帰る場所、待つ場所

晴田墨也

第1話




 海の見える家を建てた。といっても、明礼が自ら設計図を描いたわけではない。出資以外のことはすべて後輩の千川がやった。独学のくせに、設計図から実際の組み立てまで余すところなく一人でやり遂げたのだから大したものだった。

 発端は、何ということはない、久々の飲み会での明礼の呟きである。

「出資してくれたら俺が全部やりますよ」

 程よくアルコールの入った時の、笑って流されるはずだった言葉を拾い上げた千川の行動力はものすごかった。出資者である明礼の意見を聞きながら設計、あらゆるつてを使って予算内で一番いい材料を調達し、それを成形して上棟、そのまま外装まで丸ごとやってのけた。彼の手で行われていないのは地鎮祭くらいなものだろう。それだけは本職さんに頼まなければいけない、と主張するので、そうなった。

 陽気で、いつでも人の中心にいる後輩だった。文学部に所属しながら独学で陶芸やら建築やらをやっている子で、普段はうるさいくらい賑やかなのに、何かを作る時は驚くほど静謐な空気を纏っていたのを覚えている。学生時代は「俺はそのうちガウディも超えますからね!」なんてことも言っていたと思う。明るく、素直な後輩だった。そんな後輩だったから、酔狂な夢を預けてみるのもまあ、いいか、と通帳を投げ渡したのだった。

 思い切りすぎた行動には多分、平凡に生きるのに飽きていたというのもあったのだと思う。社会人になって十年が経とうとしていた。日々をやりくりしていく中で、茫漠とした不安と焦りに押しつぶされそうな夜もある。そんな中で、「一軒家を建てたい」なんて子供っぽい言葉を面と向かってキャッチされてしまったものだから、ちょっと賭けてみてもいいかな、と思ってしまった。

 とはいえ、出来た家はなかなか立派なものだった。濃い空色の壁面に、一つずつ異なった窓が特徴的だ。一階の出窓の周りには不揃いの色ガラスが嵌め込まれ、二階の上げ下げ窓の周りはタイルで彩られている。家の裏の窓はシンプルなスライド式。

 打って変わって室内は洗練されたシンプルさで、どんな家具を入れても違和感なく収まるようになっていた。リビングやキッチン、風呂やトイレのほかは、二階に海に面した大きめの部屋と、その半分ほどの部屋が一つ。明礼の部屋は真ん中に薄い壁が引き出せるようになっており、それを使えばもう一部屋増やせるという形らしい。当然のように後輩の部屋があり、家の裏にはアトリエまであるのには笑ってしまったが、建てた張本人を蹴り出すこともないだろう、と家に置いている。

 難点は山の上なので帰りが面倒ということくらいだ。それだってバスの定期を買ってしまえばそう大きな問題にはならなかった。

 明礼と後輩の間に、特筆すべきことは何もない。千川は美術サークルの中で数少ないまともに絵を描いている人間で、普段は一人で部内の半分くらいの賑やかさを担っている後輩だった。そのやかましさを苦手に思っていた時期もある。けれど、一度制作にのめり込み始めると、彼の気配はしんと消えてしまう。キャンバスを、スケッチブックを、クロッキー帳を、対象物を、じっと見つめている時、彼の眼差しは誰よりも透き通っている。その落差を気に入っていた。でも、それだけだ。眺める者と眺められる者、という以外の関係が二人の間に生じたことは一度もない。

 それは一緒に住むようになってからも変わることはなかった。料理が好きだという彼が炊事関連の主導権を握り、掃除と洗濯は好きだからとこちらが主導し、タイミングが合わなければ互いに補うことで、それなりに上手くやっている。

 朝は二人でご飯を食べて、昼食にとランチボックスを渡され、働いて帰ると食事を用意して待っている後輩に「ただいま」を言う。彼のバイトが長引く日にはたいてい連絡が入っているから、こちらで夕食を作ることもある。

 バイトと家事をしていない時の後輩は、ほとんどアトリエに籠っている。同居し始めたばかりの頃の千川が、アトリエには入らないでほしい、と言ってきたので、明礼はそれを忠実に守っていた。明礼はものを作るという行為をコンスタントに行う人々のことはよくわからないけれど、多分、誰かの気配があっては困るものなんだろう。己とこれから作品になるものとの対話、みたいなものがあるのかもしれない。

