叫んで五月雨、金の雨。

惟風

叫んで五月雨、金の雨。

「オラ出てこんかいや! お前が毎日毎日ワシのこと盗み聞きしとんの知ってるんやぞ!」


 日曜日の二度寝を堪能していると、耳をつんざくような叫び声が玄関の向こうから響いてきて、俺は目を覚ました。

 ドンドンと打たれる度に扉が揺れる。

 またかと溜息をついて寝返りを打つ。

 上階に住む頭のおかしなジジイは、月に三回はこうして怒鳴り込んでくる。

 ヤレTVの音がうるさいだの歌をうたうなだの頭の中に電波を飛ばすなだの、典型的な“ヤバい奴”だ。

 ウチにはTVは無いし歌ったりしないし脳内に電波を飛ばせるテクノロジーも無いし、そもそも仕事で忙しくてほとんど家にいないってのに。

 絶対にお前の方がうるせえわ。

 久々の休日が、最悪な気分でスタートしてしまった。去年越してきてからずっとこんな状態でうんざりする。

 スマホに目をやる。午前十時を回ったところだった。時間的に、そろそろ静かになる頃合いかな。

 ジジイは相変わらず吠えている。とにかくうるせえ。


「田崎さん、こんなとこにいたんですかあ」


 のんびりとしたおばさんの笑い声が近づいてきて、俺はホッと息をついた。ジジイの元に通っているヘルパーだ。

 毎日のように来ているらしく、このおばさんがいる間はアイツもまあまあ大人しくしていてくれる。

 あんな奴の相手をするなんて、仕事とはいえよくやるもんだ。


「なんや、もうアンタが来る時間か……」


 今まで怒鳴っていたのが嘘のように、田崎のジジイが穏やかな声を出した。

 このヘルパーがいる時だけは、田崎はマトモな会話ができるようになる。


「せっかく田崎さんのお顔見に来たのに、いらっしゃらなかったからびっくりしちゃった。寂しかったじゃないですかあ。帰ってちょっとお茶飲みましょ」


「あ、ああ……せやな……悪かったな」


 心底申し訳無さそうな話しぶりだ。

 俺にも謝ってほしい。一回で良いから。


 二人の足音が去ってから、ゆっくりと身を起こした。

 玄関を開けて、扉をチェックする。一度、びっしりと苦情を書き連ねた手紙が貼り付けられていたことがあったから、あのジジイが去った後には確認するようにしていた。

 幸い特に異常も異物もなく、共用廊下には糞尿の混じったような悪臭だけが残されていた。

 管理人や近所の住民曰く、田崎は身寄りの無い一人暮らしの老人で、最近は家事どころか身繕いすらろくにできていないらしい。

 ヘルパーのいない間にシンクを詰まらせたりガスの火を消し忘れたりと、危なっかしい噂も聞こえてきていた。

 あんな年寄りがどうなろうが知ったこっちゃないが、火事だけは勘弁してほしい。

 幸い、来月別のマンションに引っ越すことが決まっているから、あともう少しの辛抱だ。クソみたいな、いやクソまみれのジジイとももうすぐおさらばできる。

 家賃の安さだけで安易に物件に飛びつくもんじゃないなと俺はこの半年で身に沁みた。


 気分転換に、ベランダの窓を開け放つ。五月晴れの心地良い風が通り抜ける。

 さっさと荷造りを進めてしまおう。


 不用品をまとめているだけで日が暮れてしまった。狭いワンルームによくもこれだけ溜めこんだなあ、と積み上がったゴミ袋を眺める。

 何の感慨も湧かなかった。とにかく早くこの部屋から脱出したい。

 ほとんど休んだ気のしないまま、ベッドに潜りこんだ。

 結局、あれからジジイは大人しくしているようで静かなもんだった。

 換気扇の音が微かに聞こえる。ベッドの足元側に小さなクローゼットがあり、その向こうがユニットバスになっていた。

 引越し先は1Kで、ここと違って風呂はセパレートタイプだ。築年数も浅く、家賃は上がるが少しは快適に暮らせるだろう。

 新生活に思いを馳せているうちに、俺はいつしか眠りに落ちていった。


 ぴちゃり


 水が滴るような音で、不意に目が覚めた。同時に、鼻が曲がりそうなほどの悪臭にも気がつく。

 慌てて部屋の電気を点けると、クローゼットの上の天井の隅から液体がぽたぽたと染み出していた。

 それは俺の布団にかかり、ぐっしょりと茶色い汚れを広げつつあった。


 混乱する頭で、考える。

 ここも上も、同じような間取りのはずだ。

 と、いうことは。

 クローゼットを見つめた。

 この、奥は。





 俺はここに越してきて初めての騒音を口から吐き出した。







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