った。

 

 夜になると、八重は先月よりもゆっくりゆっくり階段を降りるようになった。杖、というものを持つようになった。

 コマが手を貸すと、八重は嬉しそうにその手を握ってくれた。


「八重、何か困っているのか?」

「違うわ、コマ。何も困っていないわよ」

「本当に?」

「えぇ、本当に」


 家に帰る道中も、八重は前よりもゆっくり歩くようになった。それに付き合って、コマもゆっくり歩くようになったが、これがなかなか、楽しんでいる自分がいる。

 しわの増えた八重の手を握って、ゆっくりと、星空の中を歩く。

 村の人間たちは、日に日に人数が減っているのを感じ取っていたが、八重は変わらず、神社から遠く離れた家に住んでいた。


 星空が、とても美しい。

 その下を歩く八重も、美しく、それは先月から何も変わっていない。


「なぁ、八重」

「なぁに、コマ」

「八重は今、しあわせ、か?」


 『しあわせ』というものが何かよく分からなかったが、『しあわせ』という度に心がぽかぽかとした風に思えて、きっとこれは良い言葉なのだろうとコマは漠然と理解していた。

 コマの問いに、八重は驚いて目を見開いたあと、ふにゃりと笑った。


「えぇ、幸せよ、コマ」

「そうか」

「あなたも、幸せ?」

「……たぶん」

「なにそれ、変なの」

「しあわせというのが、よく分からないんだ」


 コマが正直に言えば、八重は困ったように笑って、「じゃあ、私のことは好き?」と聞いてきた。


「好き、だと思う」

「そう」

「……変なのとは、言わないんだな」


 さっきは、そう言ったのに。

 コマが少し非難がましい目で八重を見下ろすと、八重はクスクス笑った。杖についた小さな鈴が、可愛らしい音を立てて夜空に溶ける。


「だって、これだけ一緒にいれば分かるわよ。あなたが私のことを好きかどうかなんて」


 そう言う八重の顔は華やかで、晴れやかで、コマはどうしてか自分の顔が熱くなるように感じた。慌てて顔を背けて、星を見る。


「ねぇ、コマ」

「なんだ」

「幸せっていうのはね、自分の中の『好き』がたくさんあればあるほど、『幸せ』って言うものなのよ」

「そうなのか?」

「えぇ。私もいっぱい好きなものがあるわ。だから幸せ」

「そうか。それなら、きっと俺も幸せだ」

「ふふ、そうね。幸せね、私たち」

「あぁ、幸せだ」


 彼女の中の『好き』に、自分がいる。漠然と、そう思えた。


「八重は、俺のことは好きか?」


 だが、そう聞いた時、八重の表情は芳しいものではなかった。

 どこか、泣き出しそうな、苦しそうなその表情に、思わず足が止まる。

 

 星は変わらず瞬いていて、月も綺麗な円を描いていた。


 こちらを見上げる八重は、一か月半前と変わらない顔で、少し白が増えた髪を風に撫でられながら唇を震わせた。


「えぇ、えぇ。好きよ、コマ。あぁもう、どうして、今そんなことを聞くの」

「……すまない」


 分からなかった、では済ませられないな、と胸の中で思う。

 八重の表情がどうしてもかわいそうで、コマはためらいなく小さな八重の身体を抱きしめた。


「八重、俺は、今幸せだ」

「えぇ、えぇ、そうね。私も幸せよ、コマ。ずっと近くにいてね」

「あぁ。約束する」

 

 抱きしめていた身体を離して、また二人で歩き出す。

 家に無事に送り届けた時、いつもは出迎えがいるのに、今日は誰も八重を出迎えなかった。

 明かりの消えた真っ暗な家に入っていく八重の背中を見ながら、言い知れない不安がコマを襲った。

 これは、いったい何なのだろう。

 分からない。

 分からない。


「八重」


 八重がいない場で、彼女の名前を呼んだのは、これが初めてだった。

 

 そこから半月の間、八重は神社に姿を現すことはなかった。


 家に行けば会えるのだろうが、どうしてかコマは台座の上から動けなかった。

 空は青色と鼠色と黒色を行き来して、雨も降った。雪も積もった。うるさく鳴く蝉の声も何度も聞いた。

 だが、八重はいっこうに姿を現さなかった。


 ずっと近くにいてね、と言ったのは、彼女の方なのに。


 だが、コマは台座から動こうとしなかった。

 もしかしたら、八重には何か事情があって来られないのだろうと思うと、動けなかった。

 