 出来上がった作品のうちのいくらかは時々、キッチンやリビングの片隅に何気なく転がされていた。空と湖と一筋のひこうき雲がステンドグラス風にあしらわれたマグカップ。食事をのせる面は素っ気ない灰釉が施されている一方で裏側がやたらと華やかな平皿。孔雀の羽根が一本えがかれた七宝焼きの一輪挿し。千川が勝手に育てている家庭菜園の風景を描いた三十センチ四方の小さなキャンバス。

 それらを無造作に設置する時、彼はいつもの陽気さも製作中の透徹も忘れ去ったように心細げな空気を纏う。どうですか、と言うことはないけれど、そのマグカップを、平皿を、一輪挿しを手に取れば、すかさず視線が飛んでくるからわかる。

 視線を追えばすぐさま背を向けられてしまうけれど、そんな時の彼の背中はどことなく小さく見える。それを見るたび明礼は、小学校の国語の授業を思い出してしまう。担任の先生に漢字の練習帳を見てもらう時の緊張感。花丸が欲しい、自分では精いっぱいやったけれど、花丸は貰えるだろうか。期待と不安、欲しい評価が得られるかどうか、上目遣いで相手を窺っているかのような。

「綺麗な青」

 昔から自分の思ったことを口にするのは苦手だった。

「裏側だけ絵が描いてある。……珍しいね」

 話すのが苦手、と言うわけではない。どちらかと言えば、言葉を選び取るのがだめだった。自分が何に対してどのように感じたのか。この言葉は思いを表すのに適切か。吟味し、言葉に責任を持って発するということは、明礼にとっては重く感じられる。言葉にできたところでそれはひねりもなく、装飾もなく、平凡なことばかりだ。

「羽根が一本だけ描かれているから、際立って見える。鮮やかだ」

 本当はこの後輩の作ったものに対してもっとたくさん、気に入ったということを伝えてやりたい。もどかしいけれど、もどかしく思うほど言葉が出なくなるものだから、仕方なく平凡な言葉で繰り返し伝える。

「トマトの色がいい。赤だけじゃなくて緑とか、土のはねたのが丁寧に描かれているのが、素敵」

 時々思う。自分が口にしているのは褒め言葉などではなく、自分の中で感じた事実を並べているだけの、つまらない言葉なのではないのか、と。後輩がこの作品に費やした時間に対して、自分は見合わないものしか差し出せていないのではないか、それならば差し出さないほうがいいのではないか、と。

 それでも、黙ってこちらを伺っている千川に、「私はこれが好きだ」ということをどうにか伝えてやりたくて、いつも何気なさを装いながら懸命に口を開いた。こんな言葉しか与えてやれない自分にふがいなさを覚えながら。

 ほとんどの場合、彼は返事をしないけれど、小さく頷いてかすかにはにかむ。それを見るたびに明礼は、昔の担任が花丸にかわいいうさぎのスタンプを追加してくれたのを思い出す。自分は彼にとってのスタンプになれているようだった。

 事実、明礼は後輩の作品が世辞抜きに好きだった。見えた色を見えた通りに再現しようとする素直さが好ましかったし、見え透いたひねくれ具合も、誤解を恐れずに言うならば、愛していた。それは性愛でも友愛でもない、芸術家としての彼と彼の生み出すもの、その、視線への穏やかな、無償の愛とでも言うべき感覚。

 彼の作品が好きだ。その作品を生み出すために、彼が世界を見つめるまなざしが好きだ。家を作った張本人とはいえ、勝手に居座っている男を追い出しもせずに生活費をほとんど出して養っているような状態になっているのも、畢竟そのためだったのかもしれない。

 千川は、呼吸をするようにものを生み出しておきながら、時折作品自身に、また「ものを作ること」そのものに、自信をなくしてしまうらしい。そういう時の彼はどこか、学生時代と違って見える。もしかしたら卒業してから再会するまでの間に、何かしら彼のもの作りを否定するような言葉や態度を浴びせられたことがあるのかもしれない。

 自分の呼吸が世界に不要だと言われるのはひどく残酷なことだ。例えば人間がいなければ地球は安泰だったという話が真実だとして、自分や自分の大切な人がこの世に生まれるべきでなかった、という話に広げられてしまうと反論したくなってしまうのと同じように。

