鑑定留置第八〇七号

あをにまる

鑑定留置第八〇七号

 

 やだもう、先生ったら。

 あたしと彼の馴れ初めだなんて、そんな、とっても恥ずかしいじゃない。


 けど、まあ、うふふ。いいわよ。先生、よく見ると中々男前だから、特別にね。



 ––––––––あたしがあの人と最初に出逢った場所は、燃え盛る炎の中だったわ。



 うふふ。あらやだ、身を焦がすような恋だなんて、先生、なかなかの詩人じゃないかしら。

 炎って言っても、そんな、物のたとえなんかじゃないわよ。そのままの意味に決まっているでしょう。あはは。先生ったら、見かけによらず、とっても面白いお人ね。


 え?それは一体、いつの話かって?

 間違いなくちょうど1年前、あたしが21歳のころの話よ。


 当時、あたしは██市内の、とあるレストランでアルバイトをしていたの。

 お給料は少なかったけれど、あたしは毎日そこで夜遅くまで働いて、なんとか一人暮らしを賄うだけのお金を稼いでいたわ。


 そして忘れもしない、202█年1月14日。

 あれはこの街に珍しく粉雪が舞う、とても寒い夜のことよ。


 あたしが働いていたお店のある、雑居ビルの1階で、火事が起こったの。


 それはもう、とても大きな火事で、あたしのいたレストランの中にも突然、どす黒い煙が立ち昇って来た。店内はまるで地獄絵図みたいで、お客さんも、店員のみんなも、一斉に悲鳴を上げながら、次々と非常階段を目掛けて我先にと駆けていったわ。


 ええ、当然、そのときホール担当だったあたしも避難しようとした。けどそのとき、逃げ惑うお客さんのひとりに思い切り突き飛ばされて、あたし、床に倒れ込んでしまったの。他の人たちは皆、助けるどころか、倒れ込んだあたしの足や背中や頭を、思い切り踏みつけながら逃げていったわ。おかげで、あたしの左足なんて、宙ぶらりんに曲がってしまったのよ? ねえ、先生、酷いと思うでしょう?


 それでね、立ち上がれなくなったあたしは、燃え盛る店内にたったひとり、取り残されたわけ。それでもなんとか生きるために、まるで芋虫みたいに這いつくばって、泣きながら、必死で非常階段を目指したわ。


 けれど、じきに煙で息が苦しくなってきて、意識も薄れていって、ああ、あたし、もう死ぬのかな、なんてぼんやり諦めかけたそのとき。


 銀色の防火服を着たあの人が、燃え盛る炎の中を突っ切って、あたしを助けにきてくれたの!


「消防です! 大丈夫ですか!」って叫びながらあたしの体を優しく抱きかかえてくれた彼は、まるで白馬の王子様みたいだった。


 ええ、ええ、きっとあたし、その時が人生で、一番幸せな瞬間だったわ。


 思えばそれまでのあたしの人生、本当に真っ暗だった。あたしはもともとお母さんと二人暮らしだったけど、幼いときから、お母さんは毎日お仕事から帰ってくるたびにお酒を浴びるほど飲んで、あたしの事を殴ったり、蹴ったりしていたわ。機嫌のわるい日は、あたしがやめてってどれだけ泣いても、許してくれなかった。学校でもいじめられていたけど、教師はみんな、見て見ぬふり。ぼろぼろにされて読めなくなった国語の教科書を眺めながら、授業中に朗読の順番が回ってくるのを震えて待っていたあたしの気持ち、先生、わかるかしら?あたしは生まれてからそれまでずっと、誰かから優しくされた記憶なんて、一度もない。ただの一度もないの。


 だから、彼が初めてだった! 自分の危険も省みず、あたしのことを助け出してくれるなんて! 本当に、あたし、涙が止まらなかった。

 それでね、確信したの。これは運命に違いないって。むかし絵本で読んだシンデレラみたいに、哀れなあたしを、ようやくこの白馬の王子様が、迎えにきてくれたんだって!


