叫んで五月雨、金の雨。
和田島イサキ
ヘボ将棋、王より人を可愛がり
さみちゃんの膀胱が決壊した。
やだーッ、と大声で叫びながら、足元に金色の雨を降らせる。それで決まりだ。その瞬間、彼女は終わったと誰もが思った。そんなはずはなく、むしろそこからが伝説の始まりなのだと、冷静に考えればわかったはずなのに。
誰ひとり、決して冷静ではいられなかった。さみちゃんの真っ赤な顔と、それでも席を立とうとしない姿勢、なによりその足元から立ち上る湯気に、僕たちはひとり残らず呑まれていた。
——さみちゃん、という呼び名の印象の通り、彼女がまだ幼い女の子とかならよかった。
それならおもらしくらいはまああることで、でも現実は残酷だ。パリッとしたスーツのよく似合う、二十代半ばくらいと思しき大人の女性。ちなみに、美人だ。細いメタルフレームの眼鏡がよく似合っていて、ぱっと見知的というかどこか冷淡なようにすら見えるのに、でも話すと一気に柔和な印象に変わるところが素敵だと思った。
「さみちゃん、と呼ばれています」
それが彼女の第一声——でもないけど僕からすればそうで、つまり「誰?」という問いへの答えだ。落ち着いた調子の、でもどことなくフワッとした綺麗な声で、でもそれはそれとして普通に「いや、それは知ってます」と思った。
なにしろこのサロンに彼女が姿を現すなり、常連のおじさんや爺さんたちがこぞって、
「おや、さみちゃんかい? 久しぶりだねえ」
「いやーさみちゃん、すっかり大きくなって」
とかワイワイ色めき立って、なるほどいわゆる〝爺サーの姫〟っぽいのはわかったけどでもいま受付を任されているのは僕だ。
ここを使うには会員になってもらうか、でなくとも利用者票を記入してもらう必要がある。うちはそういうルールになっていて、そのための「どちらさま?」にでも真顔で「さみちゃんと呼ばれてて」とか言い出す、この人はとてもいい人なんだろうなと思った。歳も近い。僕がいま十六歳の高校生で、だからたぶん十歳も離れていない——と書くとそれはそれで結構な歳の差のようだけれど、でもこの場においては同じ「希少な若者」枠だ。
このサロンの客層、時間帯によっては小学生も多少いるけど、でも基本的にはお年寄りが多い。そんなものだと思う。よそを知らない以上はなんとも言えないけど、でも一般的に、将棋サロンっていうのは。
「よかった。ちゃんと将棋サロンだったんですね。まだ」
その言葉でようやく理解する。道理で微妙に不安げというか、おどおど自信なさげな様子だったわけだ。僕は受付の中から、サロン内のおじさんたちを叱りつけ——るほどの権限はないけど(僕はおじいちゃんの手伝いで店番してるだけだ)、でも無言の抗議として目配せする。揃いも揃って将棋の一局も指さず、ずっと麻雀ばっかり打っているから。
「あぁ、さみちゃん、来てくれたんか。
受付の奥、つまり僕の後ろからそう顔を出したのは、このサロンの主たるうちのおじいちゃん。このところ腰の調子が悪くて僕に受付を任せるほどだったのだけれど、でもどうやらこちらの「さみちゃん」さん、わざわざおじいちゃんが呼びつけたみたいだ。
理由なら、言うまでもない——いや、今の今まですっかり忘れてたのだけれど。
「電話でも話したんども、もうおれたちじゃ太刀打ちできねくてな。さみちゃん、頼むて」
おじいちゃんが視線をやったのは、このサロンの一番奥のテーブル。ここ最近、いつもそこにいる〝彼〟の存在を思い出して、僕の胸の奥がちくりと痛む。
ただひとり、将棋盤を前にしてじっと座ったままの、小学生の男子。
僕はこの頃、こうして休日や学校上がりににお店の手伝いをしていて、でもそれは本当にここ最近のこと。それまではただ「おじいちゃんちに遊びにくる」程度の感覚で、つまり将棋に関してはよくわからない。せいぜい駒の動かし方と簡単な手筋、あとは美濃囲いと穴熊の組み方を知ってる程度で、実はこれでも世間的には「指せる方」になるっぽいのだけれど、でもこのサロンじゃてんでお話にならない。放課後に来る小学生たちはもとより、さっきまでそこでワイワイ麻雀してたおじさんたちにさえ、平手じゃ勝てた試しがないのだ。
