コトノハ・リストカット

海沈生物

第1話

 言葉は凶器だ。会話は殺人だ。独白は自慰だ。そして、私は詩人ではない。


 私こと琴ノ葉京子コトノハ キョウコはリストカットをしている。リストカットをする度、胸に泥のように溜まるストレスがそれで魔法みたいに消えてくれると信じている。実際にそんなことはありえない。いくらリストカットしたところで、今のストレスがすっと消えてくれることはない。 

 リストカットは、目に見える傷を増やす代わりに、目に見えない傷に布をかけて見えなくする行為だ。それも、ただの一時的なことでしかない。時間が経てば布は風で宙を舞い、また目に見えない傷は私の目の前に立ちはだかってくる。それでも、一度リストカットをしてしまえば、まるで中毒みたいにやめられなくなる。歯を磨くとか、手を洗うとか、そういった日常的なルーティンの一つになるのだ。こうやって、意味のない独白をするのと同じだ。


 今日も放課後に空き教室で一人リストカットをしていると、突然ドアが開かれた。私は思わずリストカットをしていた腕とカッターナイフを隠す。

 部屋に入って来たのは身長の高い女だった。さらりとした長髪が特徴的で、窓から差し込む西日が彼女の美しい金色の髪を輝かせていた。その姿に思わず息を飲んでいると、見つめられていることに気付いた彼女は私の腕を見てきた。


「リストカット?」


 ストレートに投げられてきた言葉に、思わず胸の弱い場所が疼く。リストカットなんて誇れるようなものじゃない。それでも生きるために続けている。だから、その言葉に対してどう答えるべきか迷った。「別に私の勝手でしょ」と粗雑に相手を突き放すことができない。「そうだよ」とリストカットを自慢できる行為だと思えない。「どう思う?」なんて尋ねるような性格でもなかった。私の答えは、逃走だった。


 まるで自分の自慰を誰かに見られてしまったように、半分泣きながら近くにあるトイレの個室へと逃げ込んだ。私は高鳴る心臓を抑えながら、呼吸を整える。なんで見られてしまったのだろうか。私の心臓の中身を、薄っぺらい正体を見られてしまったのか。嫌になっていた。死にたくなっていた。

 手に持ったままのカッターナイフを見ると、刃先に血の痕が残っていた。しかも、今日は静脈のあたりを切りすぎたのか、血がポタポタと垂れていた。私はまさかと思ってドアを開ける。そこには、ヘンデルとグレーテルみたいに、あの教室からここまで血の痕が続いていた。私はどうしようもない絶望感に、本当に死んでやろうかと思う。終わりだ。これで社会的に終わりだ。

 この血の痕が見つかってここまで辿り着いた生徒がいたのなら、あるいは先生がいたのなら、私がリストカットをしていることに気付く。そして彼らは思うのだ。


「こいつは病んでいる」

「こいつは何か重大な問題を抱えている」

「俺が助けなければいけない」


 そんな自惚れた思いを私にぶつけてくるのだ。私は現代社会のそういう部分がおぞましいと思う。それは、自分を病んでいない側の人間であると思っているからこその言葉だ。確かにそれで助かる人間もいるのかもしれない。病院でカウンセリングを受けることによって、楽になる人間がいるのかもしれない。でも、それだけだ。

 私は助けなんていらない。慰めなんていらない。そんなもので「病んだ人間」なんて薄っぺらい判断を下されるぐらいなら、存在を無視された方がマシだ。判断されないまま死んだ方がマシだ。


 そうやって絶望している私の元に足音が近付いてくる。思わず個室トイレの鍵を閉めて閉じこもると、その足音は私のトイレの前で止まった。ノックを三回したが、私の反応がないのを見ると、ドアの向こうで座り込んだ。


「ごめん、琴ノ葉さん。リストカット中に邪魔して」


 そんな謝り方をされたのは、人生で初めてだった。まさかこの女も「仲間」なのかと思った。


「貴女も、リストカットするの?」

「リストカット? 私はしない。痛いの苦手だし」


 落胆したが、これは仕方ない。リストカットは痛い。それ以上の快楽を感じられるからこそ私は続けているが、それだって、痛いのが苦手な人間にとっては理解し難い行為なのだろう。


「それじゃあ、その、どうして私を追いかけてきたの?」

「追いかけて……いや、違う。琴ノ葉さんが腕に血を垂らしながら走っていったから、そのまま失血死して死んでないかなーと期待して来ただけ」


 彼女は立ち上がると、個室のドアの上部に手をかける。そのまま顔だけ持ち上げると、私の姿を見下ろしてきた。


「本当に死んでないんだね、残念」

「残念、って。死んでいたらどうするつもりだったの?」

「どうする、とかではないかも。ただ見る。死んだ人間ってこんな顔するんだーとか、人って死んだら本当に冷たくなるのかなーとか、そういうのを観察する。それが私の”趣味”だから」