 燃え上がるビルの中から助け出されたあと、彼はそっと、あたしを担架に乗せてくれた。それでね、「もう安心ですよ」って、優しく声をかけてくれたの。すごく嬉しかったわ。


 そこであたし、どうしても運命の彼の名前を聞いておきたかった。だから、救急車に乗る前に、名前を尋ねてみたの。

 そしたら、彼は煤まみれの顔でニッコリと笑いながら、███介です、って答えてから、また颯爽と炎のほうへ向けて走っていったわ。


 あたし、本当はそこでもっと彼とお喋りしたかったんだけど、お仕事の最中だし、邪魔しちゃいけないでしょう? それに、もうあたしたちはとっくに相思相愛なのだから、お話する時間なんて、これから無限にあるもの。だから、あたしは我慢して、そのままおとなしく救急車に乗せられたわ。


 えっ?彼があたしを好きだっていう理由?うふふ。いやねえ、先生。


 彼はあたしを、命がけで助けてくれたのよ?そんなこと、愛してなくちゃ、きっとできないでしょう?

 だから、そこに、言葉なんていらないわ。先生ったら案外、女心のわからないお人なのね。せっかくの男前が、それだと勿体ないわよ?


 それでね、あたしは病院のベッドから、彼がいる消防署へ、たくさんお手紙を書いたの。そこにあたしのメールアドレスも書いておいたらね、今度は彼から直接、すぐに返信があったわ。


 ええ、先生、もちろんよ。

 彼は「退院したらぜひ、またお会いしましょう」って書いてくれたに決まってるじゃない。


 ……え?

 あたしのスマホに、そんなメールの記録は残っていないって?


 あら、ごめんなさい、少しあたしの記憶違いだったわ。手紙に書いておいたのは、メールアドレスじゃなくて、電話番号だったかしら。ええ。きっとそうよ。たしか彼、メールより電話の方が好きだって言っていたもの。


 ……通話記録がなかった?


 もう、そんなはずはないでしょう。


 ああ!わかったわ! あの刑事さんたち、とっても意地悪だもの。きっと、あたしのスマホを取り上げたあと、記録を全て消してしまったんだわ!ええ、そうに違いない!


 けれど、そんなことくらいで、あたしと彼の仲を引き裂いたりできるもんですか。彼のことは、あたし、何だって覚えているんだから。


 ええ、もちろん、彼とお付き合いを始めたのは、あたしが退院してすぐのことよ。


 この1年間、二人でたくさんデートをしたわ。

 彼に連れて行ってもらった場所のなかで、特に楽しかったのは、東大寺のお水取りと、京都の大文字送り火かしら。

 あたし、それまで炎って怖いイメージしか無かったんだけど、夜空に浮かぶあの鮮やかな赤色と、舞い散る火の粉を初めて見たとき、あまりの美しさに言葉が出なかったわ。彼はいつも、こんな綺麗なものと戦うお仕事をしているんだなあって、思わず羨ましくなっちゃったくらいよ。


 ……禁止命令? さあ? 何よそれ?

 そのなんとか規制法って、刑事さんたちも言っていたけど、あたし、難しいことはよく分からないわ。ごめんなさいね。


 彼の職場は……ええ、確かに、███消防署には何度も行ったことがあるわよ?


 ほら、彼って忘れん坊だから、いつもあたしが作ったお弁当を、家に置いていったまま出かけちゃうのよ。

 だから、あたしがよく、彼のいる職場まで持って行って、届けてあげたの。

 それなのに、彼ってばシャイなところもあるから、妻が職場に来ると恥ずかしいのかしら。あたしが最初に行ったときは、顔を赤くしながら、「もう来ないでくれ」なんて言っちゃったりして、とっても可愛かったわ。


 けどね、あたしこの前、彼の職場の前で、すごく嫌なものを見ちゃったの。


 ええ。確か、あれはつい3週間前くらいの事だったかしら。

 

 あの日は夕方から突然雨が降り始めたんだけど、彼が傘を忘れていったんじゃないかと思って心配になっちゃって。

 だからあたし、家から傘を持って行って、███消防署の前で、彼がお仕事を終えて出てくるのを、夜遅くまでずっと待ってあげていたの。

 とても強い雨だったから、待っている間にあたし、傘をさしていても服がだいぶ濡れちゃっだけど、ええ。そんなの全然へっちゃらよ。主人のお迎えは、妻の義務ですもの。


 けどね、夜の10時くらいかしら。ようやく彼が正門から出てきて、あたしが「お仕事お疲れ様」って声をかけて、傘を渡してあげようとした時。


 見知らぬ女が、あたしより先に彼のほうに駆け寄って、彼に傘を手渡したの。しかも、それから手を繋いで、嬉しそうにふたりで道を歩き始めたのよ。


 あたし、許せなかった!


 ええ、もちろん、彼が悪いんじゃないわ。彼が浮気なんてする筈がない。彼はあたしの事を愛してくれているもの。悪いのは全て、あたしから彼を横取りしようとしていた、あの女よ! そういえば彼が、最近……いえ、ずっと、あたしの待つ家へ帰ってきてくれないのも、あの女がたぶらかしているせいに違いないって、そのとき気がついたの!!


