前史(一)



 後に山門領の勒尼庄として文献に現れるその村の成立は元慶三(八七九)年、未だ雪がちらつき草木を覆う霜が解けきらぬ春先のある日のことである。

 鎮守府より北へ何十里も離れた山間の、わずかに数軒の俘囚の家があるばかりの村とすら呼べぬ小さな集落。建郡はおろか城柵すらされていない国家の北限よりさらに北の土地。そこへ、明心法師に率いられた五十人ばかりの百姓の一団がやってきた――本貫地はさまざまであり、富裕な者もいたが大半は課役を嫌い浮浪の道を選んだ者たちであった。うち数名は数年前に大宰府で捕らえられた新羅の海賊である。時は頃、この時点で胆沢城に鎮守府が移され実に半世紀以上が経過していたにもかかわらず前年には出羽国において俘囚の大乱が起こったばかりであり、当然ながらその時にも残火が燻り続けていた。この『村』の位置する台地の当時の地理的状況については以下のとおりである。

 地表から三十間もの高さがあり、ほとんど森におおわれ、住居のある開けた場所はわずか二町ほどの広さ。北東には神代より遥か以前の火山活動の残滓である名もなき小山が聳え立っており、南には川に面した断崖があった。そして、集落の北には神代の遺跡だという環状に据えられた無数の石。



  その小さな『村』の主たちは元からそこに住んでいたわけではない。いずれも平地での部族同士の抗争を嫌って逃げ延びてきた人々であった。敵に見つからぬよう息を潜め、山で細々と狩りをしたり山菜や果実を採集して暮らしていたのであり、長い冬が到来するたびに飢餓に苛まれていた。

 百姓たちがやってきたのは住民たちが春の到来を待ちわびていたまさにその時であった。当然ながら外界との交流などとうに途絶えており、恐れおののいたのは言うまでもない。



「恐れることはない」



 錫杖を手にし、鉄の草鞋を履いた明心法師はすわ敵の襲来かと怯え住居から姿を見せない住人に呼び掛けた。



「私たちはただご神勅に従い、諸君らと今後生活を共にしたいと思う。ただそれだけなのだ」



 こわごわと住人たちが屋内から歩みだしてきたのを見とめると、法師は携えてきた作物の種や籾をいくつか出しなさいと従者たちに指示した。ここまで付き従ってきた百姓たちが腰の袋から様々な種子を取り出し、法師の指示通りに足元の土に埋めた。粟、稗、紫蘇、油菜、麦、蕎麦、大豆。一部始終を確認した法師が手で印を結んで何か唱えると、雪がちらつくほどの寒気にもかかわらず暖かい風がどこからともなく吹いてきた。その風が今しがた種子を埋めた大地の表土を吹き飛ばすや否や種たちが瞬く間に人の背丈ほどの高さにまで育ち青々とした葉と共に実をたわわに実らせた。

 目の前で起きた出来事が信じられないといった面持ちの住人たちに対して法師は実や葉を手に取って食べてみるよう促す。住、人は促されたとおりにしてそれらの作物が安全であるばかりか味も悪くないことを知った。一行はさらにそれらの種子をどれほど持っているのか見せて、当分の間その場にいる全員を飢えさせる恐れがないことを示した。もしこれが食糧に事欠かぬ夏であった場合、移民団は誰一人として歓迎されなかったであろう。しかし、追い返すには彼らはあまりにも飢えていた。長すら持たないわずか十数人ばかりの住民たちの心は議論を戦わせるまでもなくこの新入りたちを全員受け入れることで一致した。彼らは口々に歓迎の言葉を述べた。


 

 『続日本紀』に「水陸万頃にして蝦虜生を存す」(延暦八年七月丁巳条より)と書かれた衣川以北の地はすっかりその様相を変じていた。官軍の設けた城柵をさらに越えた北方への移住は盛んにおこなわれ、広大な原野が次々と切り拓かれ田畑になり、多くの蝦夷の酋長も京から下向してきた官人およびその子女と婚姻して関係を結んでいた。このような雑多な移民団は特段珍しくはなかったのだ。ただ一つ、わざわざ山間を選んだことを除いては。

 彼らは開けた平野の村ではなくわざわざなぜこのような辺鄙な場所へ来たのだろうか。まずは一団を率いてきた明心法師がいかなる人物であるのか見てゆく必要がある。

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永劫なる風化と再生 ポッサムマン @toichansan

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