だから、
一番奥の席の少年。いつも決まった野球帽やレプリカユニフォームを身につけているから、このサロンじゃ「地獄の縦縞」って呼ばれてる。同じあだ名でも「さみちゃん」とはえらい違いだと思うけれど、でも伊達に〝地獄〟なんて呼ばれているわけじゃない。
——強い。
恐ろしく、とてつもなく、あのおじいちゃんすら手玉に取るほどに。
将棋サロンに来るような小学生なんて、もう鬼みたいに強いのが当たり前だ。だからそれ自体は珍しくはないけど、でもその中でも彼は群を抜いていた。彼と指した後は居飛車が倍怖くなる、なんて、そんな軽口をおじさんたちが叩いているのをよく聞いた。本当かは知らない。僕も指したことがあるけど、でも何をされたのかわからないうちに負けていたから。
うちのホープであり、エースであり、きっとヒーローでもあったはずの、少年。
こうして僕が手伝うような時間、つまり学校上がりのいまはわかる。ただここ最近、どうやら彼は、日中からずっとここにいるらしいのだ。本当なら学校にいるはずの時間だ。
一応、ご家族に連絡はしたと聞いた。詳しい経緯までは知らないけれど(僕みたいな無関係な子供の踏み込むような話でもない)、でも結局まだこうしてここにいるってことは、つまり解決はしなかったのだろう。彼自身の様子もおかしいというか、普通に対局や雑談の間はともかく、話が学校のことに及ぶと露骨に塞ぎ込む様子を見せるのだとか。学校をサボっている引け目か、普段も少しおとなしめだ。昔はもっとよく喋ったというか、とにかくうるさい男の子だったのは、僕もよく知っている。対局したときボロクソこき下ろされたから。
どうあれ、このまま放っておいていいものとは思えなかった。それは僕だけでなく、きっとこのサロンのみんな一緒だったと思う。とはいえ僕らにどうこうできる問題でもなく、そも事情だってわからない。仮に知ったところで僕らが踏み込める問題なのかどうか。ならひとまずの対症療法として、せめてここにいる間くらいは気楽にと、学校のことについてはほとんど言わないようにしていた——というのは、ここの麻雀おじさんたちにしてはすごく気が利いていたかもしれない。
「といって、それをそのままにしない、というのが大人の責任ってものですしね」
わかります、とスーツの上着を脱ぐ彼女、さみちゃん。大人の女性を「さみちゃん」呼ばわりはものすごく気がひけるのだけれど、でも名前がわからない以上は仕方がない。僕が用意した利用者票は、どうやら彼女には必要のないものだった。仕方ない。それは最近手伝うようになっただけの僕には、当然わかるはずのない事実。
「初めまして、
少年の向かいに座る彼女。ワイシャツの袖をぐりぐり捲り、そして駒を手につまみ取る所作の、そのあまりの自然さ——いや、美しさ。
「持ち時間などのルールはそちらにお任せします。その代わり、〝真剣〟でいきましょう。賭け将棋です。負けるのが怖ければ結構ですけど」
それは彼、地獄の縦縞こと田倉くんと同じ。
このサロンの全員をひとりでなで斬りにした、かつての天才将棋少女。
さみちゃん、という子供っぽい呼び名も、なるほどその頃からのものだったと思えば合点がいく。
顔を上げる田倉少年。目の前に、臨戦態勢のスーツ姿の女性。さすがに気圧されたように見えたものの、しかしそれも一瞬のこと。すごい。以前に指したときも思ったけれど、この少年に驚かされるのはこういうところだ。おそらく初対面であろう大人が相手であっても、ことが将棋の対局である限り、まったく気後れや遠慮する様子を見せない。
子供じゃない。一見、
