17 死んでも
途方もない時間が流れた。まだ誰も口を開かない。
淳樹とマイカがSMプレイをしている。その事実だけでは、私と華奈のどちらの予想が正しいのか全くわからない。だから私が訊くしかない。
でも、喉が締まって声が出なかった。真実を知るのが怖いのか、淳樹に激しい怒りを覚えているのか、マイカのことを信じ切れなくなっているのか、男性に見られたことに羞恥の念を抱いているのか、感情の種類がわからない。
とにかく、極限の混乱状態に陥って声が出なかった。
途方もない時間が過ぎていく。このまま帰ってしまった方が良いとさえ思った。知らない方が幸せなこともある。
――知ろうとしないのは損だと思います。
しかし、何度も脳内で反芻してきた言葉がよぎった。彼の言葉だけが今の私を支える原動力だ。
「……淳樹は蝋燭プレイが好きなの?」
何から聞けばよいかわからず、出まかせの言葉を投げた。
淳樹は息を吹き返したように身動ぎし、私のもとに近づいてきた。私は「そこから動かないで」と釘を刺した。
淳樹はその場にへたり込み、情けなくこくりと頷いた。
「ごめん、黙ってて」
「私には一度も言わなかったよね」
「き、嫌われると思って」
「不倫の方が嫌われるとは思わなかったの?」
私の問いに淳樹が目を見開いた。意表を突かれたときの彼の表情だ。
「違う……不倫ではないんだ」
「この状況でよく嘘をつけるね」
「本当に、有里と出会ってから一度も他の人と本番行為はしたことないんだ」
嘘の上塗りに激高しそうになりながらも、本来の目的を遂行するために怒りを奥歯で噛み殺した。
まずは、全部知ってからだ。
「マイカ、淳樹の言ってることは本当なの?」
マイカに視線を向けた。彼女は押し殺していた息をゆったりと吐き、こくりと頷いた。
「ほんとうです。ジュンキにはロウソクしかたらされていません」
視界の隅で淳樹が首がもげるほど頷いていたが、無視した。
「ジュンキにロウソクをたらされている写真がとれたらショウコになるとおもって。でも、手をしばられてうごけなくて……ごめんなさい」
マイカが目に涙を浮かべている。淳樹は『証拠』と聞いた瞬間、私と彼女を交互に見つめた。表情に焦燥の色が浮かんでいる。
もし二人が水面下でずっと関係を続けていたら、淳樹はこんな反応をしないだろう。
私はマイカを信じることにした。「ありがとう」といいながら、すぐさま彼女の元に駆け寄って手のひもをほどいた。マイカは声を上げてさめざめと泣いた。
私はマイカのことを無理やり縛ったであろう淳樹が許せなくなり、徹底的に問い詰めることにした。
「淳樹、二度目の不倫は誰としたの?」
「なぁ、証拠ってどういう――」
「誰としたの?」
「……マッチングアプリの人。でも本番はしてな――」
「なんで二度も不倫したの?」
「だから本番は――」
「二度も不倫をしておいて、どうして私と死んでも離婚したくないの?」
「それは……」
かつてないほどの質問攻めの嵐に狼狽える淳樹。額には脂汗が浮かんでいる。
「私のこと、まだ好き?」
この質問には頷いてほしかった。たとえ嘘だとしても。
しかし淳樹は身動ぎ一つしない。視線を床に落とし、大量の汗をかき続けている。
鉛のように重い沈黙の中、マイカがベッドの上にスマホを置いた。肩から垂れる蝋がぬらぬらと輝いている。
「きいてください」
彼女は再生ボタンを押した。
『オクサンいるなんて知りませんでした。ウソついてたんですね』
『え? いないよ、いないいない』
『スマホみました。ヨメってかいてありました。ワタシかえります。おかねもかえします』
淳樹の白々しい声が苛立ちを助長させた。対して、マイカの言葉は切実だった。
これはたぶん、私がかけた電話にマイカが出た直後に録音したのだろう。あのとき彼女が私に言った『今トリコミ中です』という言葉は、私に対するマウントではなく、今から淳樹を問い詰めるという意味だったのだと思う。
もしかしたらマイカは、淳樹の不倫を私に知らせてくれたのかもしれない。これ以上淳樹が不倫を重ねて、私が傷つかないように。
『ちょ、待てよ! おかね出すからさ!』
『キンケツで五千円しかないって、さっきいってたじゃないですか』
『嫁の実家が金持ちだからほんとはあるんだ、いくらでも。今日もあと三万出すから続きしてくれよ』
『それはオクサンのおかねじゃないですか』
淳樹の信じられない言葉が耳朶を打った瞬間、私の血は煮えたぎった。
『嫁の金は俺の金! そのために結婚したんだから』
最初から私のこと、好きでもなんでもなかったんだ。
知らなくて損した。ずっと損してた。
『サイテイです。さよなら』
『おいこら!』
『きゃっ』
録音は激しい雑音とともに途切れた。淳樹の顔は青ざめている。私の頬は濡れている。
「このあと、うでをつかまれてたおれました。床にあったふつうのロウソクに顔があたってヤケドしたんです」
マイカは頬にある赤黒いアザを指さした。これは淳樹が彼女を傷つけた証拠。
一体どれだけの人を傷つけたら気が済むのだろう。
私は抱えきれない怒りと哀しみを胸に、淳樹に近づいた。
そして――
「死んでも離婚する」
淳樹の頬を思い切りぶっ叩いた。
同時に、床の蝋燭の火が消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます