最終話 春、桜色

 あれから数か月が経過した。

 季節は春。もう少しで四月だ。


 私は淳樹の最低な一面を知り、すぐさま離婚弁護士に相談した。難航するかと思われた離婚調停だが、マイカの証言もあり、案外すんなり離婚することができた。


 淳樹の最低なエピソードはあれだけではなかった。私が塩漬けにしていた通帳から度々お金を下ろしては、蝋燭プレイに費やしていたのだ。


 布団を頭まで被って寝ていたのも私の不眠症を気遣ったわけではなく、夜中に布団を抜け出してもバレないようにだった。妊活が嫌なのも赤ちゃんの夜泣きがあると夜中に抜け出せなくなるから。


 淳樹は私の想像を遥かに超えたクズ野郎だった。

 それを知ることができたのは、華奈とマイカ、そして納豆の男性――改め、春弥はるやのおかげだ。三人には感謝してもしきれない。


「有里、もう行くね~。今までありがとっ!」

「こちらこそ。幸せになって!」


 華奈と抱擁を交わし、シェアハウスから送り出した。いくつものブランドバッグにこれでもかと荷物を詰めた彼女は、これから男の元で一緒に暮らす。


 彼氏ではない。夫だ。


 私が正式に離婚を成立させた一月、彼女は婚活で知り合った人と電撃結婚をした。最初は変な男なんじゃないかと不安になったけど、会ってみたらがっつり華奈の尻に引かれていたので安心した。彼ならきっと華奈を幸せにしてくれるだろう。


 そして華奈が出て行った部屋に私が住むことになった。


「ユリ、きょうもアイス食べる?」

「食べる。いつもありがとう」


 キッチンからマイカに声を掛けられ、私は彼女の提案に甘えた。あれから数か月間で私たちの距離は縮まり、今ではため口で話す仲だ。


 ふと彼女の顔に視線を向ける。アザの薄くなった頬を見るたびに、私は安堵する。

 私は淳樹からの慰謝料をマイカのアザの治療代に使った。最初は拒んでいたマイカだったが、私の押しに負けて病院でレーザー治療をすると、アザはどんどん薄くなっていた。


 今ではフードでアザを隠すこともなくなったし、昼間にはアイス屋さんでバイトもしている。彼女の笑顔を見るたびに心が温かくなる。


「きょうはたくさんつくるね、ユリ」


 マイカが笑顔を見せると、いつものようにキッチンからドライアイスの煙が立ち上った。すると突然、共用玄関が開いた。


「こんにちは」

「こん……え」

「また、奇遇ですね」


 やってきたのは春弥だった。大きな荷物を抱えている。


 彼とはあのラブホテルでの再会以来、スーパーでささやかな会話を交わすようになった。


 春弥は毎回賞味期限の早い納豆を聞きに来て、私はその度に二割引きのシールを貼って渡した。最初は割引目的だと思っていたが、ある日思い切ってなぜ毎回私に聞くのかを尋ねた。


 すると彼はこう答えた。

 

 ――左目だけ弱視で、小さい文字を見るのがあまり得意じゃないんです。いつもすみません。


 衝撃の事実だった。しかも、右目だけ酷使していたらいつの間にか二重になったらしい。


 世の中は訊かないとわからないことだらけだ。いつしか『知ろうとしないことは損』という言葉は、私の座右の銘になった。


 それから納豆に割引きのシールを貼る僅かな時間だけ、一日一個ずつ互いに質問をするようになった。


 名前は春弥。二十一歳の大学生。ちょっと貧乏。アルバイトは時給の良いラブホテル。好きな色は緑。嫌いな食べ物は甘納豆。


 週に二回のこのひと時が私の楽しみだった。でも、三月に正社員になったのを機にパートを辞めて以来、三週間近く会っていなかった。


 どうしてここにいるのだろう。少し迷ったが、聞きたいことはちゃんと聞くことにした。


「春弥くん、どうしてここに?」

「四月から就職するので、ここに引っ越してきました」

「えっ」

「まさか有里さんもここに住んでいるんですか?」

「うん、私も正式には今日からなんだけど」


 いつも表情を崩さない春弥が、珍しく相好を崩した。驚いて目を見開くと、彼は慌てて口を結んで元の表情に戻った。


「隣に座っていいですか?」

「うん、いいよ」


 春弥とはいつも立って話していたから、座って話すことに違和感がある。彼がソファに腰を下ろすと、ふわりと桜の花びらが落ちた。


「あ、桜だ。髪についてたのかな?」

「桜並木の下を歩いてきたので恐らく。桜好きですか?」

「うん、好き」

「桜ソングでは何が好きですか?」

「うーん、コブクロかな」

「好きな桜餅は?」

「えっと、道明寺」

「好きな桜ドリンク――」

「あの」


 怒涛の質問攻めにあい、たじろいだ。スーパーで会うときは一日一個しか質問をしてこなかったのに。


「どうして、質問攻めするの?」


 純粋な疑問を春弥にぶつけてみる。すると彼の二重がぴくりと動いた。


「言ったじゃないですか。最初の頃に」

「え?」

「『知ろうとしないのは損だと思います。だから僕は――』」


 数か月前に春弥に言われた言葉を思い出したとき、私の頬はたぶん、桜色に染まった。



 End.

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夫の元不倫相手と一緒に住んでいます 花氷 @shiraaikyo07

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