目の前のそれは子供じゃない。もはや立派な戦士であり、男なんだ、と。
「それでですね、賭けの内容なんですけど……えっと、じゃあ、〝負けた方はなんでもひとつ言うことをきく〟で」
待ってそれはまずい相手を子供だと思ってそんな、と、そう割って入るよりも早く縦縞が「オッケー」と笑う。なんだかねっとりと
「まだるっこしいのも手間やし、十秒将棋で」
持ち時間が一手につき十秒、超過すればその時点で敗北の電撃戦。とはいえそれだけじゃ物足りないからと、なんと十本先取の二十番勝負ときた。
きっと早指しには相当な自信があるのだろう。でなければこんなルールを提示するはずもなく、しかし今更「そんな無茶な」とはとても言えない。ルールを自由にしていい代わりに無茶な賭けを飲ませたのはさみちゃんの方で、しかし彼女も大したもの、さらっと「ではそれで」とその要求を飲む。まるで動じた様子もなく、むしろ安心したようにさえ見える余裕ぶり。
あるいは、彼女も早指しが得意なのか——と、そう思ったものの全然そんなことはなかった。こっそりおじいちゃんに聞いてみても、むしろどちらかといえば長考派のはず、との答え。となれば、考えられる結論はひとつ。
別に得意とするものではない代わりに、何か特別な策でもあるのだろう——。
なんて。
正直、すっかり騙されていた。着座して以降、最初とは一転して好戦的なようにすら見える彼女の、その見るからに強者然とした不思議な迫力に。
「すみません……あのときはただ、気持ちで
それが決着の後、タイツをびしょびしょにして項垂れたままのさみちゃんの言で、つまり僕が期待したような何か、衆目の意表をつく格好いい策的なものは何もなかった。彼女は典型的な才能派、天性のセンスだけであらゆる戦型を指しこなすタイプの棋士で、つまり縦縞くんとは正反対のスタンスと言える。僕の見たところ、縦縞くんの方は明らかな研究派だ。積み重ねた知識と研究で相手を圧倒する策士で、とどのつまり、結論から言うなれば——。
あの粘着質な笑みもむべなるかな、策略に嵌められたのはさみちゃんの方だ。
十秒将棋。そう聞いて、早指しを意識しない棋士はいない。しかし逆説、世に「十秒将棋」という言葉があるという事実が示す通り——一定以上の棋力を持つもの同士であれば、それはそこまで特別なルールではないのだ。展開が早く、それだけに失着のような手が増えるにしても、時間切れや反則負けはそう頻出するものではない。つまり、いずれかの詰みが見えるまで指す形になるのが普通だ。
それが、最低十局。多ければなんと十九局。十本先取なのだから当然だ。
一局一局が短いとはいえ、それだけ繰り返せば結構な時間になる。彼の狙いはそこだった。
五月の下旬、真夏かと思うほどに蒸し暑かった日の夕刻。額に汗を浮かべながら入室してきた彼女の、その手には紙パックの麦茶があった。何かマイボトル程度は持参していそうな社会人女性が、サロンに到着すれば出してもらえるであろうお茶ひとつを待ちきれず、きっと行きがけに買ってきた水分。無理もない、それほどまでに気温の高い一日で、水分補給は重要だ。しかしそこから一転、老人が多く冷房を強めに効かせたこのサロンに、汗をかくような要素は何ひとつない。
全身にたっぷりと水分を溜め込み、しかし直前までの大量発汗を急に止められた、その自覚のない成人女性。
その時点で彼の、地獄の縦縞の取るべき策はひとつ。
戦局そのものは長期戦でありつつも、しかしひとときもその場を離れることのできない戦い——例えば十秒も席を離れれば即座に反則負けとなる十秒将棋のような——に持ち込むこと。つまり、「用足しに立てば死ぬ勝負」こそが彼の狙いだ。無論、話してみればいかにも隙の多い相手、素の実力で殴り合っても負ける気遣いはないが——と、彼がそう思っていたというのは後々聞いた——しかし己を一個の猛虎と思うのなら、兎を狩るのにも全力を尽くすべきだ。手心は不要。策というものは