 それからあたしは勿論、二人の跡をつけていった。ええ、そうするに決まっているじゃない。案の定、あの女は彼と一緒に、近くにあるアパートの一室へ入っていったわ。


 その時ね、思ったの。

 早く何とかしないと、あたしの彼が、あの女に取られちゃう。彼はあたしの物なのに、あんな女が奪っていい筈がない。彼はあたしだけの運命の王子様で、あの女は悪い魔法使いなのよ。ええ、きっとそうに違いないって。


 だから、あたし、決心したわ。

 あの悪い魔女を、やっつけなくちゃって。


 あたしはすぐ、家にあった包丁を取りに戻ったわ。そしてひと晩じゅう、アパートの前で、電柱の影に隠れて、あの女がひとりになるのを待ったの。雨は明け方までずっと降っていたから、ずぶ濡れになっちゃった。けど、もうあたし、そんな事なんて全く気にならなかった。


 朝8時頃になってようやく、アパートの部屋の扉が開いて、彼が職場に向けて出かけていったわ。

 彼は去り際、アパートの玄関で、あの女とキスをしていた。それを見てあたしは早く、もう一刻も早く、彼にかけられた悪い魔法を解いてあげなくちゃって思ったの。


 彼の姿が見えなくなってから、あたしはすぐにその部屋の呼び鈴を鳴らしたわ。


 インターホンから「はあい」っていう間の抜けた声がしたから、「お届けものです」って答えてあげると、あの女は簡単に扉を開いたわ。ずる賢い魔法使いのくせに、とんだ不用心よね。うふふ。あたし、思わず笑っちゃったわ。


 その後の事なんて、言うまでもないでしょう?


 扉にはチェーンすらかかっていなかったから、開いた瞬間に足を挟んで、そのまま玄関に押し倒してやったの。それから魔法で生き返ったりしないように、深く深く何度も包丁を刺したわ。特に、顔のあたりは念入りにね。


 魔女をやっつけたあとは、手や顔が返り血で汚れちゃったから、お風呂場を借りて綺麗に洗い流した。服は、あたし、赤色が大好きだから、いつも赤いドレスを着ていたおかげで目立たなかったわ。


 ……あれの名前?

 へえ、███子っていうんだ。知らなかったわ。


 別に、あれの名前なんて興味がないもの。あたしの彼を奪おうとする悪い魔女だったから、やっつけただけよ。

 これで魔法が解けて、ようやく白馬の王子様があたしのもとへ帰ってきてくれるって、とても清々しい気持ちになれたわ。だから、あたし、その日は自分の家に戻ってから、とびきり腕を奮って、ご馳走を作って、わくわくしながら彼の帰りを待っていたの。


 けれども、彼は何故か帰って来なかった。あたしはその晩、彼の大好物のビーフシチューを作って、たくさんパンを焼いて、お祝いのシャンパンも用意して、ずっと待っていたのに、彼は帰ってこなかった。帰ってこなかったの。


 どうして? わるい魔法使いはやっつけたはずなのに、どうしてだったのかしら?なぜか街中に、パトカーのサイレンの音だけが、けたたましく鳴り響いていたのを覚えてる。あたし、ひと晩じゅう、窓から彼の姿を探していたんだけど、かわりに家の周りを歩き回っていたのは、背広を着た、顔の怖いおじさんばっかり。しかも、なんだかあたしの方をチラチラ見てるようで、すごく気分が悪かったわ。


 結局、朝になっても彼は帰って来なかった。家の中で、あたしは泣き叫んだ。悲しくて、悲しくて、もうわけがわからなくなって、持って帰った包丁で、自分の腕を何度も切ったわ。

 けどね、そのとき、腕から流れ出る血の、赤い色を見て、あたしはひらめいたの。彼がもう一度、あたしのところに必ず会いに来てくれる方法を。王子様と再び会うための、かぼちゃの馬車を用意する素晴らしい魔法を、思いついたのよ!


 ねえ、それって一体、どんな魔法かわかる?


 うん、その通りよ。さすがは先生ね!




 彼は消防士さんなの。だからもう一度、あの日みたいに大きな火事が起これば、きっと彼はあたしを助けにきてくれるに違いないでしょう?