 きっとまた、ゆっくり階段を上ってきてくれるに違いない。

 台座に座るコマの膝に手を乗せて、ケラケラ笑ってくれるに違いない。

 きっと今は、何か外せない用事ができたのだ。

 きっとそうだ。


 コマが台座に座り続けてから、神社は新しく立て直された。

 コマが神社の屋根に上っている間、たくさんの人間が神社を訪れた。


 それでも、コマは神社から離れなかった。

 台座と鳥居と屋根を行き来して、組み紐がボロボロになっても石だけは変えずに組み直した。


 どうして、自分はこんなことをしているのだろう、と思った時もある。

 そんな時は、いつも八重と過ごしたあの二か月間を思い出すようにしていた。

 八重が笑った時、八重の瞳に星が降った時、八重を抱えて屋根を上った時。

 そういう日のことを思い出すと、胸がぽかぽかして、そしてギュウと目じりに痛みが走った。


「やえ」


 名前を呼んでみても、来るはずがない。


「やえ……」


 台座の上から八重の家がある方向を見てみても、村が徐々に大きくなってしまって、もう台座からでは彼女の家がある地域は見えなくなっていた。

 そうしてまた、コマの目じりに痛みが走った。


 台座に座って八重を待ち続けてから、何年経っただろうか。

 その間、神社はまた寂れてきた。

 手水舎の水は枯れてきて、石畳には草が生え、鳥居はまた木の色が出てきた。

 

 真面目に日にちを数え始めてから、二十年経った頃。

 また、夜が来た。

 台座に座って月を眺めていたコマがふと視線を下げると、何やら小さな影が石柱のそばにあった。

 こちらをジッと見上げていて、なんだ、とコマの眉が寄る。


 小さな影は、こちらを見つめたあと、階段を上ってきた。

 ズンズンとやたら力強い足取りは、神社の社に用があるようには思えず、コマは思わず台座の隅で縮こまる。

 小さな影は椿の散るワンピースを着ていた。小さなポシェットを斜め掛けしていて、何か入っているのか膨らんでいる。

 黒い髪に、大きな目。


 なんだか八重に似た子供だな、というのが最初の感想だった。


「お兄ちゃん」


 小さな子供は、台座の淵に手をかけて、ジッとこちらをのぞき込んでくる。

 

「お兄ちゃんは、ここで何をしているの?」


 何を、しているのだろう。

 少女の問いに、コマは考え込んだ。

 だが思考に大した時間はかからず、コマは座り直してから少女の頭に手を乗せてゆっくり撫でた。


「待っている」

「なにを?」

「俺の、幸せな人だ」

「幸せな人? 好きな人ってこと?」

「そうだ」


 幸せとは、好きがいっぱいあること。

 八重の言葉を思い出して、コマは頷いた。


「そっか」

「……お前は、知らないか? 八重という、女の子なんだが」


 こうも村が大きくなってしまったら、知らないかもしれない。

 そう思い至ったものの、少女は希望の光のように思ってしまった。


「知ってるよ」

「……え?」

「知ってるよ、私」

「ほ、ほんとうか?」

「うん」


 やはり、彼女は希望の光だったらしい。

 少女に詰め寄りそうになってブレーキをかけたコマを無視して、少女はポシェットをまさぐっている。

 八重は、どこで何をしているのだろう。

 この少女は、八重とどこで知り合ったのだろう。

 わくわくと、どきどきと、少しの不安が入り混じったまま少女の出方を待つ。


 少女は、ポシェットから何かを取り出して、にっこりと笑った。


 その笑顔がまた、八重にそっくりだった。


「私が、八重だよ、コマ」


 少女が手のひらを開く。

 そこには、ペンダントに加工された孔雀石が握られていた。


「ごめんね、いっぱい待ったよね、コマ」


 目の前がぼやけて見える。

 ボロボロと、痛みを発する目じりから、涙が零れ落ちていく。


「コマ」

「八重……八重、なのか?」

「うん、そうだよ。ごめんね、コマ。ずっとずっと待ってたんだよね」


 なぜ八重が謝るのだろう。

 待っていたとは、どういう意味なのだろうか。


 八重を抱え上げて、台座に上げる。

 コマの腕の中で、八重は嬉しそうに笑ったあと、くしゃりと顔を歪めた。

 

「私もね、会いたかったんだ」

「……うん」

「でも、ごめんね。私はコマとは、違うから」

「……うん。いいんだ。いい。謝るな、八重」

「ごめん、ごめんね、コマ」

「謝らなくていい、八重」


 小さな身体を抱きしめて、コマは生まれて初めて声をあげて泣いた。


 その泣き声はまるで狼のようで、それでも八重は嬉しそうに、一緒に泣いた。


「ずっと一緒にいよう、八重」

「……うん」

「ずっと一緒だ、八重。もう、ひとりは嫌なんだ」

「うん。ずっと一緒だよ、コマ」


 八重の返事を最後まで聞かずに、コマは立ち上がる。

 太陽の光が降り注ぐ中、二人の身体は光に包まれて、星が瞬くように次第に空へと溶けて行った。


 台座には小さなポシェットだけが残された。

 どこかの子供の行方が分からなくなったと、とある地方紙の隅に載った。


 おわり。

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