【オマケ】流離の白と、春待つ赫

 七十二候にございやす、山茶始開つばきはじめてひらくと云ふ季節の訪れ。こちらは、僅か五日区切りの細やかな刻の移ろひを表すものにございやすが、古人は其処より何を思うたか——。



 べべん、とひとつ琵琶の音。


 はてさて、そぞろに寒しき山道を、ひとり歩くは不思議な様相をした男児にございやす。年の頃は幾許か、見れば見るほどわかりやしやせん。

 北風の中、膝のあたりで裁断された袴から伸びる素足はするりと白く、まるで雪のやうにございやした。その身を包む着物も全て白く、顔と頭を覆うやうに巻いた白布も、全ての色が白うございやしてねェ。


「なんでぃ、なんでぃ、化け物どもより木枯らしの方が、随分と威勢がいいンじゃぁねぃのかぃ。四季の寒さに手も足も出ねェたァ、八寒地獄で鬼が泣いちまうってなァ」

「そなたは葛籠ゆえに、この寒さがわからぬのじゃな……」

「ンならよゥ、如何して麓の村で袴でも脚絆でも、何なら上衣の類いでも貰やぁよかったンじゃねェかぃ。んんっ? やっぱ空也、おめぇ、ちぃっとばかし背が伸びたんじゃねぇのかぃ?」

「む、やはりそうなのか。ゆるりと着ておったゆえに、さやかには(はっきりとは)わからなんだ」

「ンだからよぅ、おめぇのその話し言葉は」

「ふむ。いづれは晴明殿のやうにすべらかに、姉上のやうにきりりと、そしてそなたのやうにからりと言葉を話してみ……とうござ、んすなぁ?」

「……」


 山道を歩くは男児ひとりきり、しかし言葉を交わすやうに響くはふたつめの声。


 ええ、そうでさァ。かの無間の地獄より、此の世に舞い戻って来やした小童と葛籠の鬼にございやす。


 京の一条戻橋、見据えし宇治の橋の西詰。

 幾度も幾度も訪れては「姉上」「姉上」と呼ぼうとも、唯一の血の繋がりを残す赫き鬼には逢えやせず。

 ならば、と男児は此処摂津国のとある屋敷を目指し、ただただ歩いておったのでございやす。

 

「ったくよゥ、逢いたくねェって云われてるようなもんだぜ? なんでそンな躍起になって茨木童子に逢おうとすンでぃ?」

「晴明殿のお話を聞いてな、わたしはもっと姉上と呼ぶべきだと……。いやいや云うておきながら、それが本心とたごうたのなら、わたしはそちらの道を選びたい。それに……」

「ンあァ? それにぃ?」


 いつか根負けして出てきてくれるやもしれぬから。そう云い、ふふふと微笑む男児に、葛籠はどうっと深い溜め息を吐いたそうな。




 ——是れ此れこのやうに。わたくし、安倍晴明の縁の者にござりまする。古きともであったと伝え聞く、渡辺家の皆様そして不伐キラズの椿の花よ。其の始めて開くと云わるる此の季節に、御目通りを願いたく馳せ参じた次第にございやす。



 さぁ如何したことか、男児の口のするすると回ることよ。

 あれよあれよと云ふ間もなく、驚き門を開いたのは渡辺の子孫の者たちにございまさァ。

 ええ、ええ、今や摂津の海にて其の名を知らぬ者などおりんせん、水軍一派。然し其の屋敷に咲く椿が一族の祖により『決して伐ってはならぬ』と云われておることなぞ、他所の者は知りんせん。

