あめふりかぜふけども とこしへなることいわのごとく ときわにかきわにましませ

衞藤萬里

あめふりかぜふけども とこしへなることいわのごとく ときわにかきわにましませ

 個室は特別室だった。

「さすがに寶月ほうげつのご隠居は、病室までご立派だ」

 そう云いつつ備えつけのソファがあるのに、その男はわざわざ畳んで立てかけてあるパイプ椅子をベッドのそばに寄せて、腰をかけた。

「何年ぶりかね、あまね――」

 ベッドの老女が、ややかすれ気味の声でそう云った。顔にも手にも、みっしりと皺がより、相当の高齢であることがわかる。だが病床上で上半身を起こしている背筋は伸び、座る男へやった眼には、理知的な光があった。

「二十年ぶりだ。つやが入院したと訊いてね」

 そう答えた男は、まだ壮年にずいぶん間のありそうであった。仕立てのよい淡いグレイのスーツに、透きとおるような肌の白さと鼻筋の通った整ったものであるが、それ以上の正体の知れない厚みが、その男にはあった。

「あなたにとっては、たいした時間じゃないでしょうね。でも私はこんなにも歳をとってしまった」

 老女――つやの言葉に、弥はかすかに笑った。つやもかすかに笑う。そして問うた。

「今はどこに?」

「これまでと同じだ。いろいろなところを転々としている」

「そう……」

「つやは、どうなんだ?」

「ステージ四。今年いっぱいはもたないそうよ」

「そうか」

「この歳まで生きれば、もう老衰みたいなものだけどね」

 そう云うと、おかしそうにくつくつと笑う。

「お茶は勝手に入れなさいな」

 弥と呼ばれた男は、急須に新しい茶葉を入れ、ベッド脇のポットから注ぐ。

「さすがにいい茶だ」

 急須から立ちのぼる香りに、そう云った。ふたつの湯呑に注ぎ分けると、自分はひとつを手に持ち、再びパイプ椅子にもどった

 ふたりは湯呑の茶に同時に口をつける。

「多分、これが最後でしょうね」

 つやが云った。

 ふたりは窓の外に眼をやる。

 萌えの季節は過ぎている。新緑が濃くなり、今はもう荒々しいまでの夏の気配がただよいだしていた。

 つやには、もうとうに過ぎ去った時節だった。

 つやは視線を眼前の男にもどす。男もまたつやに向き合う

「これまで何人もから云われてきたとは思うけど――」つやはそう前置きをした。「あなたは本当に変わらないわね」


* * *


 つやが初めて弥と出会ったのは、戦争が終わって少したったころだった。彼女はまだ七つか八つ。

 ある日暮れどき、白い麻の背広の上着を片手に男が、すすけた寶月の看板を見上げていた。残暑が厳しかったように記憶している。

 それが弥だった。

 その日から、弥と名乗った人物はつやの家に住みつくことになった。職人としてではない。三畳ではあったが一間を与えられ、そこに日がな一日中、ただいるだけだ。居候にしても、本当に何もしない。食事も部屋に運ばせる。

 縁者でも何でもないらしかった。仕事をしない者を無為に置いてやれるほどの余裕があったはずもない。それでも祖父も父も、何も云わずに弥を住まわせた。子どもごころにも不思議だった。

 江戸時代からつづく実家の菓舗は材料不足のため到底立ちいかない状況だったと、後から祖父や父から聞いた。

 だがそのころから、闇市でも出回らなかった砂糖や小豆もわずかだが手に入るようになり、出征していた職人もぽつりぽつりと戻ってきた。

 戦火の余燼がまだ感じられるような日々であった。

 しかし、四肢をもぎとられ、内臓までずたずたにされた半死人のようだった人々の暮らしは、もがくように這いすすむように徐々に立ち直っていった。


 印象にのこっている記憶が、つやにはある。

 経緯は憶えていないが、ある日の夕刻、彼女は家への帰途を失った。

 不思議な光景だった。ほこりくさい路の真ん中に、ひとり彼女は立っていた。

 街――住まいがある。小間物を売る粗末な店もある。どこかからか物を煮る匂いがする。七輪で何かを焼く煙も見える。だが、誰もいなかった。人の気配もしなかった。犬の声も、鳥の声もしなかった。

