御先祖さまは鳥になってやってくる

はに丸

第1話 御先祖さまは鳥になってやってくる ※短編※

 かいはまっすぐな樹木で、それは正しさの顕れのようであった。何重にも塗られた漆で朱色が眩しいほどである。しょは初めて楷で作られた宗廟そうびょうを仰ぎ見た。雲のない青空が我がらん氏の廟を讃えているようでもある。数え六つか七つ。そんな幼い彼にとって、そこは城のようにも祖を守る砦にも見える。

 書はこうで育った。晋の都である。むろん所領の邑を往き来したが、絳の賑わいこそが彼の故郷と言える。祖父であるは晋公の重臣であったし、父のとんもいずれは重きを置かれるであろう。ゆえに、彼らは主に絳に邸を構えていたし、ゆうは代理の臣どもに管理させている。

 しかし、宗廟は絳ではなく旧都の曲沃きょくよくにあった。先々代――書にとってははるか昔だ――に遷都した。しかし、曲沃は今の晋公にとって故郷である。生まれた意味もあり、己らの根幹としても。よくの兄と曲沃に封じられた弟の血筋が争い、分家の曲沃が正当な晋公として成ったのであるから。

 だから、己ら欒氏の宗廟も曲沃にあるのであろう。書は、そう思った。

 しかし、それにしても、廟はとても美しく新しく、遠い年月を感じなかった。

「ここに我らの祖は眠っておられるのですね。祀りを絶やさぬよう、書はがんばります」

 幼いながらもいつかは欒氏を背負う自負心にあふれた書は、必死に祖父に誓いを立てた。祖父の枝は少し翳のある笑みを浮かべて、深い湖から浮き上がるような声音を返す。

「我らの遠い祖は翼におられよう。しかしもはや、そこに我らは通えぬ。私は新たに廟を立てたのだ。私の魂はここに還るだろう。祖もきっと来られていると信じている。書は絶やさぬようにしておくれ」

 枝――欒枝らんしと言ってしまおう、書はもちろん欒書らんしょである――の言葉は、欒書には少し難しかった。ただ、欒書の発祥が現晋公と同じ曲沃ではないのだと思うと、少し寂しい気持ちとなった。

 絳で、激しい諍いがあった。欒書が生まれる前である。それでも欒枝が必死に家を守り晋を守ろうとしていたこと、それをまだ若い父である欒盾らんとんが支えていたことは知っていた。そこまでがんばっていた祖父が、祖は遠いと悲しい目でどこかを見ているのは耐えがたく感じた。

 欒枝は儀式として欒書を祖に引き合わせ、欒書も教えられたように廟の中で祖に己がこれからも欒氏を絶やさず栄えさせると必死に言った。覚えた言葉は時々ひっかかり、子供らしい舌っ足らずが恥ずかしかった。祖父はそんな欒書を叱ることはなく、それどころか

「懐かしい。私もそうであった。お前の父もそうであった」

「父上はひいおじいさまに連れられなかったのですか?」

 祖への儀礼は、父と子ではなく祖父と孫でするのではないか。欒枝は苦い笑みを浮かべた。

「私の父は既に廟に祀られていたのだ」

 欒書は、曾祖父は短命だったのか、病がちだったのかな? とだけ思った。

 儀礼が終わり、曲沃にほど近い欒氏の邑で、二人は骨を休めた。邸に入ると、一気に疲労が襲い、欒書はため息をついた。欒枝は孫の礼に外れた所作を咎めることもなく、逆に抱き上げ、よくやったと褒めた。欒書は家と国を守り、覇者でもある晋公重耳ちょうじに信を置かれた祖父が誇りであり、そんな祖父に褒められたのが嬉しくて、頬ずりをした。祖父の肌は乾いており、少し柔らかく垂れていた。老年に近い男の肌であった。

 邸の奥、主の部屋で、欒枝は欒書と向き合った。板張りの部屋で、二人のための柔らかい敷布が敷かれている。どうも、狐の毛で作られたものであった。贅沢品である。欒書は緊張がほぐれたのもあり、いいかげん眠かったが、何やら真剣な眼差しをする祖父を見ると、姿勢を正さぬわけにはいかなかった。祖父は廟で儀式を行った以上の緊張をもって欒書を見てきている。いまだこどもの脂肪が全く抜けていない、まるっこい欒書の手が知らず己の下衣を握った。

