2 今をつかまえる

「嘘つき」

 私の憎しみに答える声はない。

 寒々しい部屋に恨み言は響くばかり。

 先輩が時空震に飛び込んでから15年が過ぎ、私は32歳になった。進路審査で見せられたライフプランに沿って、地方の大学に進学して、飲み会で失敗して、事務職に就職して、人生をすり潰すように生活していた。ひとつだけプラント違うところは、私は結婚しなかった。プラン通りの出会いを丁重に断り、ひとりでこの部屋に帰って来る人生を選んだ。

 必要最低限の生活用品以外の置かれていない部屋はがらんとして、引っ越ししてきたときとほとんど変わらない。1LDKの中央には先輩の幻が浮かび上がっている他は、うら寂しいOLの一人暮らしだ。

 光量を落とした明かりの元、先輩の姿をみながら作り置きの煮物を口に運ぶ。冷え切った里芋を温めることもせず、ビールで流し込む。家に帰ると携帯端末の通知を切り、連絡を一切受け付けない。生活音よりほかに音を立てるものはない。先輩の幻を抱いて眠るような生活だ。

 ほとんど死ぬのを待ちわびているだけの生活だ。

 先輩のことは死んだものと理解することにした。時空震の研究を重ねて先輩を助け出すような気力はなかった。なんせ、あのときなぜ先輩が飛び込んだのかも理解できないでいるのだ。宇宙の時空を切り割くような現象が解明できるとは思えない。

 先輩についてはいくつもの研究機関が調査にやってきたが、数か月もしない内に興味を失くしたかのように引き上げて行った。曰く、何も分からないことがわかった、らしい。先輩の像からは有益な情報は得られず、時間の無駄だと判断したのだろう。

 先輩の姿は私の前に現れる。私が彼女を観測しているからなのか、なにか繋がりがあるのか理由はわからない。今の所、この地上の誰にも分っていない。先輩は私が作り出した妄想なのではないかと何度も考えた。私の頭はすっかりおかしくなっていて、小林雪奈という人物は存在しないのではないか。彼女の今を捉えられない以上、妄想ではないと断言できない。

 いっそ、何もかも妄想だったなら。

 すべてを呑み込んであっさり死ぬことができるのに。

「あなたが私の目の前から消えてくれないせいで」

 私は空になった缶を、彼女に向かって投げ捨てる。缶は放物線を途中で諦めて、つまづいたように脇に逸れて転がって行った。

 先輩に視線を向けると、いつの間にか子供の姿に戻っていた。私が見たことのない、出会う前の小学生時分の背格好。活発的な印象はそのままに、どこか寂し気な瞳が目を引く少女。

 先輩の像はよく変化する。静止した姿であることは変らないが、目を離したすきにポーズや年齢が変化するのだ。研究者曰く、彼女の時間の流れが違うせいだという。先輩の時間は速度や向きが自由気ままに変化する。一定の時間で動いていないから、私たちの認識するα軸上に存在することができないのだそう。私の見る限り、0歳~80代まで自在に移り変わっている。その中でも、高校生であったときの格好で現れることが最も多いように思われる。観測する私の視線や意識が、幻に影響を与えているのかもしれないと言われた。

 私は携帯のカメラロールに収められた先輩のアルバムに新しい姿を追加する。

 毎日先輩の姿を記録すること。唯一趣味や日課といえるもの。この15年、1日たりとも欠かしたことはない。フォルダには様々な姿の先輩が並んでいる。どれだけたくさん並べて束にしても触れることはできないというのに。

 1枚1枚指先でフリックして、先輩の姿をめくっていく。

 先輩はβ時間軸のなかでも元気に過ごしているようで、手足をいっぱいに広げた躍動的な姿が目立つ。大口を開けていたり、すぼめていたりして、なにかしら喋っているようだ。どんなに先輩が喋っても、こっちの私には聞こえないというのに。

 向こうにひとり渡って、孤独に苦しんでいないというのが唯一の救いだろうか。能天気な彼女のなせる業だ。きっと向こうには先輩の好奇心を満たしてくれるものが沢山あるのだろう。

 ふいに涙がこみ上げた。

 最近よくこうなる。勝手に感情が溢れて、言葉にできない高ぶりが涙となって零れ落ちる。いっぱいいっぱいなのだ。私の体はもう、ずっと苦しみが溢れんばかりに満ちている。

「ねぇ、先輩。苦しいよ、もうずっと苦しい」

 先輩がいなくなった瞬間に私の現在は消え去った。先輩が手を離した瞬間に私は今を見失った。この地上のどこにもない、私の頭の片隅にしか残っていない先輩との思い出にすがって生きるしかない。過去は消え去った時間の残り香に過ぎない。いずれ薄れてなくなってしまう。