 むっとする熱気で、路の先には空の半分を占めるような、毒々しい夕陽がゆらめいていた。

 それは彼女にとてつもない不安を与えた。だが逃げだそうにも、手も脚も固まったように動かない。のどに何かを詰められたように声も出ない。眼がからからに乾いてしまったかのように涙も出ない。

 じりじりと夕陽にあぶられて、ついには干からびてしまいそうだった。

 そのまま、どれぐらい時間がたっただろう。

 眼の前の大きな夕陽の中に、ふと黒い影がゆれ、それが少しづつ太く大きくなった。その影が眼の前に立って、はじめて弥であることがわかった。

「迷ったようだね」

 そう云った弥は、かすかに笑っているようだった。つやは糊で固められたように動かない顔で、機械的にうなずいた。

 弥が手を伸ばす。動かなかった手が動くようになった。大人の大きな掌の中に、彼女の小さな手はすっぽりと収まった。

 その瞬間、今の今まで誰もいなかった街に、不意に人影が動き、ざわめきがもどってきた。鳴きながら飛ぶ烏の群れ。けたたましいエンジン音のオート三輪まで、土埃をたてながらすぐ脇をかすめて走っていた。

 ふたりは大きな夕陽に向かって、手をつないだまま歩きだした。途中までは憶えている。だけど、気がついたら布団の中で眼をさました。もう朝で、寝間着に着替えさせられていた。どうやらいつか疲れて、弥におぶられて帰ってきたらしい。


 弥がいなくなったのはいつのころから、はっきり記憶していない。小学校に通っている間はいつ帰ってもいたような気がするが、店がうまくいくようになって家を新築にしたころにはもう、弥の姿は家になかった。

 どこに住んでいるのかは知らなかったが、それからも弥は度々訪れた。いつも上等の背広をまとい、涼やかな顔立ちで。

 つやの記憶のあちこちに、弥はいた。

 中学校に上がり、初めて制服を身にまとったとき、長すぎるぶかぶかの袖を笑ったのは弥だった。

 高校受験のため、苦手な数学に頭をひねっているとき、公式を教えてくれたのは弥だった。

 高校の卒業式のとき、ようやく若葉が映えだした桜並木の先に、父母とは離れてたたずんでいたのは弥だった。

 もう大人になったのだからと、初めて西洋料理と一杯の葡萄酒ををごちそうしてくれたのは弥だった。

 見合いの席で初めて将来の婿となる男性を見、自分の人生にどのような変化をもたらすのか戸惑う彼女の話をずっと聞いてくれたのも弥だった。

 そして、婚礼の前夜、ひそやかに叩く音に窓を開けてみると、庭に立つ弥がいた。特におめでとうなどとも云わず、二言三言、言葉を交わして、弥は去った。


 あるとき不意に気がついた。

 初めて会った子どものころと今とで、弥の姿がまったく変わっていないことに。

 そのころ、つやはもう高校を卒業して、家業見習だった。なぜか父に訊ねることはできず、それからしばらくして訪ねてきた弥に、つやはとうとう問うた。

 弥はうなずいた。それが答えだった。

 まさかとは思っていたが、眼の前にその事実があるのに、にわかに信じることができなかった。

「私のような者に、何人か会ったことはある。だが私たちが人なのか、人でないのか、それすらわからない」

「弥は、何歳……?」

「憶えていない。自分がいくつなのか、もう忘れた。刀を持っていた憶えはあるから、三百年か四百年はたっているとは思うが……記憶もあいまいだ」

 弥の顔から、表情がぬけ落ちていた。

「だが私たちは、長く生きる他はつやたちとは何も変わらない」

 つやは言葉を失った。

「長命の私たちを、周りに幸運を与える福の神に見立てる者もいる。私たちを招いて、住むところ、着るもの、食べるものを与えてくれる。私たちもひとつところに留まることがないように、何年かごとに転々とする。それが昔からの慣わしだ」