「私たち欒氏の祖は晋侯六代目の靖公せいこうの公子欒が臣の位につかれ、子欒しらんと称し、そこから欒の氏を名乗るようになった。このころの我らの故郷は翼である。その後、三代後に当時の君である穆侯ぼくこうの次が文侯である。文侯は弟君である公子成師せいしをあの曲沃の地へ封じられた。曲沃は豊かな土地、弟君が良からぬことを考えぬよう、我が祖子欒の孫である欒賓らんぴん――つまりは目付に任じられ、曲沃へと向い、その息子欒成らんせいは翼で侯の補として残った。我ら欒家は曲沃の弟君に私心無く仕え、翼の兄君にも私心無く仕えることを父子で誓ったのだ」

 欒書は少し眠くなってくるのを腿をつねりながら必死に聞いた。幼すぎる彼にとって、それは遠いお伽噺のようである。亡んだという翼も、曲沃の祖である成師も伝説の人のように彼は思っていた。

「欒賓は我が祖父であり、欒成は我が父である」

 祖父が、淡々としながらどこか情念の籠もった声で言った。欒書は、お伽噺が急に生々しくなり、ぽかんとした。

「あえておくりなは使わぬ。我が祖父は本家である翼に逆らう手助けを生涯行い、曲沃を富ませた。我が父は今の君公くんこうの祖父、武公ぶこうに逆らい、翼で弱き主を守り死んだ。父と子で戦場にまみえなくても、戦い合ったのだ。それは獣の行いである。私は礼をもって諡を送ったが、書よ。お前は知らぬでも良い。ただ、そのような祖がいたと知ればよい」

 欒書は、それはむごいと――子供なのでわやくちゃな思いが交差していたのであるが、大人の言葉でいえばむごい、である――ぽろぽろと泣き出した。曾祖父は節度を守り戦場で死んだのである。高祖父も元はといえば翼の文侯の命令を最後まで守り、曲沃の主に仕えたのではないか。それを、息子である我が祖父は獣と言う。

「我らが誇らねば、かわいそうです」

 わあわあと泣きながら、欒書は体を崩し、祖父に挑みかかるように突進し、ぽかぽかとその肩を、胸を叩いた。それは晋公からわかれた貴族どころか士大夫したいふにも劣るような、幼稚な所作であったが、仕方が無い。欒書は年の割には頭がよくませていたが、それでも幼児であるのだ。

 欒枝は少し困った笑みを浮かべながら、欒書の頭を撫で、その体を柔らかく抱きしめた。ひぐひぐと泣きながら、欒書はその顔を祖父の衣服にこすりつけた。絹で織られたその美しい服は、子供の涙と鼻水で汚れる。

「そう、我らだけが誇り続けねばならぬ。他の者に、特に公室には知られてはならぬ。我らの本当の祖は翼なのだと思ってもならぬ。ゆえに、ゆめゆめ忘れてはならぬことがあるのだ」

 そっと欒書に耳打ちする欒枝の声は冥い響きがあった。それに少し怖じけながらも、欒書は祖父の言葉を聞き漏らすまいと耳を傾ける。

「君公に刃向かった私の祖父も父も我らのうちのみで誇らねばならぬ。私は武公の『お情け』で古き血筋が絶えるは忍びないと赦された。先の大乱でも多くの族が君公のために絶えた」

 冥い響きが、さらに重い情念を含み、ぐるぐると欒書を巻き込んでいく、くるくると縛り、動けなくしていく。祖父の腕は欒書を抱きしめたままである。こどもが振り払って逃れることもできぬ。

「覚えておきなさい。我ら欒氏は晋に尽くさねばならぬ。しかし、最も恐ろしい的は我が君なのだ、これからもずっと続く、我が君たちなのだ。晋のために公のために二心なく尽くしなさい、そして公を信じるな、欒氏を脅かす者は晋君なのだ」

 常は穏やかで、理知の賢人とも讃えられる祖父の口から出てくるそれは、怨嗟と呪詛に近しいものであった。欒書は、声もなく泣いた。重くて潰される、何かに潰されるのだという怖気と恐怖と、そして子供でもわかる祖への義務で、静かに泣いた。

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