 そう言って彼女はドアから下りると、トイレの下の隙間から自分のスマホを渡してくる。「変なところ見ないでね?」と言ってくるのにわざわざ見ないよと思いつつ画面を見ると、そこには無残な死体がたくさんあった。山中で首を吊った人間の死体、崖の下に浮かぶ人間の死体、あるいは路上で無残に死んだカマキリの死体まであった。

 人間である必要はないのかなと思って見ていると、ふと一番最新の写真にさっきの空き教室の私の姿が映っていることに気付く。思わず削除すると、外から鼻で笑う声が聞こえてきた。


「だから、変なところ見ないでって言ったのに」

「透視能力でも持っているの、貴女?」

「超能力者だからね。他人の心を読み取ることもできるからね」

「適当言わないでよ、嘘つき」

「生きている人間なんて、みんな嘘つきだよ。だから、私は言葉で嘘をつかない死体が好きなんだよ」


 彼女から「そろそろ返して」と言われたので、トイレの下の隙間から彼女にスマホを返した。いつの間にか止まっていた血を見て、あぁそうだと思う。


「そういえば、血の痕ってどうしたの?」

「私はこう見えても優しいからね。全部拭き取っておいた」

「……本音は?」

「琴ノ葉さんが本当に死んでいたら、私以外にも血の痕を追ってやってきた人間がやってきて、のんびり写真撮影タイムができなくなると思ったの。だから拭いた」

「正直でよろしい」

「お褒めに預かれて光栄です」


 私は思わず頬を緩めた。おそらく、ドア一枚向こうを隔てた彼女も笑っている。

 ちょうどその時、校内放送で「速やかに生徒は帰宅してください」と聞こえてきた。私は鞄を教室に置きっぱなしのことを思い出す。ドアの鍵を開けてさっさと出ようとしたが、開かない。ドアの前には彼女がいた。


「そろそろ、帰らないと」

「そうだね」

「それで、ちょっと退いてくれないかなーと」

「そうだね」

「だから……」

「……だったら、こちらの条件を飲んでくれないかな」


 立ち上がった彼女は私の方を向くと、ドア越しに感じるほど強い視線を向けてきた。


「私は琴ノ葉さんが失血死する姿を見たい。琴ノ葉さんは今日のリストカットをバレたくない。だから契約を結ばない? 私はリストカットのことを誰にも言わない。だから、琴ノ葉さんもリストカットをするのは放課後だけにして。私が見ている間以外は絶対にしないで。それなら、黙っておく」


 正直、それは辛いものだった。私は自分の部屋でもよくリストカットをやっていた。それを禁じられるというのは、とても辛い契約だった。だが、彼女にリストカットをしていることをバラされてしまえば、それで全ては終わりだ。私は現代社会のおぞましさの中に放り出されることになる。それは、それだけは断じて許すことができなかった。


「……いいよ、いいわよ。その契約なら結んでもいいわ。でも、口を割ったら貴女を殺しに行くからね?」

「私を殺す……なるほど、自分が”死体”になるというのも悪くないかもしれないね」

「ちょっ、本当に口を割らないでよね!」

「分かっている。私はこう見えて友達がいないからね。割るような相手がいないから心配してなくても大丈夫だ」


 それは自慢するべきことなのだろうか。疑問に思いつつ彼女に退いてもらってドアを開けると、「はい」と言われて鞄を投げられた。それは、私が空き教室に置いたままの鞄だった。


「えっと、持って来てくれたの?」

「どうせ、血の痕の先に琴ノ葉さんがいることは明白だったからね。別に気にするようなことではないよ」

「だとしても、その……感謝はするわ。ありがと」

「どういたしまして……でいいのか。別に感謝されるようなことをしたとは思っていないけど」


 少し照れくさそうにしている彼女の姿に、私はちょっとだけ可愛いなと思った。

 

 トイレから出ると、鍵を閉めている途中の公務員さんと会った。何か言われるかと思ったが「早く帰れよー」とだけ言って上の階へと去っていった。私と彼女は同時にほっと一息ついた。そのことにまた、お互いの頬を緩ませた。

 太陽は沈みかけている。私は彼女とくだらないことを話しながら、下校した。


 言葉は凶器だ。会話は殺人だ。独白は自慰だ。そして、私は詩人ではない。

 しかし、私は血肉を切る狂人だ。だから、凶器で愛を語る。殺人で契約を結ぶ。自慰は……変わらず続けるのだ。ただ、他者に見られる羞恥プレイとして、だが。

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