「うちに来たのは、ひょっとして……」

「招かれたんだ。戦争が終わっても菓子作りの材料は高すぎて、とても商売にはならなかった。おまけに寶月は職人をみんな兵隊にとられて、窯を焚く薪すらろくになかった。私が来たころは、おそらく廃業寸前だったと思う」

「あなたが来て、盛りかえした……?」

「わからない。そのような力があるのか自分ではわからない――ただ、私がいようといまいと、店が立ち直ったのはお前のお父さんたちが、懸命に努力したからだと私は思う」

 そう云った弥の双眸には、つやが理解できない昏いものが宿っているように感じた。

「弥、あなた、寂しくない?」

 弥のとまどったような表情を見たのは、それが初めてだった。だがそれも一瞬のことで、弥はほんのわずか哀しげに、しかし優しく笑った。

「私は与えられたとき――それがどれぐらいなのか、自分でもわからないが――を生きるだけだ。人が皆そうであるように」


 彼女はひとりっ子であった。当然、婿を迎えることとなった。相手は呉服商の三男で、つやは高校を卒業し二年ほど家業の手伝いをした後、その男と祝言をあげた。

 結婚してから弥は、子どもが産まれたおりや父や母の葬儀のときに、何年かごしに訊ねるだけだった。

 いつ会っても弥の容姿に変化はなく、確実にときが身体に刻みこもれていくつやとは違い、彼の云ったことはまぎれもない真実であることを思い知らされた。

 そしてここ数十年はまったくの音信不通だった。そのため多忙の日々の中、弥のことを自然と憶いだすこともなくなっていた。

 想えば、長いときが過ぎ去ったものだ。

 寶月の経営は、戦前戦後の苦しい時期を持ちこたえると徐々に上向きとなっていった。店舗で売るだけでなく茶事での注文が増えはじめ、銀座の大きな百貨店にも卸すようになった。最大の栄誉としては、皇室へも献上する機会――父は一生の誉れと涙を流して喜び、献上品を祖父の仏前に供えた――もあった。

 やがて父が亡くなり、つや夫妻が跡をとった。夫が社長でつやが副社長。数十年支えあってきた。その中で、何度もつらいこともあった。

 やがて長男が跡を継ぎ、夫も亡くなって久しい。


* * *


「照和銀行の融資の件、あなたでしょう?」

 つやはもうひと口、茶をすすると訊ねた。

「気がついていたのか?」

「もちろん、あれだけ渋っていた融資部が急に態度を変えればね。前に椙田すぎた頭取には借りがあるって云っていたでしょう?」

「あの鼻たれが、あれほど偉くなるとは思わなかった」

 十五年ほど前だった。息子の代になって、不動産取引で大きな負債を抱えこみ、それがきっかけで経営が悪化したことがあった。息子は寶月の体力にあわない無理な経営を、強引にすすめたがっていた。

 老舗とはいえ、全国規模のチェーン店ではない。しょせんは薄利多売。ひとつ数百円という職人の手づくりの小さな菓子を根気よく売るのが寶月の商いなのだ。どこかでつまづくと、たちまち苦しくなる。

 ちょうど支店を出したところで、土地屋敷を担保にして借りることができるところからは、目いっぱい借りていた。付き合いのある金融機関も融資を渋った。

 何度も脚を運んだが、色よい返事はなかった。それどころか、経営状態を危ぶんだのだろう、いわゆる貸し剝がしまでほのめかされた。

 これが何十年も付き合いのある者のやり口かと怒りと屈辱に震えた。確かに金は借りた。だが、これまで一度だって滞らせたことはない。金を間にした関係ではあったが、そこに信頼関係があるものと思っていた。

