どうにもならない恋に救われて

きつね月

どうにもならない恋に救われて


 始めに断っておきたい。僕の想い人は非実在だ。

 つまりは妄想の存在であり、フィクションであり、齢十六才、高校二年生にもなって現実の彼女の一つも出来ずに妄想の存在に焦がれているなんていうのは、例え自分がどう思おうと世間一般的には恥ずべきことであろう、ということは分かるので、この事は誰にも話していない。誰にも言えない恋というやつなのだ。そもそも恋なのかどうかもよく分かっていない。詳しくないからよく分からないし。


 朝、教室にて僕は本を読んでいる。

 本の内容は何でもいいけど、なるべく「生きたい」とか「死にたい」って感じのものがいい。そういう物語を昼間のうちになるべくたくさん読んでおく。頭の中に取り込んでおく。そして夕方、ようやく学校が終わった僕はいつもの場所に立ち寄る。

 そこはとある駅ビルの、とあるショッピングセンターの三階。学生向けの鞄や靴を取り扱っているなんの変哲もない量販店だ。その店の真ん中あたり。柱の隅に女子の制服を着たマネキンが立っている。

 マネキンは女子の制服を着ていて、首から上と太ももから下がない。その背中には大きなスクールリュックを背負っている。どうやら新製品の展示のために用意されているマネキンのようで、リュックの種類とか制服の長袖半袖の違いはあれど、それはいつでもその場所にいた。あまりじろじろ見ていても店員さんに変に思われるので、僕はそれを少し遠くから眺めている。そういうことをもう二年近くも繰り返している。

「……」

 いや別に、このマネキンに恋をしているわけではない。

 命のないマネキンに恋をするというのも素敵だと思うけど、残念ながら僕は違った。じゃあなんでこんなことを繰り返しているのかというと、このマネキンは妄想の彼女と繋がっているからだ。

 つまり、マネキンを始めて見たのが一昨年の夏のこと―――それ以来、毎晩決まって必ずとある女子が夢の中に現れるようになったのだ。そして僕はその女子に恋をした。そういう意味ではこのマネキンが現実世界における彼女の姿だと言えるかもしれない。首もなく足もない。制服の隙間から見える肌の表面はつやつやとして味気ない。残念ながらこれが他人から見た僕と彼女の距離感になってしまうんだけど、僕はそれでいいと思っている。

 十分ほどそこに止まっていただろうか。これ以上はやっぱり変に思われてしまうのでそのくらいでお店を出る。三階のお店から一つエスカレーターを降りて二階の出口から外に出ると、傾きかけの太陽が駅前の広場を照らしていた。広場には大きな木が植えられていて、その周りにはたくさんの人がいる。誰かと話をしている人、誰かを待っている人、誰かの待つ家に帰る人。現実の世界にはたくさんの人がいて、妄想の世界には彼女しかいない。そんな景色を昼と夜で交互に繰り返していると、時々どっちが本物なのかわからなくなる。果たしてどっちが今僕がいる世界で、どっちが今僕がいない世界なのか。 

 現実世界は僕がいなくても回るけど、妄想の世界は僕が死ねば終わる。それならば僕にとってより大切な世界とはどちらなのか。

「……」

 まあそんな問いかけにはっきりとした答えなんかあるはずもなく、僕は首を傾げながら人混みの間を抜けて家路についた。長い影が僕の足元にも伸びて、たくさんの人影が重なって出来た暗い闇の中に紛れていった。

 夜の気配がした。


★★★


 帰宅すると僕は冷蔵庫の中に用意してある晩飯を食べて、お風呂に入って歯を磨いて寝てしまう。時刻は午後八時半ぐらい。高校生にしては破格に早い就寝だと思うけど、それでいい。

 彼女と会う夢の内容は様々だった。

 陽が落ちたばかりのまだ新鮮な夜の時もあれば、二度と覚めないんじゃないかってぐらい深い真夜中の時もあり、闇の中に薄い水色が混じったような淡い夜の時もあった。でもいつも夜だった。

 彼女と会う夢の舞台は様々だった。

 大抵は現実世界の今まで行ったことのある場所、見たことのある景色が舞台に選ばれる。例えば誰もいない教室とか、昔そこに線路が通っていたという廃線跡の道路とか、今はもう交差点になっている廃駅跡とか、かつては流れていた川をコンクリートで隠した暗渠あんきょとか、そういう寂しそうな場所の方が彼女には似合っているような気がしていた。でもどんな舞台だろうとそこには彼女と僕しかいないので、結局寂しくなってしまうのだった。

 彼女の姿はいつも同じだった。

 昼間に見たマネキンと同じ制服を着ている。背負っていたはずのリュックは消えていて、逆にマネキンにはなかったはずの足がひらひら揺れるチェックのスカートから生えている。その足はすらっとしてなめらかで、夜の暗闇に白く浮かんで見えていた。彼女はその紺色のソックスに黒いローファーを履いた白い足を自由に動かして、寂しげな舞台をいつも楽しげに進んでいく。夢の中の妄想の存在に重力はなく、彼女の歩みはいつもこの世ならざる気配、幽霊のそれのような軽やかさを感じさせる。

