五代十国
重ねた杯――南漢後主、謹言す
西暦 971 年。
南漢の末帝たる劉鋹は宋都の
新たな諸侯を歓待すべく、趙匡胤が歓待の宴にて劉鋹に酒盃を示す。すると劉鋹は涙ながらに語った。
「臣は祖父の打ち立てた業を継承し、中原の王たちに逆らい、ついには陛下の軍を煩わせました。その罪が死に値することは承知しております。にもかかわらず陛下は臣を殺さずにお置きくださり、かくて太平の世をもたらした偉大なお家に民として仕えるを赦されております。ならば一日でも永く生き、陛下より賜ったご恩をお返ししたく思うのです。ならば、この盃は受け取れせぬ」
盃に毒が入っており、その毒にて自身を殺そうとしているのだ、と思い込んでの発言である。そのあまりに悲壮なもの言いに、思わず趙匡胤は笑ってしまった。
「待て待て、わしにどんな腹芸を求めとるのだ!」
言うなり、趙匡胤は劉鋹にもたらされた盃を自らのもとに持ち寄らせ、飲み干した。その上で、別の盃を劉鋹に与える。大いなる
○
窓から差し込む月明かりはやや心細く、どうしてもろうそくの光に頼らざるを得ない。劉鋹は手にした本のページをはぐり、幾度となく接してきた言葉に、改めて心を委ねようとした。
「劉どの! 劉どのはおるか!」
その
宋祖、趙匡胤。そのずば抜けた武幹と、あまりにあけっぴろげな懐を活かし、後世に
ひとくちに言えば、圧が強い。
「あっ……」
劉鋹が対応しようとわずかな声を上げれば、もう遅い。鍵がかかっていたはずの扉がぼがんと開け放たれ、その向こうで、とてつもない恵体が影をなす。
山が、揺らぐ。
「おぉ、劉どの!」
割れ鐘、と称するべきであろう。部屋の入口からひとふたり分はゆうに離れた劉鋹の耳を、その声は大いに揺らす。さりとて相手は天下の主である、粗相があってはいけない――慌てて向き直り、椅子よりおりて膝をつき、
の、だが。
床の代わりに目に入ったのは、そのぶ厚い手のひらである。まともに足音も聞こえなかったというのに、いつの間に。
「いやっ、いかん、劉どの! それはいかんぞ!」
まるで逆らえる気もせぬ力によって、劉鋹の身体が起こされた。
間近に迫る趙匡胤は心配するような、不機嫌なような面持ちである。
「勘弁してもらえんか! おおやけの場ならばともかく、ただ会いに来ただけでかしづかれては堅苦しくてかなわん!」
「し、しかし、陛下は陛下です」
「あん?」
戸惑う劉鋹を改めて見据えると、趙匡胤はしばし止まり、ややあって自らの衣服を見下ろした。
その身にまとうは、
それを、いきなり脱ぎ散らかす。
「わかった、この衣がいかんのだな! よし脱いだぞ、これでわしは皇帝陛下でなぞなく、ただの趙匡胤だ! 劉どのと同じいち
どうだ、とばかりの表情を浮かべられてしまえば、劉鋹としてももはや苦笑するよりほかない。ならば、と
「先ごろの宴ではみっともなき姿を見せてしまいました、改めて趙匡胤様の度量に感服仕った次第にございます」
「なに、気にするな――と、言いたいところだが」
趙匡胤が劉鋹の目前にてあぐらをかく。
襟元をまさぐれば、出てきたのは水筒と、盃がふたつ。ひとつを床に置き、もうひとつを劉鋹に差し出す。見れば、空いたはずの手には、すでに水筒がある。
意図を探る、までもない。趙匡胤の前で正座し、受け取れば、たちまちに盃が満たされる。軽く掲げたのち、劉鋹は一息のもとに飲み干した。
宴の酒はなんら味がしなかったが、この一杯は、劉鋹の鼻腔を
「毒が入っとるかもしれんぞ」
「ならば、それまでにございましょう」
趙匡胤より水筒を奪い、注ぎ口を向けてみれば、にやりと笑い、盃を伸ばしてきた。同じ大きさのはずだが、幼子らの遊具なのではないか、とつい錯覚せずにおれない。
かぱ、と乾し、ひと息。
「悪くないな、劉どの。思いつめておられるのではないか、懸念していたのだが」