果たして、その計略は見事に成功する。
ただひとつ、彼にとって誤算だったのは——。
「あの、ええよ? 賭けはなかったことにしてええから、負けだけ認めてくれたら」
尿意を堪え、真っ赤な顔でプルプル震えながらも、しかしその怒涛のような指し手を緩める気配のない彼女。こと対局とあっては他のものを完全に捨て去る、その一見ごく普通の成人女性の、しかし思いもしないその
彼女に策はない。先の見通しも、嵌まった計略への対処法も。
典型的な天才肌。その指し筋は、突き進む覇道は、ただ力によって平らに
「ここまで私の五勝〇敗。ここからも全部ストレートで取る。最短できみをぶっ倒せば、おしっこくらいは余裕で間に合う!」
堂々たるその宣言。目の前の猛虎もなんのその、果敢に喉笛へと食らいつく小型肉食獣のようなその眼光に、つい「おしっこ」とか言っちゃったことにすら気づかないその集中に、剥き出しの闘争心をそのまま表したかのような高い駒音に——。
僕だけじゃない。その場にいた衆目、きっと全員の背筋が、ゾクリと粟立つ。
彼女の気迫に誰もが飲まれた、そのおそらく、二分くらい後のこと。
「……やッ、だめ、み、見ない、で——やだぁーーーーッ!」
大絶叫。
そのまま、なんかガクガク震えて金色の雨を降らせるのだから、僕の鳥肌を返してほしい。
「うッ、んぐッ、うえぇッ、ヒグッ」
あの凛々しかった天才さみちゃんはどこへやら。顔中ぐしゃぐしゃにして大泣きしながら、でも意外にも——というか、まったく恐ろしいことなのだけれど。
その先、震えて青ざめる羽目になったのは、縦縞少年の方だ。
パチーン、と、なおも変わらず、ただ高らかに響き続ける駒音。しなやかで落ち着いたその指先の動き。ひとりの成人女性の社会的な死、誰の目にも
——六勝〇敗。
明らかな頓死。僕でもわかるほどの単純なミス。そりゃそうだ。溢れ出る黄金水もそのままに、真っ赤な顔でえぐえぐ咽び泣いている死に体の彼女の、しかしここへ来てさらに鋭さを増す指し筋。感想はひとつ。人間じゃない——人智を超えた無慈悲な将棋マシーンの、その恐るべき天性の指し筋に、その場の全員が凍りついていた。
その先はもう、語るまでもない。
七戦、八戦、と立て続けに動揺からの反則負けを喫して、そこで少年の心が折れた。
「……ぼくの負けや。姉ちゃん、ほんま強いわ。全然勝てる気せえへんかった」
初めて見せるしおらしい態度。驚いたのは僕だけでなくさみちゃんもで、意固地だった子供が素直な顔を見せた以上、優しく胸襟を開いて受容するのが大人の務め——と、たぶんそんなつもりで見せたはずの笑顔が、でも失禁の恥辱と混ざってぐちゃぐちゃになる。もう泣いているやら笑っているやら判然としない真っ赤な顔で、それでもどうにか絞り出した言葉が、
「……ありがとうございました……」
対局終了の挨拶。加えて、掠れるような声での「見ないで……」という懇願。以降、縦縞の少年はずっとおとなしく、そして時折もじもじと身を
果たして、こうしてさみちゃんと少年の二十番勝負は決着を見た。
賭けの報酬、勝者の権利である「なんでもひとつ言うことをきかせる」権。一体何を要求するつもりか、実は地味に気になっていたのだけれど、しかしそれすら天才のやること、
「実はその、全然、なんにも考えてなくて……でも、あの、わたしとかみんながきみに望んでいること、きみはなんとなくわかってくれてると思う」
要は学校は行った方がいいよねって話で、少なくとも将棋サロンで一日時間潰してるよりはマシなはずで、でも彼の事情がわからない以上、何をどうお願いしてみようもない。命令なんてなおさらだ。ただ、それすら天才さみちゃんにとっては簡単なことというか、当の縦縞くんが明るい顔で曰く、
