1.1.2

「なに、これ――」

 野明の乗っている電車が光の海に取り残されたようにして、彼女自身もまた、世界に取り残されていた。彼女は意識とそれが観察するもののどちらを疑うべきか。いや、もう、そんな問いに何か意味があるとは思えなかった。これは夢だ。夢に違いない。

「では、現実とは何かね?」

 彼女はこの世界に唯一存在する人間である目の前の男に、半ば馴致されていた。頬をつねりながら、か細い声で答えた。

「痛み……」

「現実とは痛み! 慧眼だね! 『感性的であるということは、受苦的であるということ』だ!」

 言って、男が野明の腕を掴む。状況を把握する努力に疲れ果てた彼女は一体の人形だ。彼は彼女を立たせる。そしてもう片方の手を大きく振りかぶり、平手で彼女の頬を打った。

「現実とは痛み!」

 口の中に膨らんだ、血の味。腕を離され、床に倒れ込む。

「しかし、それはただの純粋に生理学的な信号に過ぎない。君が見ていること、聞いていること、感じている痛み、臭い、いずれも脳の中で生起する信号に過ぎない。とはいえ――」

 下腹部に圧迫感。男の革靴が彼女のスカートで靴底を拭いた後で、下腹部を踏みつけていた。

「私は君と現実の定義について議論をするつもりはない。現実など、どうでもいい。重要なのは君の夢だ。君の夢の内容を教えなさい」

「神様じゃ、なかったの?」

 現実とは痛みなのか、それは野明にはわからなかったが、この男が神様ではないことだけは確かだった。神様なら、野明が内容を覚えていない夢の内容も理解しているはずだ。

「何という精神力だ。認めるよ。私は、まだ、神様じゃあ、ない。君の夢の内容を知ることで、完全な神になることができるのだよ」

 彼の足が軽くなる。それを退かそうとする野明の努力の勝利ではなく、彼の意志の勝利だった。実際、見上げた先にある彼の顔には再び、頬が裂けているように見えるほどの、あの人工的で演技的な満面の笑みが貼り付いていた。

「質問を変えようか。君の名前は?」

「野宮野明……」

「ご両親の名前は?」

「野宮――」

 下の名前が出てこない。彼女は口を固く閉じ、口内の血液を喉の奥へと移動させる。下の名前が出てこない。いや、それよりも――。

「今、君は君の名字からご両親の名前を推測したね?」

「……何が言いたいの」深まっていく彼の笑みへの、僅かの抵抗。

「君の家は何処にある? 君の学校は? 今日は何月何日だね? 朝食は? 昨日の夕食は? この電車に乗るために、何処を歩いてきた?」

 窓の外から車内へと差し込んでいた白い光の全てが消えた。野明の心象を表象するようにして、それは紅と交代した。

「わたし――」

「答えられるはずがないのだよ。そんなものは存在しないのだから。君がこの電車に乗るのは、これで――君の主観世界でちょうど七千三百回目になる。君はこの電車が飯能駅に到着すると同時に記憶を失い、再び池袋駅でこの電車に乗ることを繰り返しているのさ。しかし、それも今回で終わりだ。おめでとう。夢の内容を話しなさい。彼らは何処にいる?」

 野明は立ち上がろうとするが、胃の痙攣が全身の微細動になり、座席に手をつき、床に膝をつく。現実とは痛み。だが、もう、鉄の味も、頬の皮膚の熱さも、彼女の混乱を鎮めることはない。むしろ拍車をかける。ついに胃の中身を吐き出す。吐瀉物の臭いに鼻を刺激されながら、友人と食べた食事の残骸を探す。友人との時間の証明のために。

「そんな方法より、ずっと良い方法がある」

 憐憫の情を感じさせるほどに穏やかな声で男が言った。見ると、男の横に少女が立っていた。野明の友人だった。目を閉じて、立ったまま寝ているかのような表情をしている。人が突然に消える瞬間を見た彼女は、人が突然に現れる瞬間にも、もう、感情を乱されなかった。だが男が背広の内側から拳銃を取り出して、友人の頭に突きつけたとなれば、話は違った。彼女は男の腕にしがみついて、銃口を窓の外へと向けさせた。

「やめて!」

「ふむ……。君のバイタルサインの変化が確認できた。君は乗車プログラムとは別に、同年代の友人との食事プログラムも繰り返し体験済みのようだ。それでは、これから五つ数えるから、夢の内容を話しなさい。彼らは何処にいる?」

 五。

「何を言っているのかわからない」

 四。

「お願い。やめて」

 三。

「起きると忘れている」

 二。

「何も覚えていない」

 一。

「『忘却は、罪である』。君のお友達は死ぬことになる」

 造作もなく野明を振りほどいた男は、野明の友人の頭に銃口を押し当てながら引き金を引いた。爆裂した頭部の欠片が窓一面に貼り付いた。そしてすぐに、重力が血液の滝を天井から落とした。野明は真っ赤な洗礼を受けた。

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