「あの場にて、漢主劉鋹は身まかりましたゆえ。他ならぬ宋主に
「なるほど? ならば、すぐに本題に入っても構わなさそうだな」
盃を脇に置くと、ぐい、と趙匡胤が迫りくる。
「劉どのに会いに来たのはな、ほかでもない。宴でのことを聞きたかったのだ。周りの奴らは、劉どのが恥じ入っていた、と笑っていたが、どうにもわしには引っかかってな」
その顔が、思いもかけず
劉鋹の中の驚き、戸惑いが、すう、と引いていくのを感じる。代わりに現れたのは、これが帝王の度量か、という、奇妙な納得であった。
やや丸まっていた背筋を、ぴんと伸ばす。
「恥じ入る、もまた確かなこと。お歴々のお言葉、決して間違ってはおりませぬ」
趙匡胤が、まなざしでうなずく。
「なれどあえて踏み込めば、そこにふたつの思いを見出すことが叶いました。安堵と、転回です」
言い切るだけで、喉が乾ききったのがわかった。
ちらりと盃に目をやれば、もう水筒が差し出されている。
敵わぬな、と思う。素直に盃を取り、改めての一杯にて口内を
いちど袖を払い、姿勢を正し。改めて、この偉大な男に微笑みかける。
「しからば、趙匡胤様。しがなき匹夫の来し方と、過ちに、しばしお付き合い願えますでしょうか?」
◯
先の宴にて、
我が不明の甚だしきに愕然としたものでございます。自らが殺し合いの中から逃れられねば気付けぬとは。
「ひとは思った以上に、自らを正しく見ることなぞ叶わぬよ。むしろ、自らの想いに気づくことができたことを誇るがよかろう」
もったいなきお言葉にございます。
我が生まれ落ちたる国、
「
祖父の
南越の不幸は、劉隠様のあまりに早き死、そして後継者たちが十全に育っておらなんだことにある、と感じております。そのいずれかでも叶っておれば、祖父が王座になぞつくこともございませんでしたでしょうに。ましてや、漢などと言った
「劉氏の王であれば漢の名に憧れるものではないのかね?
なるほど、おっしゃる通りにございましょう。なれど、そのお言葉にふさわしきは中原にて漢を名乗りおおせた
「ずいぶんと手厳しいな。だが劉どの、気のせいかな? 先程より、祖父御を切り刻むていを取り、劉どの自身を切り刻んでおるよう、わしには映るのだが」
――これはまた、面目なき限りにございます。
仰せのとおり、まこと切り刻まれて然るべきはこの身、この愚昧。祖父や父がいかに無道であったとて、この手に
祖父がはじめ後継に選んだは、伯父の
私は父、そのひとではござりませぬ。なれど漢主として僭立した、この一点のみにおいては、だれよりも父の心情を知りうるのでしょう。
その上で申し上げれば、逐鹿なぞ到底及ばぬ身空で漢主の肩書を押し付けられることに、喜びのあろうはずがありませぬ。身に余るにもほどがある尊号を匹夫が受け継ぎ、しかも世情は肩書に見合った功績を求めるのです。父を擁護することが許されるはずもございませぬが、その末年、私にもたらしたる遺令をひとつ拾わば、その心の内の断片なりは拾えよう、と思われてなりませぬ。
その言葉にいわく、群臣にみな
祖父が、父が、多くの兄弟や功臣を殺め、その穴を宦官、すなわち係累持てぬもので埋めてゆく。一代限りの臣下ならば
ひとたび、引かれた轍です。
踏み外さば、待ち受けるは、死。
この心に
「悪夢、か。まあ、わからんでもない。わしらの
まこと趙匡胤様におかれましては、
「いやはや、泰然になぞなれんさ。わしはただ、考えすぎぬようにしたに過ぎん。この身に降りかかる罪なぞ、いちど数え始めたら切りがない。わしが考えたのは、いかにいまを生き抜くか。それだけでしかない。ならば劉どの、わしらに求められるべきは、いかなる来しき方であったか、を踏まえ、いかにして民を導きうるか、ではないかね?」
――!
