桜舞う頃、愛しい君へ

櫻葉月咲

桜舞う頃、愛しい君へ

 はかなくも美しい花を咲かせる桜の樹の真下には、一人の少女がぽつんと立っていた。

 大人と子供の狭間にある面立ちが、今ばかりは緊張で固まっている。


 ひらり、はらり。


 薄桃色の花弁はなびらがゆっくりと舞い落ちていくさまを少女──らんは、何とはなしに見つめていた。


(ちょっと早かったかな)


 伏し目がちな瞳は、足下に降り積もるピンク色の絨毯じゅうたんに向けられている。

 今か今かと待ち人を待っているこの時間は、自分の気持ちを整理する為でもあった。


 蘭はこの日、高校を卒業したばかりだ。

 待ち人──蘭の想い人に『卒業式が終わったらいつもの場所で待ってて』と言われ、友人たちとの別れもそこそこに、高校から少し歩いた場所にある河川敷へ来たのだ。


 二人だけで話す時は、こうしてここに来る。そういう約束をしていた。

 そして、今日この日。相手から何を言われるのか、蘭はとっくに理解していた。


 さらさらと流れる川の音が、今ばかりは緊張をやわらげてくれるのがありがたい。

 河川敷は春になると美しく咲き誇る桜の樹が有名で、デートスポットになっている。

 ちらほらと恋人達や家族連れが散策する姿もあり、ほんの少し羨ましく思う。


(早く来てくれたらいいのに)


 蘭が待つ場所は、一段と大きな桜の樹の側だ。

 けれど、同じく卒業式を終えた他校の学生が多いのか、最初に蘭が来た時よりも人が増えたようだった。

 こうして一人で待っていると早く会いたい、早く声を聞きたいと思ってしまう。


「でも、仕方ないか」


 すぐに来られる状況ではないと頭では分かっている。それが自分の我儘であろう事も。


「……理人りひとさん」


 風にさらわれてしまいそうなほど小さな声音で、好きな人の名前をぽそりと呟く。


 甘く微笑んで自分の名を呼ぶ声が、温かく包み込んでくれる大きな手の平が、恋しい。


 数時間前に顔を見たばかりだが、それでもこうして待っている時間は永遠にも感じられた。


「──呼んだか」

「っ」


 誰かの温もりに身体を包み込まれたかと思えば、耳元へ短く囁かれた事でびくりと肩が跳ねる。

 それは蘭が待ち望んでいた人だった。


「──り、ひと」


 さん、と続けようとした言葉を、蘭はすんでのところで飲み込んだ。


「黙って」


 小さな小さな、ともすれば桜の花弁はなびらと共に消えてしまいそうな儚い声音で、声の主は囁いた。

 この声は駄目だ、瞬時にそう悟った。


 蘭が黙った事で、男はさも満足気に両腕の拘束を解く。

 すると、蘭から二歩ほど離れて輝かんばかりの笑顔で言った。


「卒業おめでとう、高崎たかさき


 にっこりと微笑みながら、二十代半ばの男──理人が蘭に小さな花束を差し出した。


「ありがとう、……ございます」


 つっかえつつもしっかりと礼を述べると、蘭は真っ直ぐに目の前の男を見つめる。

 誰もが見惚れる微笑みは、蘭が好きな理人その人だ。

 一歩二歩と距離を詰め、理人を見上げる。


(私の為に、こんなものを……)


 理人からプレゼントの一つすら贈られる機会が無かったからか、自然と涙腺が緩む。

 色とりどりの可愛らしい花束は、蘭の好きなものばかりだ。

 その中心には一輪の赤い薔薇がつつましく、けれど確かな存在感を持っていた。


「綺麗……」


 そっと顔を近付けると、沢山の花の香りが鼻腔びくうをくすぐり、自然と笑みが溢れる。


「さ、花も渡したことだし──蘭」


 蘭の表情を見て満足したのか、一拍ほどの呼吸を置くと理人が手の平を差し出した。


「卒業したらって約束、覚えてる?」


 こてりと小さく首を傾げ、理人が問い掛ける。


「……覚えてるも何も。私は、ずっと貴方しか見ていないのに」


 蘭は差し出された手に自分のそれを重ねつつ、今更何を言うの、と少し拗ねた口調で訊ね返す。


「はは、それもそうだったな」


 理人は分かっているというように破顔した。


「もうっ! 意地悪しないで!」

「ごめんって」


 繋いでいない方の手でわしわしと頭を撫でられると、子供扱いされているみたいでやるせない気持ちになる。

 けれど、乱雑に蘭の頭を撫でる大きな手とは裏腹に、表情や声音は限りなく優しい。


「嫌よ、来るのが遅いっていうのもあるけど……待ってたのに」


 声が落ちているのはとうに自覚済みだ。

 こんな事で怒っている自分も嫌だが、自分だけが理人に会うのが楽しみだったようで更に嫌だった。


「じゃあ──これで許して」


 未だ拗ねる蘭に、何を思ったか理人は蘭の前髪をさらりと掻き上げる。

 そうして額へ軽くキスを落とす。


「そ、それで私が許すと思ってるなら大間違いだから!」


 何をされたのか理解するのに数秒かかった。

 きっと今の蘭の顔は、舞い落ちていく桜の花弁よりも赤いだろう。


「よしよし、そんなに怒るなって」


 ニコニコと笑う理人と、少し怒った口調で蘭が話すさまを、どこまでも続く桜並木が、無数の花弁が、いつまでも優しく見守っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る