赫焉たる大椿之寿
すきま讚魚
あしひきの山の椿のうつくしき 風や誘ひて赫を思わむ
「旦那様、お暇をいただきとうございます」
それは、初老に両の脚を踏み入れきった頃か。多くは語らぬ、淑やかな妻からの最後の申し出であった。
「そうか。訳を訪ねても良いだろうか……私は、良い夫であったであろうか」
筆を置き、そっと振り返ると優婉な笑みそのままに、彼女は皺の深くなった両の手をついて頭を下げた。
「十二分に、でございますよ。貴方ほど素晴らしい御方、私は知りませぬ。
「で、あれば」
「女の勘、とでも云いましょうか。武勇も優美も極めし旦那様、最後くらい好きに生きて欲しいと思うのです」
「それは——」
跡継ぎはたったの二人、それも男児のみ。
確かに武家の主人としては、子が少ないと躍起になって皆に云われたこともある。
直系である摂津源氏の地位も、賜った渡辺の姓も盤石のものとし、質素とはいえ何ひとつ不自由をさせた覚えもない。
好いた男でもできたのだろうか。確かに、妻は自分のような寡黙で武勲のみにて御家に報いるような男には、勿体ないほどの女性であった。
主君よりすすめられたものではあったが、亡き実の父にも、育ての養父にも、恩義を返すには御家の継続こそが一番の報いであり誉れであると受けた縁談だ。
地方警護や主君の任で家を空けることも多い己である。それに、よくぞ彼女は着いてきてくれたと心の底から感謝をしている。
ならば——彼女の願いとあらば、例え隠居の身が近い
「また、そうやって。誰も傷つけまいと口を閉ざすのは昔からの癖でしょう」
「いや……」
「ねぇ旦那様、貴方は私には勿体無いほどの素晴らしい御人よ。それはそれは、優しく接してくださいました。だからこそ、なのです。私は肥前の授のもとへと向かう心づもりにございます」
すっと妻が腕を伸ばしたのと刻を同じくして、庭の椿がぼとりと落ちた。
「ほら、駄目よ。貴方の心の底には、ずっと椿がいらっしゃるの」
伸ばした掌は、こちらの頰に触れることなく引っ込められた。
妻の口調は、咄嗟に椿に目を奪われてしまった自分の視線を咎めるそれではなかった。
ぼとり、と。散るでなしに萼を残して花ごと落ちる椿は、首が落ちる様を連想させるため一部の武家の間では忌み嫌われているとも云ふ。
にも関わらず、屋敷の主人は庭にこの椿を咲かせ続けていた。毎年、雪の白む景色の中に、それはそれは
「そんなことはない……」
そう短く答えれば、妻は困ったように笑った。
「自分でも分かってらっしゃらないのね、なんて可愛らしい人」
明くる朝、妻は遠い肥前国へと使いの者と共に旅立って行った。
恐らく今生の別れになるだろう。そのしゃんとした後ろ姿を見て、もしや老いる自分を見たくなかったのだろうかとすら思うほど、それは悲哀に満ちたものではなく。どこかさっぱりとした別れであった。
***
「うんうん、だからね、綱は器用なくせにとことん不器用で、その上言葉が足りないと。それはそれは何時も云っていたじゃあないか」
久方ぶりに訪ねてきた知人は、自分より三十は上の歳のはずであった。
にも関わらず、今や己の方が老いたように見えるこの差はなんなのか。
「失礼ですが。晴明殿、今お幾つで?」
「ふふふん、
頭の中で歳を数えようとして……止めた。本当に彼の歳を知るなぞ野暮でしかないのかもしれぬと思ったからだ。
「ねぇ、どうして君は。こうも素晴らしく勇気も優しさもある男であるのに、心の欲には従わないのかい」
「欲なぞ……私は御家と主君のために」
「ほぅら、堅いったらありゃしない」
「……」
まるで自身まで若い頃に戻ってしまったやうな問答である。
そう云えば、まだ己が主君の元で四天王なぞと呼ばれていた頃、こうして引くに引かれぬ問答ののちに、京の都の羅城門へと向かった夜があった。
其の刻も、思えばこうして晴明に何かしら諭された事を思い出す。
「如何して、庭に椿を咲かせ続けるのか。まったくまったく、本心では気づいていないわけじゃぁないんだろう?」
すぅと絵筆で引いたやうな美しい造形の笑みが、まるでぐさりと核心を抉るやうに。刻をあの頃に戻すかのやうに囁く。
「君が目を奪われた赫は——今も橋の袂で独りでいるよ。強がって、なおのことそれが健気で痛々しくてね」
「私は——嫌われておりますから」
うっかり口にして、しまったと目を逸らす。
にいっとまるで狐のやうな笑みが、少し悪そうに微笑んだのがわかった。
「某の母上は狐の精ではあったけれども。父上とは本当に心通じ合っておらしたよ。別に……鬼に心を寄せたとて罪にはならぬと思うけども。君は清廉誠実を形にしたような人間さ、別に奥方に対して何の不義とも思わぬし」
「……晴明殿のような、大海の御心をお持ちでしたらそうでしたでしょう」
然し乍ら、自分はそうではないのです。
そう言葉少なに語る綱の心情を、晴明は慮ったのかふうと息を吐き、ただただ待った。
一言も発することなく微笑むままの古い知人に、遂に観念したやうに綱は呟く。
「貴方は優しいやうで、非常に意地悪な御人だ」
「褒め言葉ととっておこうかなっ。ほら、未練は無きようにって云ふじゃない? 此処には何ぞ、