 元来、ものづくりには孤独が伴う、のだと思う。千川が陰鬱な顔をしてアトリエから出てくるのを見るたびに、明礼は父親を思い出す。論文を執筆している時や、歴史をモチーフにした作品を監修している時、資料を熟読している時。父親はいつでも一人だった。父親の書斎に明礼が潜り込んでも気付かないほど、そういう時の父親は孤独だった。静寂だけを寄る辺として、自分の取り出したい情報を、自分の望むものを、希求する。対象と行為こそ異なれど、彼らの横顔はよく似ている。

 しかし、孤独から生まれる彼らの作品は「作られる」だけでは完結しない。一輪挿しは誰かに花を挿し入れられなければ一輪挿しとして完成することはなく、書籍や論文もまた、誰かに読まれて解釈されて初めて完成する。

 千川は決して無名の作家ではなかった。彼の作るものに価値を見出してくれる人がたくさんいることも、定期的に仕入れてくれるバイヤーがいることも、明礼は知っていた。けれども、いつだって千川は己の作品に掛けられる言葉を、感情を求めていた。だってそうでなければ作品は完成しない。誰かに気に留められて、皿や花瓶なら使われてみなければ、絵画なら壁にでもかけてもらわなければ、人の目に触れなければ、芸術は完成しない。……少なくとも千川はそういう思想の人間だった、学生時代から、ずっと。

 彼の心は自分の作品を手に取る者に、無言で問いかけている。

 己が細心の注意を払い、計算し、慈しみ、生み出したものが、あなたにはどのように映るのか。

 ――俺の生み出したものは、あなたに何かを与えられたか。

 もちろん、誰もが彼の作品を愛するわけではない。デザインの基本をいたずらに破っているとか、奇をてらっただけのつまらないものだとか、そんなふうに言う人もきっといるだろう。彼の作品が特別そういう言葉を投げかけられやすいわけではない。何だって、誰だって、誰かにとっては無価値であり得る。人の心のキャパシティは、七十億を受け入れられるほど大きくはない。

 それでも彼は、己の道をゆくことを選んだ。誰かが自分の作品を愛すまいと、黙々と一人、自分が良いと信ずるものを作り続けることを選んだ。そう在りながら、彼の作品を愛する誰かの言葉を欲した。愛されたいと願いながら、己の信ずる道を歩み、苦悩を握り締めて、彼は多くの作品を作っていた。

 芸術家の苦悩を晴らす力を、明礼は持っていない。行き詰まって陰鬱な背中を見た時にこっそり好物のコーヒーゼリーを置いてやるとか、彼の作ったものを見つけた時に拙い言葉を差し出すくらいしか、できることはない。

 ともに暮らす。働きに出かける。作品に触れる。友と会う。感じたことを言葉にしようと努力する。買い物をする。電車で居眠りをする。帰って夕食を食べる。部屋で本を読む。ともに、生きる。

 永遠にも似た日々は、しかし、いつかは終わる生活だとわかっていた。だって、そうだろう。二人はまだ若かった。この場所は平穏だった。若さと平穏が噛み合っていられる時間は、そう長くない。お互いにそれを、理解していた。承知しておきながら黙って顔を突き合わせて、微笑みすら交わしていたのだから、おかしかった。

「先輩、今日暇だったら一緒に出かけませんか」

 その日、千川がそんなことを言い出したのは、先週洗い上げたばかりのレースのカーテン越しに陽光が射しこむリビングで、遅めの朝食をとっていた時のことだ。焼き鮭をつつく箸を止め、どこに、と視線だけで問う。休日と言えば制作活動に勤しむことがほとんどの後輩から遠出の提案が出てくるのは珍しいことだった。

「バイクでちょっと行ったところに道の駅があったんですよ。そんなに人通りはないんですけど、昔の美術館の建物を利用したらしくて、形も面白かったんです。先輩、好きかなって」

 そういえばここへ居を構えたばかりの頃は、時々一緒に散歩をしていた覚えがある。恋仲でもない男女が一つ屋根の下にいるということに対して、多少、遅ればせながらの警戒があったのかもしれない。けれども慣れるに従って互いを気にしなくなったし、その分休日をともに過ごすことは減った。特に、ここのところは千川がバイトを多く入れていたから、二人揃って家にいる、ということも少なかったように思う。