「実はぼく、学校でちょっとやらかしてな。恥ずかしくてみんなに合わせる顔あれへんかってんけど、でも気にするほどのことやなかったわ。全然余裕や、おしっこ漏らすのに比べたら」
明日からちゃんとガッコ行くで、という言葉に、でも「うぐッ」と思い出し恥辱に身悶えるさみちゃん。いま彼女は汚した服の代わりに、僕の学校用のジャージを着ていて(ちょうどいいのがそれしかなかった)、そのブカブカに余った袖で顔を隠す仕草に、また少年がもじもじする。大変だと思う。だって僕でさえ何かソワソワした変な気分になるのだ。もともと縦縞くん自身が責任を感じて「ぼくの着てくれてええから!」と、そう自分がマッパで帰宅する覚悟を決めたところに、ありがとうでもサイズ合わないしごめんなさいと断られてからの、なんか突然しゃしゃり出てきたよくわからん男の服だ。
——彼、明日からちゃんと学校でやっていけるだろうか。
「大丈夫だと思います。いい笑顔でしたから」
そういうことじゃなくってね、と、そんなことはとても言えない。言えるような間柄でもないし、なにより水は差したくない。少年の背中を見送る彼女の、そのとても穏やかで優しい笑顔。ついさっきサロンの床に尿を垂れ流したばかりの人間の顔とは思えず、なにより最初に感じた知的で冷たい印象、まったく僕は彼女の何を見ていたんだろうって思う。
もう見えない。そんな風には、とてもじゃないけど。この人はこの先、僕にとってきっとずっと、真っ赤になって震えながらおしっこ垂れ流した地獄の将棋マシーンだ。
一件落着の安心感からか、ずっと抑えていた心のたがが緩む。
「……いいなあ。縦縞くんも、さみちゃんさんも」
気づけばドバドバ垂れ流しになっていたその言葉は、僕にとってはあまりにも恥ずかしい本音。なんだかんだ格好良かったふたりに比べて、僕は本当に中途半端だった。何もできない。何者でもない。別に将棋指しでなくてもいいけど、僕はこの先、例えば今日の彼女や彼のような、人の心に残る〝何者か〟になれるのだろうか——。
僕の不安、将来への迷いをそのまま表したその弱音に、それでも人生の先輩たる彼女は、何か言ってくれるかと思ったけどでもそんなことはなかった。なんか困ったような顔で固まるだけで、でも「そりゃそうだ」って今にして思う。全然知らん人のそんな漠然とした悩みを聞かされても、何も言えないし言えるような間柄でもない。
代わりに答えたのはおじいちゃんと、そして常連のおじさんや爺さんたちだった。
——そんなことはない、おれたちは助かっとるよ、と。
「今日だって、腰を悪くしたじいさんの代わりに、お前が掃除をしてくれたじゃないか」
あれは年寄りには無理な量だった。それは事実には違いなく、「そうかな」とちょっと胸を張る僕の隣、「フグッ、ウッ、ウゥゥ」と思い出し笑いならぬ思い出し啜り泣きを始める彼女。眼鏡の似合うさみちゃんさん。膀胱以外は立派な大人の女性に、僕からかけられる慰めななんて何もないけど、その代わりに僕は小さく告げる。
いつだって、僕が掃除と受付をして待っていますので——。
「お仕事、忙しいと思いますけど。よかったらまた来てください。縦縞くんのことも気になるでしょうし」
お茶も出します。あと、せめて次回までには、僕も——。
なんて。
そこまでは恥ずかしくて言えなかったけれど、でも仕方ない。
頷く彼女。この服もお返ししないとですしね、と、その返事だけでいまの僕には十分すぎる。
それでも、それで急に何かが変わるってわけじゃなくても。
次までには僕も矢倉の定跡を覚えて、それでまた縦縞くんにボコボコにされる。
そういうのもなんか楽しいかな、って、そう思えるようになったのは、決して悪いことではない気がするのだ。
〈叫んで五月雨、金の雨。 了〉
叫んで五月雨、金の雨。 和田島イサキ @wdzm
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