 非常にまずい状況だった。

 これまでも経営は何度もむずかしい局面に突き当たったが、これまでは日本中が成長をつづけていく中で、どうにか突破口はあった。だがそのときは違った。経済自体が完全に閉塞していたのだ。

 それがある日突然、手のひらを返すように融資話がまとまった。当時の会長の口添えがあったそうだが、思わず裏があるのではないかと疑ったほどだった。

 

 それが――幸運を与えることができるのかどうかすらわからない自分が、つやに与えることができた、たったひとつのことだと弥は思っている。


「感謝、するよ」

「福の神だから、これぐらいはできないとな」

「ずいぶん露骨な福の神だね」

 つやが笑うと、弥も小さく笑った。

 弥は最後の一口をすすると、じゃあと立ちあがった。おそらくこれが最後だというのに、あまりにあっけないほどだった。

 その背に、つやは問う。

「長い時間あなたは生きてきたけど、あなたに関わってきた人、ちゃんと憶えているの?」

 弥は病室の扉に手をかけたまま止まった。

「私のことも、忘れてしまう?」

「多分、忘れてしまうだろう……」

「……そう」

 つやの声から身体から、力が抜けてしまったようだった。

「……だが、お前の店の味は忘れない、きっと……」

「そう……なら、味をおとさないように厳しく云っておくよ。時どき買いにおいで」

 つやがそう云うのを、聞いたのか聞かなかったのかわからないが、弥は振りかえらず無言で病室を後にした。

 誰もいなくなった病室で、つやは身体を横たえ眼を閉じた。やがて目じりをつたって、後から後から涙が流れた。

 窓の外では緑風が匂う。陽光は鮮やかであった。

 

* * *


 弥らは子を為すことができない。それでも、異性の温もりを求めることは自然の摂理だった。

 自分の身体のことを知り、それでもいいと云ってくれた女はいた。

 だが、若い日々はたちまち過ぎ去る。三十年、五十年たつうちに、照り輝いていた女の肌はくすみ、皺におおわれる。

 先にくじけるのは、常に女の側だった。

 何十年も変わらぬ姿の彼を、やがて化け物と罵った女がいた。

 共に生きてはいけないと、去った女がいた。

 臨終の場で、あなたは何者だったのと虚無のひとことを遺した女がいた。

 何度も繰りかえした。何度も挫折した。

 そして思い知った。

 自分と彼女たちとの間に流れる時間は、平等ではないのだ。

 決して求めてはならない。

 そう誓ったのは、もう百年以上前だろう。

 乾ききってしまって、何も感じなくなれと思った。

 それが永劫に近いときを生きる彼らの、絶望から逃れるたったひとつの方法だった。 


 だが――

 

 病院の正門を出て、一度だけ振りかえった。

 七十年前には想像することもできなかった巨大な建造物。この中でつやは、最後のときをすごす。

 無数の彼女を見守ってきた。

 迷子となったつやと手をつないでの帰路。

 三つ編みを揺らして駆ける制服姿。

 卒業証書を広げる、大人びた笑顔。

 店を手伝う額に光る玉のような汗。

 脳裏に、つやの立ち姿がまたたく。

 求めてはならないと固く誓ったはずなのに、彼女の生は弥を信じられないほど激しく揺り動かした。

 そして、叶うならともに生きたいと願った。自分のときを、彼女のときに重ねたいと思うようになっていた。

 だがそれは、いつか彼女を絶望へと追いやることだ。

 彼女のときは、どんなに切望しても、決して手にしてはいけないものだった。彼女と自分とは生きる尺度が違う。

 そして見合いの相手のことを不安そうに語り、しかし恥ずかし気な喜びを抑えきれない輝くような横顔――それは弥にとって、あまりにもまばゆすぎた。

 彼女の未来は別の者に託されたのだ。

 長い時間をへて、つやの終焉のときが迫っている今、これが正しかったと弥は思う。

 だから――


 これでいい。

  

(了)

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あめふりかぜふけども とこしへなることいわのごとく ときわにかきわにましませ 衞藤萬里 @ethoubannri

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