バースト・アフター・バースト

他律神経

1 厭離穢土

1.1.1 夢の中の火は夢の中で消せ


ヴォーシェフはひからびた一枚の葉を手にとり、袋のなかの秘密の場所にそれを押し込んだ。そこは彼が不幸と無名のあらゆる品々をしまっておく場所だった。「おまえは人生の意味をもっていなかったんだ」、かすかな同情をこめてヴォーシェフは思った。「ここで横になれ。おまえが何のために生きて、死んだかは、このぼくが代わりに知ってやろう。おまえはだれにも無用となり、世界のどまんなかに倒れたのだから、これからはぼくがおまえを守り、覚えていてやろう」


――アンドレイ・プラトーノフ『土台穴』(亀山郁夫訳、国書刊行会)



 夕方、帰宅途中の通勤者、通学者が駅のホームに充満していた。電車が止まり、ドアが開くと、人波が車内へと雪崩込む。郊外の自宅へ戻るための、長い乗車時間を座って過ごすためのゼロサムゲーム。座席の数は常に人間の数よりも少ない。どんなに疲れ果てていても、立ったまま眠らなくてはならない者が、常に、いる。

 野宮野明ののみやのあは七人がけの座席中央、乗降口から最も遠い場所に座る場所を確保した。彼女は飯能から豊島区の私立中学校に電車で通学していた。今は下校中。彼女は東京にはあまりにも座れる場所が少ないことを理解はしていたが、今日だけはどうしても座って帰りたかった。最近、よく眠れていなかった。

 連日の悪夢が彼女の夜を脅かし、ついにその影響は朝と昼にまで顔を出した。長時間の睡眠を取ることができなくなった。中途覚醒を繰り返してしまう。授業中に居眠りしてしまうことが増えた。食事中にすら。両親も、先生も、友人も、みんな彼女を心配してくれていた。そのことが、ますます重荷になってきている。

 眠らなくてはならないという意識が、夢に恐怖して眠れない彼女を責め立て、さらにベッドに入るのが苦痛になるという悪循環。完全な、神経症の兆候。そろそろ、病院に行くことを勧められることになる。

 夢の内容は何一つ覚えていなかった。ただ夢の中にいる間、酷い苦しみと悲しみを味わったことだけはいつも、正確に覚えていた。あるいは、正確に思い出す。真っ暗な部屋、自分の叫び声で目を覚まし、寝汗で震え、猛烈な動悸に襲われた後で。

 電車の中で叫ぶことを避けるため、彼女は通学鞄から巨大なヘッドホンと文庫本を取り出した。大音量で音楽を聴き、文字を読む。眠気を追い払う。

 野明は彼女が自覚するよりもずっと、疲れていたらしい。彼女は文庫本を床に落としてしまう。本が彼女のローファー革靴の間を滑り、前に立っている男の爪先に当たった。

 彼は彼女より先に本を手に取った。グレーのフランネルスーツの袖口にゴールドの腕時計が見える。タグホイヤーだ。友人の彼氏が自慢していたのを見たことがある。ネクタイの色は光沢のあるグリーン。

「『本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機能――あらゆるキ―ノ―ウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね』」

 男が野明へと本を差し出しながら、言った。彼女は彼の言葉が、彼女の読んでいる本からの引用であることを理解した。彼女は、すみません、ありがとうございます、という言葉の後に「この本、お読みになったことが?」と続けるべきか否か悩みながら、男の顔を見た。

 もう、すみませんとすら、言うことができなくなっていた。代わりに、彼女は「ひっ」とだけ言った。

 野明を見下ろす男の両頬は耳元まで裂けていた。人間にしてはあまりにも巨大な口の口角は鋭く上がり、彼の顔面に満面の笑みの仮面を貼り付けている。剥き出しになった歯茎の赤と、耳元にまでびっしりと生え揃った歯の白のコントラストに彼女は目眩を覚えた。彼女はふいに、『不思議の国のアリス』の挿絵で見たチェシャ猫を思い出した。僅かの冷静さを取り戻す。人の容姿で息を呑むのはあまりにも失礼だ。世の中には色々な人がいる。驚いたことを隠す効果を期待して、彼女はもう一度、男の顔を見た。頬は裂けていなかった。あったのは、爛々と輝く瞳が少しばかり印象的な、ただの中年の男の顔。父の読んでいる経済誌の特集ページで、腕を組んだ写真でも掲載されていそうな顔。

「すみません、ありがとうございます」

 辛うじて、野明は言った。

「礼には及ばないよ。私は私の仕事をしているだけなのだからね」

 彼女はまだ男の手にある本の片端を掴み、引き寄せようとした。けれども彼は抵抗した。二人は二人で一冊の本を掴んでいる状態になった。

 なにこれ? ナンパ? おじさんのナンパ?

 スマートフォンを取り出し、レコーダーのアプリケーションを素早く開き、録音を開始。それから、ワンタップで緊急通報できるようにセット。

「『仕事』ですか。大変ですね」

「大したことはない。私は神なんだ」

「本を返してください」

 スーツを着たおじさんの神様なんて、最悪だ。

「構わないよ。しかし必要なのかね? こんなものが?」

 奪い返した本は表紙も裏表紙も中身も、何もかもが真っ白になっていた。既に新しいナンパの方式への嫌悪感は消え失せた。ただ、いよいよおかしくなってきた自分の意識に対して、野明は恐怖を感じた。もしかすると、この男も幻覚ということがありえる。

 野明はようやく、周囲の乗客の反応を確認することにした。そこに独り言を呟く女子中学生への嘲笑と女子中学生に米国文学を使ってナンパする中年男性への侮蔑のどちらがあるか。

「言ったはずだよ。私は神なのだと」

 車内の誰も、二人のことを見ていなかった。見ることなど、できはしない。乗客は、彼女の前に立つ男以外、最初から存在しなかったかのように、消え失せていたのだから。両隣の車両も同様だった。それどころか、電車の窓の外、ホームにさえ、もう、誰もいない。

「『神は「光あれ」と言われた。すると光があった』」

 誰もいなくなったホームで千の太陽が炸裂した。光の奔流が生まれ、池袋駅を飲み込み、粒子にまで分解した。その力は駅舎を塵に変えただけでは胃袋を満たすことができず、さらに駅の外へと拡がった。そしてついに、野明は光の海の先にある水平線を見た。

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