1.1.3

 自分の悲鳴を予期した。したが、何もなかった。野明が思うよりも野明の意識と身体は、優れていた。彼女の意識の喪失は、認識能力の低下によって回避された。彼女は血液の粘性も、温度も、何も感じなかった。何も感じなくなっていた。頭部の、顎より上の一切が弾けて飛んだ友人の、力なく垂れ下がる舌にも、もう、何も思わなかった。

 しゃがみ込んで、野明は友人の舌の味蕾を見ていた。桃色の肉の、微小の凹凸が彼女に野明と食べている時のお弁当の、おかずの味を喚起し、微小の微笑を顔に作り出し、野明に「のんも食べる?」と口を開かせていたはずだった。野明は自分が「のん」という愛称で呼ばれていたことを思い出した。

「『のん』、それ以外に思い出せたことは?」

 見上げた男の顔には再びチェシャ猫の笑みが貼りついている。野明は彼を喜ばせてはならないと思うが、既に彼女は表情を操作するだけの気力がない。さらに男が笑みを濃くする。彼女は彼が彼女の心を見透かして喜んでいるということを見透かした。そしてついに怒りが訪れた。

「殺して」

 立ち上がって、男との距離を詰め、彼の手にある拳銃の銃口へ自分の胸を押し当てた。制服の接触部分が燃焼し、彼女は痛みを感じる。しかしもう、痛みは、現実と夢を区別する指針にはならないとわかっていた。そんなものはどうでもよかった。

「殺して。はやく。はやくして」

。君は君自身をおかしいと思わないのかね? この状況で、そんなにも冷静であることのできる君自身のことを」

 男の問いかけを、野明は聞き取れなかった。それより先に聞いた「LEVIATHAN SERIES」という音の連なりが魔術のように彼女へと作用した。心臓が跳ね、胃が収縮し、腋の下の冷たさに震えた。

「リヴァイアサン――?」

「リヴァイアサン、終末を告げし獣、神を除いた地上での最強者、万人の万人に対する闘争の調停者、つまり、君。君はの、存在してはならない十三番目の一柱『』だ。リヴァイアサン・シリーズを手に入れること、それが私の仕事なのさ、

 目の焦点が合わなくなり、耳から音が遠ざかっていく。呼吸が深くなり、野明――ノアは過剰な酸素に吐き気を覚える。

「君は必要ない。君は存在してはならないのだから。しかし君の記憶は、必要だ。他の十二柱は何処にいる? それを君は記憶しているはずだ。私が全てを手に入れるためには、まずはその知識が必要なのだよ」

「全て?」

 彼でもなく、彼女でもない声が尋ねた。

 水晶のように透き通った声だった。

 少年とも少女ともとれる、中性的な声だった。

 それは、あらゆる疲労、あらゆる苦痛を取り除く福音のように、ノアには聞こえた。

 そして男とノアとが初めて、同時に、同じ行動を取った。彼と彼女は初めて、共通の利害を得た。彼でもなく、彼女でもない者が、この電車の、あるいはこの光の海に沈んだ世界のどこかにいる。彼女たちは顔を左右に振って、車内を見渡した。

「じゃあ、この銃弾も欲しいってことかな?」

 窓を一枚を隔てた場所、駅のプラットホームがあったはずの場所、今は光の海に沈んだその場所に、少年の上半身が見えた。彼の腕は前に伸びていて、革手袋に包まれた細長い指が巨大な拳銃の引き金に添えられていた。

「デザートイーグル!」

 男が少年を見て、叫んだ。デザートイーグル。変わった名前の男の子。いや、もしかすると女の子ということもありえる――。彼女がそう考えるための脳の神経細胞の発火現象の間に、少年の指が引き金を引き、火薬が打たれて発火し、銃弾が火に打たれて発射され、男の額から後頭部にかけて貫通銃創ができたと同時、火山の噴火のように男の頭部が爆裂した。人の頭部を爆裂させた者は自分の頭部が爆裂することも覚悟しているべきだとノアは思った。それから自分が何故こんなにも冷静なのか知りたいと思った。

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バースト・アフター・バースト 他律神経 @taritsushinkei

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