「いいね」

「でしょう」

「でも私、バイクないよ」

「あ、車借りてあるんですよ。朝イチで」

「へえ。準備がいいこと」

「へへ」

 まあ、たまには二人で遠出もいいだろう。明礼は頷き、味噌汁に口をつけた。

 朝食を終え、身支度を済ませて窓から天気を見れば、玄関先で「わ」ナンバーの軽と後輩が並んで待っていた。目が合う。手を振る。「すぐ行く」と声をかけて階段を降りる。からりとよく晴れていたが、海の向こうからはかすかな雨の気配がする。念のため持っていこう、と鞄に二本の折りたたみ傘を放り込んだ。

 助手席に座り、シートベルトを締める。手足の細長い千川は体を折りたたむようにして運転席に収まった。水筒のお茶を一口飲み、CDを差し込み、エンジンをかける。

「じゃ、運転よろしくお願いします」

「や、こちらこそっす」

 軽快なロックとともに車が走り出した。聞いたことはある気がするけれど誰の曲だろう、とCDケースを手に取る。英語で書かれた歌詞カードを眺める。

「好きなの?」

「かっこいいから好きっす」

「歌詞わかるんだ」

「ぜーんぜん!」

「はは、だと思った」

「え、ひでぇっすよ」

 窓を開け、風に吹かれながら髪をかきあげる。なんだか一昔前の映画のワンシーンみたいだ。海を右に左に見ながら車は山を登っていく。千川はバイト先の常連の話やら最近見た映画の話やら、のべつまくなしに喋るから、明礼も気ままに相槌を打つことにする。居心地は悪くなかった。

 ただ、ほんの少しの違和感がある。

 目的地の道の駅までは三十分もかからなかった。車を停め、後輩がゆったりした歩幅で建物まで歩いていく。

「名前は?」

「美術館跡」

 率直な名前の施設は、ちょっと見ると羽を広げた鳥のような形をしていて愛らしい。壁面はモザイクタイルで何かが描かれていたのだろう。描かれている、と判じるにはあまりに古かった。かつて何かの形をしていたであろうタイルはすべてくすんでいるし、欠落も多すぎる。

 ただ、気配だけは残されていた。人の心を動かすような何かがそこにかつてあったのだと、いつか誰かが精魂込めて作ったものがあったはずなのだという気配だけが、それをモザイクタイルたらしめていた。よく目を凝らすと、灰色がかった色にしか見えなかった中に、沈んだ赤色や遠い青色、掠れた金色が混じっていて、それを見つけるのがまた、楽しい。

「結構好き、ここ」

 廃墟に言い知れぬ魅力を感じるのと同じ感覚をつまみ上げ、少しばかり吟味してからそう呟けば、隣で千川の笑う気配がした。

 タイルをしばらく眺めてから中へ入り、企画展示室だった場所にあるアイスクリーム屋でアイスを買う。明礼はバニラを、後輩はチョコレートを選んだ。すぐ外の広場で食べながら、眼下の町々を見る。

「家、あのへんかな」

「もうちょい手前じゃないですか、そっちまで行くとスーパーのほうでしょ」

「そんなだっけ? じゃあここ、思ったより低いのか。結構走った気がするけど」

「道が曲がりくねってますからね。勾配は急だから」

 バニラビーンズが香り立つ。爽やかな高所の風が吹き抜けていく。いい日だ、と海に目をやった。この辺りから見えるのは外海だから、いつ見ても波がある。明礼はそれが好きだった。

「晴れててよかった」

 一足先にアイスを食べ終えた千川の声が静かに落ちる。その声色にやはり見慣れないものを感じて、明礼はちらりと横顔を見た。海の向こうを見つめる目、遠くを見透かそうとするような瞳。初夏の白い太陽が彼の頬をしっかりと照らし出す。

「……何か、話したいことがあるんじゃない?」

「え」

 それは直感だった。多分、モラトリアムが今日、終わる。安穏と若さを消費する日々の終止符、なんらかの変革。それを感じ取って、明礼は微笑む。

「話したくなったら言って」

 何を言われようとしているのかはさっぱりわからない。けれども、千川がやけにこざっぱりとした格好をしているのだとか、わざわざ改まって外へ連れ出してきたのだとか、共に暮らす中での「通常」と異なる姿が散見されるのならばそれは、きっとそういうことなのだろう。この後輩は見た目の印象に反して、けじめをしっかりつけたがるほうだった。正面から目を合わせてやると、大袈裟に狼狽えるものだから場違いに微笑ましく見える。