 さっさと死んでしまいたい。新しく開けた缶から、溺れてしまうようにアルコールを流し込む。

 先輩の画像をスクロールする。ビールを飲む。毎日それだけを繰り返している。

 先輩が画面の向こうで笑っている。こちらの幻も何かを訴えて口を開けている。

 ふと、ふたつの像を見比べた時、不思議とポーズが似ていることに気が付いた。見えている角度や位置関係が違うせいで分かりにくいが、先輩の口の形は類似している。一度気付くと、他にも次々と見つかるもので、アルバムの中にも幻の先輩と共通する特徴のポーズをした先輩が見つかった。それだけではない。どうやら私が撮影した先輩の姿は、分類不明なものを除いて6種類に分類できることがわかった。

 口の形と体のポーズ。どうやらそれらは何かしらのメッセージを伝えているようにみえる。

「誰に対して?」

 私に向けたものだ。口に出して確信した。そうであって欲しいと願った。

 何度も画像を見比べる。自分の言葉を発した時の口の形を参考にして解読を試みる。

 母音での判読は早かったが、内1種類が読み解きにくいもので、意味の通る並び替えを終えるまでに一晩かかった。

『ず・っ・と・い・っ・し・ょ』

 青白い朝陽が部屋を満たし始め、私はようやく彼女のメッセージに辿り着いた。

「先輩は私のことがわかるんですか……私のことが見えているんですか?」

 私からは常に先輩のことが見えていた。先輩はいつでも私の前に現れた。ふれることはできない。喋っている言葉は通じない。それでも、彼女は必ず私と一緒にいてくれた。

 時空震。私はこの言葉に騙されていたのかもしれない。

「先輩は……もしかして、私と同じ空間に存在しているんですか?」

 私たちは勘違いしていた。彼女の存在は並行世界のような、まったく異なる時間と場所に存在して、その影だけがこちら側に投影されているのだと考えていた。しかし、実際には彼女は私と同じ世界の上に立っていて、時間の流れだけが異なる状態なのではないか。時空震ではなく、正しくは時間震ではないか?

 足元に転がっていた缶が爪先にあたる。

 これを放り投げたときのことが頭に過る。酔って見間違えたかと思ったが、妙な軌道で逸れたことを思い出す。あの時確かに、先輩の像に当たっていた。いつもはすり抜けるだけの像に、缶当たった。

「そこにいるんですか……先輩? ずっと、いっしょに居てくれたんですか?」

 現在進行形のing、いっしょにいてユイの今をつかまえ続ける。

 ソファから立ち上がって、先輩に近づく。

 私の今はどこにも消えていない。先輩がずっと私と一緒に居てくれたから。

 どうして先輩の像は私の前に現れるのか。

 答えがわかった。先輩が私について回って、どんなに時間の流れが異なろうとも、約束を守り続けていてくれたからだ。

 決して触れられないとおもっていた。しかしそれば、先輩の実体が観測通りの像とは異なるからだ。目に見える像は文字通りの残像だったのだ。

 残像が残るということは、先輩はこの世界上に、空間に居続けていることを示しているのではないか?

 私が先輩を求めて手を伸ばし続ける限り、いつか、彼女の手を再び掴むことができるのではないか?

 先輩はその瞬間を待っているのではないか?

 彼女は約束を守ってくれた。守り続けていてくれた。気付かなかったのは私の方だ。信じようとしなかったのは、裏切っていたのは私の方だ。

 私は手を伸ばす。そこに居てくれる、私の今をつかまえ続けてくれた彼女を求めて。

 今度は私の番。私が彼女をつかまえて、時間の流れから引き上げるのだ。

 先輩の残像に手を差し入れる。彼女の掌の位置にゆっくりと手を伸ばす。以前は何も感じることが出来なかったその場所には、つい先ほどまで誰かが存在したような温もりが居残っていた。気配がある。先輩の存在は確かに、ここにある。

 私の右手を、幻じゃない、五感を刺激する温もりが包み込んだ。

「ただいま」

 耳朶を優しく揺さぶる声が聞こえる。

 今度こそ、私はこの温もりを手放さない。

 いま、存在する彼女をつかまえ続けているために。

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時間の狭間でつかまえて 志村麦穂 @baku-shimura

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