庭の椿がまたひとつ、ぼとりと。寂しい冬の終わりを告げるかのやうに落ちた。
***
まだ綱が若く、主君の下で勇将として名を馳せていた頃のことだ。
土蜘蛛の討伐、鬼退治、いつしか四天王筆頭とさえ呼ばれた綱であったが、元は遺腹の子であり養子の身である。思い上がることなぞせず、ひた向きに剣を振るい武勲を打ち立てておった。
そんな折に、京を揺るがす鬼の一派の討伐を命じられた。
今の世にも伝説として語らるる、大江山の酒呑童子の討伐である。
此度もいつものやうに己の命を全うするのみ、目的のためには鬼を欺くため人の血を飲むことすら厭わなかった。
なのに——だ。
鬼に情けをかけるなぞ、と暴かれれば罵られるやうな失態を犯した。
言い訳はするまい、まるで斬られるのを待っておったかのやうな心の底から愉しそうな赫と金色の瞳が、花のやうに美しかったのだ。
「言葉遣いは下品そのもの、今思い返しても聞けたものではなかったですがね」
然し、其の瞳は強いながらも全てを諦めていた。花は其の親玉である酒呑童子に良いように摘み取られ、其の尊厳ごと奪われておったのだ。
きっと野山でそよ風に吹かれておれば、美しいのに——と。
綱は彼女を逃した。「女は斬らん」と云い捨て、わざと刀を抜かなかったのだ。
然し此れが甘かった。鬼とは、人と違ったものの見方をするのだ、と。
綱は後々になって思い知らされることとなってしまう。
結果、羅城門で綱は追ってきた其の鬼の腕を斬り落とし。
更には己にひと泡吹かせてやろうと宇治橋の
嗚呼、其の刻の彼女の表情を。彼は一生忘れはしまい。
助ける事ができたはずのものを、救えなかった。
ばさりと一思いに、斬ってやる事もできたのだろう。逃し、野に放ってしまった責として。
然し、それすらからも己は逃げてしまったのだ。
一輪の椿を手折ってしまってはならぬと思った心が。
椿を縛り付ける枷を生み出し、其の心を傷つけてしまった。
何の因果か、鬼の知恵か。
寿命の近くなっておった、育ての叔母にも逢う事が叶ったと云ふのに。
以来、幾度も幾度も宇治橋の西詰を目指したが。
一度も辿り着ける事はなかったと云ふ。
忘れもせぬ、眩いばかりの
彼女を思い起こす椿の花は、彼の心の内にある贖罪の気持ちと——それでも彼女を忘られぬ心残りであっただろうか。
***
「嗚呼もう、若いねぇ。うんうん、某、聞いてて赤面しちゃうっ」
「……老いた独り身の戯言として、此の御話は心の内に秘めていただけると助かるのですが」
「莫迦だねぇっ、ほんと」
ごほごほ、と喋りすぎたのか掠れた声に咳が混じっていた。
椿の散り始め、春はまだ先で、空気は少し衰えた身に刺さるやうだった。
「違うよ、莫迦ってのはさ。お互いどうして気づかないんだろうってね」
「……?」
「あの
「ああ、とんでもない迷信ですよ。確かに我が家で豆は撒きませんがね」
「ところがどっこい、とんだ真実さ。君の武将にしては長寿の類の歳も、あれ以来まるで鬼の寄り付かぬような家内安全に、名も功績もあげただろう? ……誰かさんがお節介に、加護だなんだと君の縁の糸を読んでいるからさ」
なん、で……っ。振り絞った声はまたも掠れた。
「そんな事、私はしてもらう義理も」
「あの娘にとってはそうさ。君が椿を大切に咲かせたやうに、茨木は己の矜持を保っておったのさね。自分が一緒に在らずとも、幸せに暮らしてくれたらよかったんだろうね……其の矜持を守り抜いたのは、他でもなく君なのだよ、綱」
あああっ、と綱は声にならぬ吐息を絞り出すやうに吐き切っていた。
どれほどの刻が流れたであろうか、否、それは転瞬か刹那ほどの間であったかもしれぬ。
「晴明殿、」老いたとて、冷めやらぬ其の眼光が真っ直ぐに晴明を捉えた。
「んんんっ? なんだい?」
「ひとつ、言伝を頼まれてはくれぬでしょうか?」
「んーっ、其れでも逢いには行かぬと云ふのだねっ?」
「ええ、曲がりなりにも逢ってしまえば今度こそ別れが寂しくなるでしょう。俺は、臆病者なもので」
「そうかいそうかい、ではまぁよきにはからえってことでね。聞こうじゃあないか」
にこり、と微笑む晴明に。
綱も心の底から笑い返した。
「では……ひと言、「感謝する」とだけ。お伝え願えますか?」
***
「嗚呼もう、本当に莫迦なほど不器用な子達だねぇ」
けれどもこれは、愚かと云ふものではないのだよ。そう、冷めた冬の空気の中を、吐く息を白くもせずに晴明は歩む。
「
八千年も、次の八千年も。
人知れず彼女は祈るのであろう。
彼の縁を護り抜いて。
「嫉妬深い橋姫とは。本当は誰よりも縁を大切に見ては切る、一途な子なのだろうねぇ」
いつの日か、其の因果が輪廻の末に再び相見える事を願いつつ。祈りつつ。
今一度、遠ざかる屋敷の椿を見返り。
年を経て鬼の岩屋に春の来て、風や誘ひて花を散らさん——。
「きっとその岩屋から、散りそうな花を掬い出した春風だったんだよ、君は」
その声は少しばかり寂しく。
冬の風の中に溶けてゆくのだった。
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