「その、……あの、ちょっと、話すことまとめてきてからでも、いっすか」

「どうぞ」

 しどろもどろの千川がバタバタと走っていく。視線でだけ追って、明礼はカップの底をプラスチックスプーンでひっかいた。

 初夏の風が吹く。さすがに太陽が隠れてしまうと少し冷たい。目を細めて見上げると、重たげな雲がかかっていた。すぐ流れていくだろうか。

 ——思えば、奇妙な生活をしていた。家族でも恋人でもない男と一つ屋根の下で、ただただ若さを消費していた。暮らす中で恋慕の情が湧くこともなく、そのくせ生活費を要求したこともなければ性の気配を感じたこともない。友人と言うには関係は淡白過ぎたし、他人と呼ぶには距離が近過ぎる。

 共に暮らす中で、多分お互いをまともに見ていることはなかった。千川はいつでも自分の芸術に向き合っていたし、自分も勝手に生きていた。働いて、帰ってきて、たまに友達と会って、きっとどれもが彼なしでも完結していたのに、どうして共に過ごしていたのだろう。どうして共に過ごしていられたのだろう。少し不思議だった。彼がここに留まっていたことも、自分が彼を追い出さなかったことも。けれども同時にそれがあまりにも自然なことのようにも思える。

(……ただ)

 ひとつだけ気がかりがあった。穏やかで静かな、心地よい生活を続けてきた数年間に対する、一抹の疑念。

(この生活はあの子にとって、実りあるものだっただろうか)

 これまでも時折脳裏をよぎっていたその疑念は、何かが変わるという気配を前に、見る間に膨れ上がっていくような気がした。だって、あまりに穏やかだったのだ。不自由はなく、衝突もほとんどなく、ただ安寧のままともに暮らしていた。もちろん平穏の中からたくさんの作品が生まれたのも知っているけれど、彼のことだ、きっとここでなくたって作品を生み出していたに違いない。

 であれば、共に暮らすことで自分は、彼に何をもたらせただろう。そう思うとどうにも焦りのようなものが胸に湧いてくる。あってもなくても変わらない時間だったのではないか、それか、無為に過ごさせてしまったのではないか。

 もちろん千川が芸術家として成功しようとしまいと、この数年をどう感じていようと、明礼には何の関係もないと言ってしまえばそれまでだ。もとより細い縁がたまたまここまでたどり着いただけの二人だった。心配してやる義理もないのかもしれない。理性はそう言うけれども、彼の作品を、作品作りを愛してきた身にはどうにも案じられてならない。

「先輩、すんません、戻りました」

「……あ」

 そんなことをぼんやりとカップを潰して考え込んでいたのを遮られ、思わず声が出る。話すことをまとめるのなんかそんなに時間がかかるわけもない。ここへ連れてくることを決めた時点で、話すことは決まっていたのだろうし。明礼はベンチの隣を示してやる。

「どうぞ」

「あ、すんません、ありがとうございます」

 どこかきまりの悪そうな顔をした後輩が少し迷っていつもの距離に腰を落ち着ける。いや、落ち着いてはいない。何度も座り直して姿勢を整えようとして、もぞもぞと動いている。

「大丈夫?」

「や、はい、大丈夫っす。その、大事なこと言うのって緊張するから……」

「まあ、ね」

 静かだった。さびれた道の駅の、がらんとした広場の隅でたった二人、何かを終わらせようとする前だとは思えないくらい、静かだった。だからこそ緊張するのだろうけれど、リビングの日当たりの良いソファの上で言うよりはこのほうがいいと判断したのは千川だ。

 何を言い出す気なのかはわからないが、がんばれ、と心の中で無責任な応援を呟く。大丈夫、ちょっとくらい驚くか何かするかもしれないけれど、受け止めることだけは必ずする。受け止め方が拙いかもしれないけれど、貴方の望むものを返せるかはわからないけれど、聞き遂げるから。がんばれ、と。

「……あの」

 そうして、千川はようやく口を開いた。

「バルセロナに行ってきます」

「……スペイン?」

「はい」

 明礼は後輩の顔をまじまじと見た。一度口にしてしまったからだろう、安堵して緩んだ口許が話を続ける。

「バイヤーさんに先輩の家を建てたことを話したら、その人と付き合いのある建築家の方の耳に入ったらしくて、写真を見せてほしいって連絡が来たんです。それで、出来た直後の写真と設計図なんかを送ったら、独学でこれはすごいしセンスもいい、けどちゃんと勉強したらもっと良くなる、自分のところで修行しないか、って言ってもらえて」