 目線を上げると、マネキンにはなかったはずの首から上が存在している。しかしそれははっきり存在しているとは言いがたい。というのも、彼女は肩にかかるぐらいの黒髪を確かにゆらゆらさせているのに、彼女の顔には表情がない。本来あるべき目も口も鼻も存在しない。かといってつやつやののっぺらぼうというわけでもなく、じゃあどうなっているのかというと、髪に輪郭を縁取られた彼女の顔の部分には、真っ暗な空洞が存在しているのだ。

 いきなり空洞とか言われても困るだろう。しかし空洞と言うしかない。暗いのだ。穴なのだ。穴の中は空っぽなようにも見えるし、夜の闇よりさらに深い黒が果てもなく存在しているようにも見える。どうしてそんなことになっているのかは分からない。彼女の存在はそもそも謎なのだし。

 まあそんな風に身体はあるのに顔が空洞、なんてずいぶん不気味に聞こえるだろう。しかし僕は初めて彼女が夢に出てきたときから、彼女に対して少しの恐怖も感じていなかった。そんな自分に最初は戸惑ったものだ。

 どうして僕は、ある時急に夢に現れた得体の知れない彼女をこんなにもあっさり受け入れているのだろう。恐怖を感じないどころか、僕はそんな名前も知らず正体も不明で顔もない初対面の彼女に対して、親近感すら感じたのだった。

 彼女と僕の間に会話はない。いつも先を行く彼女に僕はついていく。こっちがどれだけ頑張っても、前を行く彼女には決して追い付けない。彼女はいつもその重力を感じさせない歩みによって、まるで地面に落ちた自分の影の天辺のように僕から離れていくのだった。 

 彼女はするすると夜の街を進んでいく。僕もそれについていく。

 僕たちはふたりだけしかいない教室で待ち合わせをして、その後の行き先は彼女に任せるようにしている。例えば昔はそこに線路が通っていたという道路や、跡形もなくなった廃駅、かつて川だった暗渠。そんな現実のどこかで見た景色の中を、夢の中の彼女と僕は歩いていく。

 しかし僕たちはそんな場所を歩いているはずなのに、その景色は現実とは違って見えるのだ。正確には彼女がその場所に近づいていくにつれ少しずつ違っていく。つまり、彼女が廃線跡の道路に近づいていくと、いつの間にかそこには昔通っていたという線路が復活している。そしてその線路沿いに歩いていくと、後ろの方から白黒写真で見るような旧車両の電車が走ってきて、僕たちのことを追い越したりするのだ。煌々と灯りを照らして、ガタンゴトンとゆっくりと。

 そんな線路沿いをさらに歩いていくと、やがて小さな駅が見えてくる。現実世界では廃駅跡があったはずの交差点だ。しかし今や交差点の面影はなく、そこには廃駅となったはずの駅が復活している。木造の古い駅舎の窓に柔らかな灯りが点っている。僕たちを追い越していった電車が、ぷしゅう、という音を立ててその駅に吸い込まれていくのが見える。電車の中にも駅構内にも人影は見えない。この世界に僕たち以外の気配はない。じゃあどうやって動いているんだとちょっと気になるけど、でもそれを確かめることはできない。彼女はそんな駅にも電車にも目もくれず先に行ってしまうからだ。だから僕もそれに付いていく。

 そういう感じのことを、もう二年間も僕と彼女は夢の中で繰り返している。例えば誰もいない暗い教室には彼女の白い足が点り、廃線跡には電車の灯りが点り、廃駅には窓からの灯りが点り、その他にも色々な僕の現実の景色に、夢の彼女が灯りを点して歩いていく。

 駅から離れると、しばらく宇宙空間のような真っ暗闇を宇宙遊泳のように歩きつつ、次の灯りが見えてくる。それは地面に細長く伸びるぼんやりとした灯り。近づいて見るとそれはさらに強くなり、そこには現実ではコンクリートで埋め立てられて暗渠となっていたはずの川が復活しているのだと分かる。そんなに大きな川ではないのにやたらと存在感があるのは、川全体が銀色に光っているからだろう。川沿いに電灯があるわけでもなく、どうしてこんなに明るく輝いているんだろうなと思っていると、彼女がふと上を向いた。僕もつられて夜空を見上げると、そこには丸くて大きな月が、夢の中の世界に穴を開けるように浮かんでいた。水面に反射したそれの光が、川全体を、そして彼女と僕のことを銀色に点しているのだった。

 そこでようやく彼女は立ち止まり、振り向いて、その空洞の顔を僕の方に向ける。僕はいつも、彼女のその空洞の中にあるものの正体が見えるような見えないような、見えたくないような。そんな気分になる。これが恋かと言われると僕は詳しくないのでよく分からないけど、とにかく二年前から毎晩欠かさず彼女の夢を見るぐらいには、僕はそんな彼女に夢中になっているのだった。


★★★


 僕が彼女に初めて出会ったのは二年前の夏のこと。

 当時中学三年生だった僕は、中学校に入学してすぐに不登校になって、それ以来学校に行くどころかろくに外出すらできないでいた自分のことと、そんな引きこもり生活がどれだけ将来に影響を及ぼすのかということに頭を悩ませていた。自分の将来だけじゃなく、自分の周りの人の将来と、自分の周りの人がさらにその周りの人に何か言われているんじゃないか、とか考えるとぐるぐるしてしまって、ぐるぐるしてしまっていた。

 ぐるぐるしてしまう。

 昨日の夜には学校には行けなくてもせめてその準備ぐらいはしよう、せめて身支度を整えて外に出るぐらいのことはしなくては、と固めた決意が今日の朝にはまるで他人事みたいになっている。そんなことの繰り返し。不登校のきっかけはなんだったっけ。とても些細なことだったような気がする。初めての英語の勉強に全然ついていけなくてクラスから変な目で見られたとか、同級生が後ろから近づいてきて僕のズボンを下ろしていったとか、そんな些細なこと。壮絶ないじめを受けたとかじゃない。そんな些細なことが積み重なってこうなっている。だから他人に話しても理解されない。「そんなことで?」「なんだそれ」「甘えるな」と変に思われてしまうのは目に見えているので誰にも話さないようにしている。

 初めは些細なこと。そんなことが積み重なってどうにもならなくなっていく。

 ちょっと一日学校に行かないぐらいどうとでもなる。そんなことを繰り返して、いつの間にか取り返せないほどの時間になっている。同級生にはどれだけ置いていかれただろう。今さら学校に行ったら変に思われるだろうな。親はもう何も言ってこなくなった。それは優しさか、それとも諦めか。

 ああもう、ぐるぐるしてしまう。

 とにかくもう、変に思われたくない。他人に変に思われたくない。

 それだけのために死んだっていい。死んだっていいんだ。ほんとうだ。

 そう思っていた、そんな中学三年生だった僕のこと。


 その日は静かに暑い夏の朝だった。

 布団から起きると、暑くて蒸しているのにどこか涼やかな気配を感じた。

 不思議だった。誰かに説得された、とか、人生を変える大層な本を読んだ、とかそんなことはなく、その日の僕はなぜか自然と外に出たいと感じた。まあ今思えば、どうにもならない感情が時間と共に積み重なる一方で、それと全く反対の感情も知らないうちに自分の中に積み重なっていたということなんだろう。外に出る恐怖が薄れたわけではなく、しかし外に出たいと思う。「死にたい」の反対は「生きたい」という感情なのだ。

 その日の僕はなんの宛もなく外に出た。前日から計画を立てていた訳でもないので何処に行ったらいいのかわからない。とりあえず人のいなさそうな寂しそうな場所を目指す。そうなると自然と歩く場所は、例えば昔そこに線路が通っていたという人気のない廃線跡とか、今はもう交差点になっている人気のない廃駅跡とか、流れていた川を埋め立ててできた人気のない暗渠とか、そういう場所を歩くことになる。その日は気温が四十度に迫ろうかという真夏日で、僕はそれでもたまにすれ違う他人に変に思われないようにどきどきしながら蝉の鳴く真昼の街をさ迷い歩いた。そしてついに暑さに耐えきれなくなって逃げ込んだのが、とある駅ビルの三階だったというわけだ。

 その日以来、どうして彼女が僕の夢に現れるようになったのかは今だによく分からない。

 だからこれはただの推測の話、例えばの話になってしまうんだけど、例えばこういうのはどうだろう。「死にたい」「生きたい」そんな反対の感情が積み重なって、どうにもならなくなってあの日の僕を外に追いやったのであれば、彼女はそんな感情を擬人化した存在なのではないのかな、と。

 だって僕は見たんだ。駅ビルの三階で初めてそのマネキンを見たとき、空っぽなはずのマネキンに確かに命があった光景を。そうして現れた妄想の彼女は、昼間の乾いた寂しげな僕の世界に夜の夢で灯りを点してくれる。僕はそんな妄想の彼女に恋をしてしまった。それはきっと自分の中の「死にたい」という感情に恋をしたということで、自分の中の「生きたい」という感情に恋をしたということなのだ。そして思ったんだ。例え世界が辛くても、そんな世界を彼女が歩きやすいように復活させてくれるのであれば、



 と、僕は思うんだけど、まあ例えばの話だよ。

 そんな感じで僕は、また外に出て、僕の中の妄想の彼女のために生きていこうと思うようになった。自分の中の強い感情のために生きて、死んでいこうと思うようになった。

 これが世間一般的な恋話なのかどうか分からないし、これがもし例え例えばの話であっても、別に構わない。

 こんなことは誰にも言えないし、この恋が叶うあてだってもちろんないんだけど。


 僕はそれでいいと思っている。




 

 


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