なつかしさ / 第一節
さわさわと耳に入るのは、心地良いジャズ。
この書店は見た目に反して案外広いようで、入口から部屋の中間くらいには沢山の本棚が、そうして少し奥へ進めばカウンター席が数席狭そうに並んでいた。カウンター席の後ろにもびっしりと本が積まれている。
どうやらここでは、購入した本をこのカウンター席で読めるようになっているらしい。
「沢木さん。本日はどのような本をお探しで?」
当たり前のように私の名を呼ぶ目の前の男性は、倉坂さん、と言うらしい。
倉坂さんは大きい背を丸くして私に身長を合わせると、目を見つめそう問い掛けてきた。
ちなみにさっき、私たち、過去に出会ったことありますか?と、ダメもとで聞いてみたのだが、変に濁されて何時の間にか話題が逸れてしまった。
目の前のこの男性の素性は、今現在も分からずじまいになってしまったのである。
またいつか聞く機会が出来れば良いが… 、とぼんやり考えながら、本棚に所狭しと並べられた数々の本をさらりと眺めた。
何故か、名前を知られていることにも、この目の前の素性不明な男性にも、嫌悪感を抱くことは無かった。
『…… あの。… 私全然、その。… 最近、読んでないんです、本。…… 学生時代に、読書感想文とかで無理やり読んだ記憶しかなくて、』
そう自分で返答して初めて気が付く。これまでの人生でまともに本に触れて来なかったのだと。
ファンタジー小説だとか、恋愛コメディ小説だとかは周りの友人らがよく休み時間に読んでいたが、それはただ傍観していただけである。
貸そうか?と昔言われていたのを、失くすのも怖いし、読む時間もあるか分からないし、と丁重に断っていたのをふと思い出した。
たった数年前の事なのに、もう随分と昔の出来事のようで何とも言えない気持ちになる。特に良い思い出が沢山ある訳でもないのに、胸のどこかが懐かしさでじんわりとぬるくなった。
そんな私の迷うような視線と微妙な表情を察してか、目の前にするりと差し出されたのは “ てのひら ” という本であった。どうやらお勧めされているようだ。
「中学の頃に、読みませんでしたか。教科書で。何も見つからないのでしたら、こちらを」
そう言えば、そんな感じの題名の小説、授業でやったなあ。
興味が湧いた私は、試しに受け取ってはぱらぱらと捲ってみた。
そのまま、文面をさらりと流し読みしてみる。
…… ああ、なつかしい。
大して思い出もないのに、あの机の、あの風景が脳裏に浮かぶ。
このまま読み進めれば、いつか本当にあの教室の匂いまで思い浮かべられそうだった。
思わず夢中になってしまう。
この本の魅力、魅力と言うには優しいかもしれない、魅力と言うより魔法に魅せられた様な気分で、言葉をつまらせながら倉坂さんに話し掛ける。
『… 修道士、さんのお話…… でしたよね、これ』
「はい。死期の近づく人間が、過去に親しくしていた人々と最期の面会を重ねるお話です」
本当になつかしい。
話を読めば読むほどぞわぞわとする。
目が初めて受け入れたようで実はそうではないぞと、ぱちぱち瞬きをして再び情報を読み込む。鮮明に頭にあの頃と同じ文章が飛び込んできた。
そうして何故か、強くこう思い始める。
読みたい、この本を。… 再び。
… そんな気持ちが表にも溢れ出たのか、思わずきつく本を抱き締めながら倉坂さんに大声で問い掛けた。
『… っ、あ、あの!…… 、… これ、…… いいですか、買っても』
私の大声に一瞬驚いた様に瞳を見開いたものの、幾許も経たぬうちに倉坂さんは緩く微笑んで頷いてくれた。
「ありがとうございました、またお越しください」
私はお会計を済ませるとそそくさと店を出て、早足で自宅へと駆け込む。
新しい風が自分を包んでいる気がした。
✱
芽吹く、
第一話 / なつかしさ
第一節
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