 はてさて家の者は、今の世に晴明の縁者を語る坊主のなりをした男児を怪しんだそうにございやす。


「鬼は裸足で逃げる」と云わるる渡辺家。

 其の門戸は決して鬼には跨げぬと云いやす。然しいざ招いてみれば、鬼と疑うやうな坊主はするりと敷地へと入ってきたのでございやす。


「どうぞ其の御顔の布をお取りくださいませ」


 家の者はそう恐る恐る告げたそうにございやす。


 ふうと息を吐いた男児は、そっと其の白布に手をかけたそうな。

 曰く、「義は尽くさねば、此の御家は……姉上の恩人の一族ですから」と。




***




「姉上ーっ! 姉上ーっ」


 陽も暮れゆく京の宇治橋。何処ぞへと声を届けるかのやうに、男児は幾度も呼び続けやした。


「空也ァ、もうやめとけやぁい。あンの天邪鬼、うんともすんとも云わねェじゃぁねーかぃ」

「いんや、そうはいかぬ。此度は姉上にどうしても逢わねばならぬのじゃ」


 声も聞こえぬ、姿も視えぬ。

 然し乍ら、男児は其処にひっそりと身を隠す、待ち人の気配を感じておったンでさァ。ええ、そう。男児は決して諦めやしやせんで。


「姉上、わたしは摂津国へと行ってまいりました。渡辺家の皆様は、わたしの紅き目を見ては、大慌てで此れを持って参られました」


 四方へと声が届くやう、時折くるりと踵を返し、男児はそう語りやす。


「姉上。渡辺様の御庭には、それはそれは美しい、椿の花がございました。祖であらせられる当時のご当主様が、最期の最後まで愛しんだ赤いお花にございまする。姉上、あの御家にとって赤は好ましい色にございました」


 どうか、今一度お姿を……。


 そう呟き、男児はそっと包みを取り出しやす。

 紺色に雪の白さが染められたやうな風呂敷。その中からゆっくり取り出されたのは、赤きひとえに長袴、白地に赤と少しばかりの紺の紐を通した水干にございやした。


「祖となるご当主様、綱どのをご存知ではありませぬか? 浅からぬご縁があったことは、この空也、重々承知しておりまする。これは、綱どのが大切に仕立て保管していた着物にございます。水干のみ、間に合わず……己の幼少期に着ておったものを仕立て直したものだとか」


 姉上、どうか、どうか——。


 風がひゅうひゅうと頰を撫ぜ、耳の中にその音を反響させてゆきやした。

 陽の暮れた宇治川は尚の事静まり、まるで昼と夜、全ての息吹を飲み込むかのやう。

 其の冬の気配の忍び寄る河岸を、ぞぼ、ぞぼっと。男児は川の中へと進みやす。


「あ、姉上。どうかお姿を見せては暮れませぬか。空也と、綱どのの着物が流れぬうちに……」


 岸では「おい莫迦っ」と葛籠の声が響きやす。

 川の流れの其の中へ、冷たさが心の臓まで届きそうな水の中を、男児はゆっくりゆっくりと沈みゆきやす。

 其の刻に、ございやした——。


「……っっ!!! 死んだら如何すんだばかやろうっ!」


 ざばんっ、と其の身体を乱暴に掴まれ、男児は橋の上へと投げ出されておりやした。

 数拍置いて、ととん、どたんっ、と其の欄干より男児の目の前に降り立ったのは——其れぞ白き男児の呼んでいた者、宇治橋の鬼神、今や橋姫と呼ばるる茨木童子にございやした。


