芽吹く、
相生 南
プロローグ
20代も半ば、周りの同世代たちは立派な社会人数年目になっているであろうこの6月、私は駅近の喫茶店で働く。
いわゆるフリーターと言うものである。
特に夢を叶えるまでの繋ぎという訳でも、なにか長く働けない事情がある訳でもない。なんとなく、フリーターをやっている。
未来に不安がないかと聞かれれば首を横に振るものの、ただ、漠然とした不安が視界を澱んでいるだけであった。
「沢木さん」
そう呼ばれてはっとする。仕事中だと言うのにまた物耽りに陥ってしまっていたようだ。
「沢木さん、これよろしく」
はい、と覇気のない返事をして慌ててお客様のテーブルへとドリンクを持っていく。何年も続けたこの動作は既に身に染み付いてしまったようで、頭が動いていなくとも無事に配膳を終えられたようだった。
ここのところ、特に物耽りが酷い気がする。
「… 沢木さん。最近上の空だけど何かあった?」
この声の主はここの喫茶店のマスター、南さんだ。前職を辞めた後からすぐ、もう4年程お世話になっている。
『…… あっ、ああ、いえ。何も無くて。… 何も無くて、困るな〜、… っていうか、… 。』
「あらら、なあにそれ。代わり映えのない日々に飽き飽きしちゃった?」
にこ、と愛嬌のある笑みを浮かべながら私にそう問い掛ける南さん。相変わらず素敵な人だ、私とは違って。
「趣味、無いんだっけ?そう言えば、沢木さんは何が好きかとか、どんな事してきたのかとか、あんまり知らないね、私。」
「学生時代は何してたの?」
南さんの細長いピアスが揺れる。年季の入ったそれは、まるで彼女の紆余曲折な人生を具現化したようにきらきらと輝いていた。
私に、この人に語れるような事はあるのだろうか?
少しだけ頭を捻って昔を思い出してみたが、案の定思い付かずにはにかんで誤魔化す。私には、他人に語れるような出来事は今のところ無いのだ。
南さんはそんな私の考えに気が付いたのか気が付いていないのか、へらりとまた笑って続ける。
「…… あっ、そうだ、沢木さん、… 実は結構、ナポリタン好きでしょ。」
「沢木さんについて私、知らない事ばっかりなのかな〜なんて思ったけど、ナポリタン好きなのは知ってたね、ふふ。」
「だって、賄いでナポリタン出す時いっつも嬉しそうだもんね、」
嬉しそうに私について話し込む目の前の南さんに思わず大きく目を見開く。私の事なんて結局誰も見ていないんだろうな、と心のどこかで思って生きてきた私にとっては軽い衝撃であった。
何処からか、照れと恥ずかしさがぶわっと溢れ出て耳が熱い。
目の前ではけらけらと私の様子を面白そうに笑う南さんがいた。
私はどうやら、上司には恵まれているようだ。
✱
今日はすっかり日が落ちるまで働いた。最近、夏に近付いているからか日は長い。しかし南さんとの初めての雑談に花を咲かせすぎたようで、何時もなら18時に終わる様な仕事が20時近くまで掛かってしまった。辺りは真っ暗だ。
南さんと店を閉めて別れ、何時もより暗い帰路につく。こんな時間帯にここは滅多に通らないから何だか新鮮で、音楽を聴くことを忘れ遅めの散歩の様な気分で歩く。
風がほど良く涼しい。
久々に良い気分だな、なんて考えながら呑気に欠伸をした。
その瞬間、
“ 二十時に芽吹く、書店 ”。
ぴか、と突如目の前に現れたのは、レトロチックな書体で書かれたネオン看板。たった今オープンしたのか、看板上部には現在時刻であろう数字が表示されていた。もう20時らしい。
しかしこんな店、ここにあっただろうか?
夜はここを滅多に通らないし、普段は音楽を聴いてそそくさと帰宅しているからオープンしていても気付かなかったのかもしれないが、それにしてはあんまりにも目に付く。
この看板の大きさなら、光がついていないであろう夕方頃でも普段帰る時にまず目に入りそうだ。
… なんて、疑問符ばかりが増えていく頭を取り敢えず落ち着かせるために深呼吸し、ひとまず、と一度止まった足を再び動かす。そうして店の前まで足を進め、2階に繋がる店への階段前に留まってみた。
階段にはぽつぽつと数個、薄暗い照明があるだけで入口は見えなかった。
入っても、良いのだろうか?
ううん、と首を捻らせて一頻り考えていると、何時の間にか2階への階段を登りきったのか、店の扉前まで身体が動いていて。
… 本当に言葉の通り、何時の間にか、ここに居たのだった。
『…… 、… えっ。…… あれ、私ここ… 登った…… っけ、』
まるで誰かの魔法でするりと誘われたように、自然とここに来たようであった。
困惑する頭とは裏腹に、扉のドアノブに手を掛ける自分の身体。ぎい、と重たげな音を響かせながら、店内を覗き込んで。
「…… いらっしゃい、沢木さん」
若干埃臭い、本の匂いが一気に鼻に入る。
そうして、低い声、高い背、生真面目そうな顔をしたガタイの良い男性が、私の名を呼ぶ。
何故か不思議と、初めて呼ばれた気がしなかった。
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