 だから勉強してきます、と言う後輩に、明礼は何も言えなかった。スペイン、バルセロナ。そういえばこの子の尊敬する建築家のアントニ・ガウディはその土地で生涯の多くを過ごしたのだった。

「……行ったことあるんだっけ」

「ないです」

「言葉は」

「わかんないんで、本買ってきて勉強中っす」

「……あ、生活費」

「一応最初の方は内尾さん、……あ、その、バイヤーさんの友達の建築家の人なんですけど、その人が面倒見てくれるそうです。後は追々慣れたらやっていけばいい、って言ってました」

「そう……」

 明礼は口をつぐんだ。この後輩は国外に旅立っていくのか、と考える。いつかはあの家を出ていくのだろうと思っていたけれど、そうか、こんな形になるとは。

 心配事は間違いなく多い。バイヤーやその友人が信用に足る人物なのかはわからないし、言葉もわからない後輩が遥か海の向こうで野垂れ死なないという保証もない。それでも。

「……その人達は、君にとっては信頼できる人なんだね」

「はい」

 迷いのない返事に、少し迷って、再び「そう」と呟いた。

 明礼には彼の人生に干渉する権利はない。欲しいとも思わない。だって、恋人でも友人でもない、自分達はあくまでも芸術家と出資者、あるいは鑑賞者でしかなかったから。今までも、きっとこれからも。

 彼の芸術家としての眼差しを愛し、ともに暮らしてきた立場が許せる言葉など、そう多くはなかった。

「よかったね」

 突き放した言い方にならないように注意を払う。はい、と笑う顔が陰らないから、多分大丈夫だ。

 少し胸がきゅうと締まるのを無視して、「がんばって」を今度は声に出してやろうと思った、のだけれど。

「ひとつだけお願いがあります」

 不意に、千川が真面目な声を出した。

「……何」

 明礼も笑みを引っ込めてやる。まっすぐ目を見つめると、愛してやまない真摯な眼差しがそこにあった。わずかに躊躇う気配がする。それから、ゆっくり大きく息を吸うために体が膨らんで、言葉が吐き出される。

「アトリエをそのままにしていてください」

 小さな声だった。背丈からも、吸い込まれた息の量からも考えられないくらい、緊張に縮こまった声だった。先程までの嬉しそうな、未来への期待に満ちた声色とあまりにも違うものだから、思わずまじまじと見てしまう。

「……千川」

 けれど、それで合点がいってしまった。ガチガチに強張った声で、それでも自分にこんなことを言う理由。例えば、今の後輩の顔つきはどこか、母親にちょっとしたわがままを言う時の子供に似ている。もう一人で眠るようになったのに今夜だけは一緒に寝たいと言い出す時のような、おずおずとした、けれども信頼の滲んだ遠慮がちな瞳。

 人が遠くに行けるのは、帰るべき場所があるからだ。

 アトリエをそのままにしていてくれとはつまり、そういうこと。

「……帰ってくるの?」

「はい」

 やはり迷いはないようだった。千川は視線を落とし、両手をぎゅっと組む。

「帰ってくるのは一年後か、もしかしたらもっと遅くなるかもしんないです。部屋は、誰かに貸していい。先輩の家っすから。誰かと暮らしたければそれでもいい。出立の前にちゃんと、引き払います。でも、その、図々しいですけど、アトリエだけはとっといてほしいんです。入らないまま、ほっといてほしい。勝手ですけど、……俺の原点ですから。……先輩に育ててもらった場所、ですから」

 育てる。育てたのだろうか。明礼はぱちくりと瞬きをする。そんな大層なことをしただろうか。黙っている明礼よそに千川は、はにかむように小さく息を漏らして、視線だけこちらに向ける。

「あの家を建てる前に、色々あって自信をなくしていました。あ……今もそんなに、あるわけじゃないけど。でも、先輩が俺に家を建てさせてくれたでしょう。やるって言ってやらせてもらえて、その後も家に置いてもらって……あの家で色々作ってて、先輩が俺の作ってるものを使ってくれてるのを見ました。俺の作ったものを大事に使ってくれてるのを見て、作ってていいんだ、って思えた。先輩が俺の作ったものを褒めてくれるたびに、これにはちゃんと、誰かに大事にしてもらうだけの価値があるんだって思えた」