「姉上、息災そうで何よりです!」

「おまえよ、おれの話聴いてたか? この愚図が」


 裾の短い紺の着物から伸びる朱色の手足。呆れたやうに、橋の上に座り込む男児の姿を見やります。


「ふふふ、姉上はお優しい。わたしは死ねぬ身、水が冷とうても凍えるだけですみまする」


 決して濡らさぬやうにと抱えた着物を差し出しながら、男児はゆるりと微笑みやした。

 其の言葉が終わらぬうちにか、派手な舌打ちの音が冷えた空気の中に響いたそうな。


「ンだよ、おれに取り入ろうってのかぃ?」

「そうではありませぬ……。ただ、如何しても此れをお届けしたく。ええと、そして此処にですね、綱どのの書き置きが」

「……は?」


 訝しそうに金色の瞳を大きくしたり、細めたり。腕を組んだまま睨め付けるかのやうであった茨木童子の肩が、力が抜けたのかすとんと落ちやした。


「あいつが……おれに?」

「ええ、此のお着物を宇治川の赫鬼に届けること叶った際には共に——と伝えられておったものだそうで」

「おれは字なんざ読めねーっての」

「であれば仕方のうございまする、空也が読んでさしあげまするね」

「お、おいやめろ、ばか! 字なら少しは」


「『少しは言葉遣いを改めなさい。それから、脚をそんなに出して冷やさぬやうに』……以上にござりまする」


 おやまぁ、其の茨木童子の呆気にとられた顔ときたら。そうそう見られるモンじゃぁございやせんよゥ。

 げたげたげた、と葛籠が橋の袂で嗤う声が響きやす。


「え? な、に、其れ……は?」

「綱どのの一筆にございまする」

「へっ、そんだけ……?」

「ええ、読まれますか?」


 紅の瞳がにこりと微笑み、其の和紙をはらりと。其れを爪の先で掴む茨木童子はますます不可解な表情を浮かべるばかり。


「……本当にあいつの字なんだろうな」

「はぃな。空也は嘘はつきませぬ」


 其の——顔ときたら。


 ぺしん、とひとつ。痛くも痒くもない手刀が、男児の脳天に落とされやした。


「あーあ、ばぁか。最期まで説教かよ」


 鬼の——金の瞳から。ぽろりぽろりと溢れた珠は、果たして何だったのか。

 筆をとってくれた彼の気持ちが嬉しくも、面映くもあり。しかし文のそっけなさには苦笑するやら何とやら。


「わかりづれぇよ。おれは鬼だから……もっとさぁ」


 白き男児は、そっと其の姿に背を向けやす。

 例え血を分けた姉弟だろうとも、涙を見るのは無粋と云ふものにございやしょう。


「また来ます」とそれだけ告げて、男児は葛籠を背負い、橋から去るのでございました。




「なんでぃ、なんでぃ、あンな山道歩いたンだ。漸く会えたンならァ、もっと語りてェ事があったンじゃぁねぇのかぃ?」

「此度はお顔を拝見できただけでも十分。それに……姉上の涙を見てよいのは、きっと御一人だけなのじゃ」

「ほぉん? おめぇにしちゃぁやけに大人びた事云うじゃぁねぇか」


 葛籠の言葉に、男児はふふふと寂しそうな笑みを零したそうな。


「橋姫は——橋の縁に囚われ、人の縁を切る鬼神。しかし、今此の刻ばかりは橋に化け物も鬼もおらぬのじゃ。文に泣くときばかりは……ただの茨木童子であってほしいのじゃ」

「……おめぇはほんっとーに、呆れるくれぇのお人好しだァ」



 べべん、とひとつ琵琶の音。


 鬼の目に浮かぶ泪が、どれほど美しいか。

 ええ、ええ、きっと皆様ご存知ないでしょう。





 さぁさ此度こたび語りやすは、現世うつしよ浮世うきよのモノガタリ。


 刻は流れし、平成の世の出来事にございやす。


 此処に、ひとりの男児あり。

 とある夏の夜にございやす。歳の頃は幾ばくか。学生服をぴしりと着こなし、黒く短く揃えた髪は夜の中に溶けるやう。ただ、此の男児、一直線にひっそりと佇むお社へと向かっておりやして。


「お前が、宇治橋の鬼神か?」


 昨今の人間ときたらァ、信心深いモンの方がすくのうございやしてねェ。昔ほど、魑魅魍魎もあやかしも、人々の隣にゃおりんせん。

 鬼とは隠とも書きやして。人の目には視えぬものになりつつございやした。

 其れを、男児はいとも容易く超えて、社の外、川の流れを眺める者に声をかけたそうな。


「……妾が視えておるのか、口の聞き方には気をつけ、」

「なんだ、そんな言葉遣いもできるようになったんだな」


 其の笑いを含んだ声に——振り返った其の金の瞳が見開かれ。

 朱色の頰が、少しばかり染まったかのやう。


 ええ、ええ。

 察しの良い御方々は、もうお分かりでござんしょう。


「縁を、切ってほしいんだ。先祖代々の縁を。羅城門と宇治橋の鬼に嫌われているらしくって」

「……」

「好かれなくてもいいが、わだかまりだけは払いたくてね」

「……うるせぇよ、ガキが」



 筒井つつい綱春つなはると云ふ人間が、如何したことか白い坊主に導かれ、宇治川のほとりで鬼に出逢ったと伝えられておりやすが。


 此れはまた、別の御噺にございやす——。

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赫焉たる大椿之寿 すきま讚魚 @Schwalbe343

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