温かい日々、愛しい家族と

 バタバタと忙しない足音が聞こえる。


(あぁ、また……)


 少しうんざりしながらも、足音の主に応えるため蘭は食事を作っていた手を止めた。


「──ん、蘭〜! ちょ、助けて!」

「どうしたの、理人さん」


 呆れた声音になっているのは自覚しているが、こればかりは仕方ない。


冬璃とうりが、冬璃が……一緒に風呂に入ってくれないんだ!」

「あーうっ」


 理人の悲痛な叫びと共に、蘭の足下へ軽い衝撃が走る。

 見ると、小さな手で蘭の足にぎゅうと抱き着く赤ん坊──冬璃が元気よく返事をした。


「もう、冬璃。パパとお風呂行っておいでって言ったよね?」


 蘭はそっと冬璃を抱きかかえ、言い聞かせるようにゆっくりと問い掛ける。


「おうろ?」


 舌っ足らずな言葉で蘭の真似をする息子は可愛い。けれど、このままでは理人の目のやり場に困るのも事実だ。


 キッチンからリビングまでの距離が短いとはいえ、理人は上裸のまま蘭の前へ出てきたのだ。

 鍛え抜かれたしなやかな体躯たいくは、結婚後数年が経った今ですらまともに見れた試しがない。


「お風呂嫌?」


 理人の方を見ないようにし、冬璃へもう一度同じ言葉を訊ねると丸い瞳を更に丸くした。


「やっ!」


 言われたことを理解したのか、ぷいと冬璃はそっぽを向く。


「はぁ……十分くらいこれだよ? お陰で寒いわ息子に嫌われかけてて泣くわ……もうママと入っちゃおっかなー」

「やーっ!!」


 理人の言葉が分かるのか、冬璃は蘭の肩口へ更にぎゅうと抱き着いた。


「大人気ないって……」


 まだ小さな息子に対抗心を燃やしている事に半ば呆れつつ、愛されてるなぁと実感する。


(理人さんはどうして私だったんだろう)


 なんの取り柄もなく、地味で冴えなかった自分を理人は好きになってくれた。


 理人は蘭が高校二年へ進級した春、別の高校から赴任してきた教師だった。

 歳があまり変わらないこともあり、生徒達から友達のように接される理人は、何故だか蘭にだけ根気強く話し掛けてきたのだ。


 それも「今思えば一目惚れだった」とはにかみながら言われた事を、蘭はこの先もずっと覚えているだろう。

 教師と生徒の道ならぬ恋は、あまりにも障害が多くあったのも事実だ。


 けれど、高校を卒業したあの日──蘭は理人と婚約した。

 あまりにも蘭を好いていた理人は、付き合う時に「高校を卒業したら結婚しよう」とプロポーズをしていたのだ。


(今考えると色々ぶっ飛びすぎてるのよね……)


 それでもその時の蘭は了承したのだから、人の事を言えないだろう。


(でも)


 耳元で実の息子相手にうるさくわめく最愛の夫と、かたくなに蘭から離れようとしない冬璃。


 賑やかで満ち足りた幸福に包まれながら、今日も蘭は生きていく。

 叶うならばこの先もずっと、幸せな日々が続くように願いながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桜舞う頃、愛しい君へ 櫻葉月咲 @takaryou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