◯
覚えず、
寸刻、と区切るまでもない。叶うことならば自身の啓発に気づいてほしくもなかったが、
やや前のめりであったはずの趙匡胤が、知らぬ間にぴんと背筋を伸ばしていた。傍らに脱ぎ散らかしていたはずの
「
劉鋹の
「あえて、こう言い切ろう。わしも、将軍も、ただの人殺しよ。この乱世に生きようともがき、泳ぎ抜くために、ひとを蹴落としたのだ。わしや、わしを引き立ててくださった
盃を手にし、手ずから酒を注ぎ、かぱり、と乾す。そして趙匡胤が、ふ、と笑う。
「実のところな、劉どの。伝え聞く
劉鋹の脳裏に、ひとりの顔が浮かぶ。
「いにしえの
盃を置くと、趙匡胤はあぐらこそ組んだままであったが、その目の色を鋭きものとする。
「名目で語っても詮無かろう。貴様は大罪人である。その罪は貴様一代に収まるものですらない。ならばその
言葉こそ激烈ではあったが、すとん、と胸に落ちてくる。
抗弁はしない。ただ、
重ねて、趙匡胤の言葉が降り注ぐ。
「今後様々な祭祀に、旧国の主として恩赦侯を引きずり出して回ることとなろう。それは我が宋の度量を内外に示すがためのお飾りでしかなく、貴様には何の報いもない。ときに直接の嘲り、詰りをも身に受けよう。あるいは、そこに何ひとつの慰めすらあるまい。なれど、これだけは忘れずにいてほしいのだ」
床に額づいたままであっても、す、と山が近付いたのがわかる。
その大きな手が、劉鋹の肩に乗る。
「
「――は」
その器に到底収まるはずもなき、過大にもほどがある国号を名乗り、あたら万余もの民を殺し尽くしたもと南漢の後主は、以降臆面もなく、道化としてその醜態を晒し続けねばならぬ。生き恥を垂れ流し、後ろ指さされ、時に陰口を受け。それらを、ただ笑い、反論もすることなく、なにひとつの痛痒も覚えぬまま、受け止める。
かくなる愚物に、涙はいらぬ。
なので、いま。
ここで、流し尽くす。
どれほどの時間、嗚咽を続けたことだろう。
やがて趙匡胤が、深く息をついた。
「それにつけても、劉どの」
努めて、その声は明るい。
「皇帝なんぞという、いちいちしゃっちょこばり、堅苦しくてかなわん肩書だがな。ひとつだけ気に入っとるところがある。天下万民の父、と臆面もなく言い切れることよ」
ぐい、と肩をつかまれ、強引に引き起こされてしまう。
目の前の山が浮かべるは、まばゆきまでの、笑顔。
「つまり劉どのも、わしのことを父と思ってくれて良いのだぞ」
思い切り泣き腫らした顔を見られた、そうした羞恥をも吹き飛ばす、そのひとこと。
しばしの間なにを言われたのかを把握しきずにいたのだが、言葉を吟味し、ようやく、掛けられた言葉の意味に追いついた。
思わず、噴き出す。
「――陛下。ご冗談は、その体躯のみになさいませ」
◯
宋史を紐解けば、劉鋹の名はしばしば宴席に現れ、その巧みな諧謔にて人々を笑わせた、と記されている。
976 年、趙匡胤が急死。
劉鋹自身は、西暦 980 年に死亡した。
劉鋹の手慰みで作成された彫像は精緻の極みであったという。その彫像の献上を受けた趙匡胤は「こうした手腕を政に生かし切ることができておれば、かの国が滅ぶこともなかったであろうにな」と語ったそうである。
■
頂戴したコメントと返信
田所米子 様
2023年5月11日 12:24
波間さんが書く男たちは勝者も敗者もかっこいい。そして、語りに深みと余韻があって、痺れます。大好きです(((o(*゚∀゚*)o)))
田所米子さま
いつもありがとうございます! いくらでも醜いものが転がるのが現実ですし、物語の中では、少しでも気高くあってほしいと思えてなりません。
波間式中国史小噺集 ヘツポツ斎 @s8ooo
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