 先輩のおかげです、と後輩は笑った。泣きそうにも、嬉しそうにも見えるくしゃくしゃの笑みだった。

「……そう」

 ずっと、自分の言葉に自信を持てなかった。名前を誰かに呼ばれるたび、明礼という名前に込められた父親の願いを思い出してはどこか後ろめたい思いをしてきた。名前そのものを嫌ったことはない。ただ、見たもの全てを言葉にするなんて大それたことをしてのけた人物の名を背負うのは、明礼にはだいぶ重かったというだけの話で。

 だから、千川が作品を作り上げるのにかけた時間、技術、精神、試行錯誤、苦悩、その他あらゆるものに対して「私はそれを好意的に受け取った」ということを知らせるのだって、上手くできているとは一度も思わなかった。いつだってもっと丁寧に、上手に示したいと思って過ごしていた。

 けれども、無駄ではなかったのだと言う。この子は、自分が差し出した拙い言葉でもって育てられたのだと、それが嬉しかったのだと言う。万全などではない、完璧だとは決して言えない、作品への言葉や行動の全てが、彼が芸術家として育つための一助になっていたのだと言う!

「……ありがとう」

 どうにか絞り出せたのはやっぱり子供のように拙い言葉だった。ありがとう、と噛み締めるように呟く明礼を見て、千川はけらけら笑う。

「俺がお願いしてるのになんで先輩がお礼言うんすか」

「ん……いろいろ」

 嬉しかった。自分の言葉が、彼が自分とともに過ごした時間が、意味を成していたことが。互いに互いのことを見ているようで見ていなかった、それでも視界には正しく入れていた、この数年間を彼と過ごせたことが。

「……アトリエはそのままにしておくよ」

 明礼は微笑む。何の含みもなく、柔らかく。

「いつでも戻ってきていい。戻ってきたくなった時に戻れるようにしておく」

 新しい場所で、新しい物事を学んで、新しいものをたくさん作るといい。その中で新しい人々と出会って、好きに生きていくといい。その根底にはともに暮らした日々がある。明礼の渡した言葉がある。差し出した作品、創作活動への眼差し、芸術家そのものへの愛が、きっとある。

 それをわかって旅立つ彼がいつか戻ってくるかもしれない場所として、作品作りをし続けた最初の場所の一つとして、あのアトリエを選んで、残していてほしいと願うのなら、明礼はあの場所を維持してやろうと思う。千川という芸術家を愛する、一人の鑑賞者として。

「君の作品が好きだ」

「嬉しいです」

 飾り気のない言葉に顔を見合わせてそっと笑う。先行きは見えないけれど、それは決して暗澹たるものではない。爽やかな一条の光がそこにあった。それを互いに理解しているから、きっと恐れることはない。

 

          ☆


 一週間ほどして、後輩は旅立った。アトリエにはカーテンが引かれ、ご丁寧にも仰々しい南京錠まで付けられている。そのくせ鍵は玄関に置かれているのだから、やっぱり子供っぽいなと思った。試すような見せつけるような、信頼の証。まあ、なくしたら困ると思っただけかもしれないけれど。

 もともと荷物の少なかった後輩の部屋は空っぽになっていた。持ち込んでいた家財道具も売り払ってしまって、旅費と向こうでの製作費にあてることにしたらしい。がらんどうの部屋に誰かが収まるのかはまだ、わからない。

 明礼の部屋からは相変わらず海が見える。リビングで視線を庭へ向ければ、後輩の育てていた野菜の一部に壁面を覆われたアトリエが見える。後で手入れしてやろうかな、と思いつつ、色鮮やかな花々のあしらわれた七宝の時計を見る。スペインとの時差は八時間だから、今頃朝食をとっている頃だろうか。

 バイヤーや例の建築家とは上手くいっている、というメールが来ているから心配はしていない。彼が変わらず芸術家としてあってくれればそれでいい。

 潮風が干した洗濯物をはためかせるのを眺めて目を細める。一人だけど、孤独ではない。

 ここを原点とする一人の芸術家がいる。自分の言葉を大切に思って、喜んでくれた人がいる。それだけのことがただ、嬉しい。

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