なつかしさ / 第二節

「あ、お帰り。今日は遅かったねえ。」

自宅の扉を開け、聞き慣れた声を耳にしながらそわついた気持ちで靴を脱ぐ。

何時もだったらただいま、くらいは返すのだが、返事もせずそのまま部屋の電気をつけた。

「えっ、あれえ。… ねえねえ、なお、どうしたの?とつぜん遅くに帰ってきたと思ったら… いったい、何を急いでるのさあ?」

間延びした声が続けて話しかけてくる。私は横目でそれを見たのち、がしりと掴んでそのままベッドへと連れ込んだ。

「あだっ、いてて、てて、ちょっとちょっと!痛いよなお!」

『ねえ!これ見て、これ!本!』

それの言葉を遮るように興奮気味に話し掛ける。

この嬉しくて嬉しくて仕方がない、何時ぶりか分からないような高揚感。目の前のこれ、… きつねのぬいぐるみに、果たして充分に伝わるだろうか。

私は言葉を続ける。

『これね、これね!私が中学生だった時に読んだ本なんだよ!今日見つけた本屋さんがおすすめしてくれたんだけど、昔よりずうっと面白くて!ねえ、きつねくんも読む?読む?読もうよ!ね!』

私のかつてない姿にすっかり戸惑っているようだ、目の前のきつねのぬいぐるみはその短い手足でおろおろとベッド上を歩く。

「んえ、え、うーん、… なおがよむなら、よむけど。… びっくりするくらい元気だねえ、今日。そんなに本屋さんがすてきだった?」

耳を心なしかしょげ、と下げつつも、肘を立ててうつ伏せに転がる私の胸の辺りに身体を潜めるこのぬいぐるみ。相変わらず可愛くて仕方がない。

私はきつねのぬいぐるみの顎を指で撫でると、すぐに本を開いた。



23時。

気が付けば深い夜に差し掛かっていたようだ。

自分でも驚くくらい夢中になって本を読んでいたせいで、読み終えたその時には汗がぽたりと顎先からベッドのシーツに落ちた。

胸の辺りにくるまっていたきつねのぬいぐるみをとんとん、と優しく叩いて起こす。何時の間にかこの子は眠ってしまっていたらしい。

『…… ん、んー。… くあ、あ。…… 、…… なお、』

「きつねくん、起きて。本読み終わっちゃったんだ、お風呂入らなきゃだから一緒に行こ」

何故かきつねのぬいぐるみは毎日風呂に入りたがる。

毎日毎日洗うのはいいが、そんなにすぐ乾くものなのか?とはじめ疑問に思ったのも束の間、ドライヤーで乾かしてみたら速乾性抜群であった。

毎日洗っているから匂いも良いし、触り心地も抜群。これぞウィン・ウィンの関係と言うものであろう。

そんな事を考えながら、ごろごろとまだ眠気に囚われているきつねのぬいぐるみを抱き抱えて浴室へ向かう。

ここは一人暮らしにしてはありがたい、脱衣所付きの浴室だ。浴槽もそれなりに広いし、シャワーの圧も丁度いい。私もだが、きつねのぬいぐるみも大層気に入っているようだ。

帰ってきた時に沸かしておいたお湯を追い炊きし、換気扇を回す。

『ほら、起きて。きつねくん。ついた。先入っておいでよ、私服とタオル準備してすぐ行くから』

「んー、… んん。くあ。…… はあい、早くきてねえ、」

うつらうつらとしつつ浴室に入っていく姿を見届ければ、てきぱきといつも通りに準備をすすめた。

自分の衣類、タオル、それにきつねのぬいぐるみ用のタオルと前掛け。

きつねのぬいぐるみはファッションにも何故かこだわりがあるようで、これはきつねのぬいぐるみが気に入った柄から私が手作りしたものである。

作った当時は慣れない針と糸で自分なりに一生懸命調べて作り上げたため出来はあんまりよろしくなかったのだが、きつねのぬいぐるみは嬉しそうに付けてくれた。

まるで昨日のことのように思い出せる。

あのきつねのぬいぐるみが突如喋り出してから、私の生活はほんの少しだけ救われたような気分であった。

「なおー、まだあ?遅いよお。」

きつねのぬいぐるみに呼ばれ、ようやくはっとしたように思考から抜け出せば、浴室へと足を運ぶ。

そうしていつも通り桶にシャワーの温水をため、きつねのぬいぐるみを浸からせた。

浴槽にためたお湯は、ぬいぐるみには少々熱い。

ちゃぷり、音を立てて浴槽に身を沈め浴槽のお湯に桶を浮かべると、きつねのぬいぐるみがどことなく物珍しそうに私を見つめる。

「なお、…… たのしそう。」

きつねのぬいぐるみは、前足で顔をかきながらしっぽをご機嫌に揺らした。



芽吹く、


第一話 第二節 / なつかしさ


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芽吹く、 相生 南 @suzuri_rrr

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