 それでね、あたし、自分の家にあった毛布にライターで火をつけたの。



 めらめらと燃える美しい炎をうっとり眺めながら、ああ、これならきっと、彼がまた、あたしのところに来てくれるに違いない。王子様がまた、炎の中であたしを助けに来てくれるんだって、とっても嬉しい気持ちで一杯だった。


 炎は瞬く間に家の中へ広がって、柱や天井を焦がし始めたわ。あたしも炎に触れたせいで、全身がひりひり痛くなって、息も苦しくなり始めた。けれど、あの日も意識を失う前に彼が来てくれたのだから、きっと今回も、大丈夫だって信じていたわ。


 そしたらね、玄関を蹴破る大きな音がしたの。その時あたし、ああ、やっぱり彼が助けに来てくれたんだと思って、まさに天にも昇るような気持ちだった。


 だけど、家の中に入ってきたのは彼じゃなくて、昨日から家の周りをうろついていた、背広姿のおじさんと、警察の服を着た人たちだった。あたし、驚いて、それと同時に、とてもがっかりしたわ。でね、その人たちに向けて大声で叫んだの。違う、貴方たちじゃない、彼はどこ、彼はどこにいるのって。


 そしたら、突然その人たち、炎の中で無理やりあたしの腕を引っ張って、家の外へと連れ出そうとしたの。あたし、ここに居なくちゃ彼に会えないから、嫌だって言った。けれど、おじさんたちは、暴れるあたしの両腕両足をみんなで掴んで、強引に引きずっていったわ。彼みたいに優しく抱っこしてくれるんじゃなくて、悲鳴をあげるあたしをまるで物みたいにして、引きずっていったの。

 外へ引きずり出されてからも、あたしはまた必死で家の中へ戻ろうとしたわ。何故って、だってそうしないと、彼に会う為のかぼちゃの馬車が、消えてしまうじゃない!だから、あたしの腕を押さえていた人に噛み付いて、あたしは再び駆け出した。なのに、今度は羽交締めにされて、あの刑事さんがやってきて、あたしの腕に、銀色の手錠をはめたのよ!


 それから、やめてって何度も泣き叫んだのに、炎はやがて、そのおじさん達に消し止められてしまったわ。魔法が失敗したせいで、彼はついに、あたしを助けに来てくれなかった。ねえ、どうして皆、あたしの邪魔ばかりするの。どうしてなの。あたしは、あたしはただ、愛する彼と幸せに暮らしたかっただけなのに。毎朝あたしが、彼のお弁当を作ってあげて、お仕事行ってらっしゃい、気をつけてねって見送ってあげて、1月14日の結婚記念日には、お洒落なレストランで一緒にディナーを食べに行って、子供ができたら、休みの日に家族みんなでピクニックに出かけて––––––ねえ、どうしてそれを、みんな、みんな邪魔するのよ!ねえ!どうしてなの!!




 ……え?あたしが、結婚なんてしていない?先生、何を馬鹿な事を言ってるの?あの魔女が本当の妻だなんて、そんなはずがないわ。彼の妻はここにいる、あたしだもの!!




 だって、その証拠にほら!!あたしの左手の薬指には、彼から貰った結婚指輪が––––––––






 ……ねえ、先生。あたしの指輪、一体どこへやったの?






 お願い、返して。あれは彼から貰った、とっても大事なものなの。……返して。すぐに返してッ!! 無いはずがないでしょう!? 返して!! 返せ!! お前、よくも!! よくもあたしの指輪を奪ったな!! 殺してやる!!お前も殺してやる!!殺して、もう一度火をつけて、絶対に今度こそ、今度こそ……!! うふふ、あはは、そう、あたしはシンデレラ。もう一度、魔法をかけて、かぼちゃの馬車を用意しなくっちゃ。あはははははは!! ざまあみろ!! 死ね!! 死んでしまえ!! 彼との幸せを邪魔する奴は、お前も、あの女も、みんな全て丸ごと、燃やしてやる!! この、この…………














(鎮静剤投与指示)













 ……何よ、その注射。


 一体何をするの!? ひっ、うそ、やめて!! やめて、離して!! あなた!! 助けて!! █介さん!! █介さん!! お願い、助けて、嫌ッ、許して!!ご めんなさい、七美、良い子にしますから、痛い、痛いよう、やめて、お母さんごめんなさい、許して、許して、█介さん、誰か、お願い、あたしを助けて、たすけ––––––––












(鑑定中断)
















『██七美 精神鑑定結果


見当識障害、妄想、幻覚症状。

自身を███介の妻であると誤認している。

放火、ならびに███子の殺害について自供。

重篤な外的攻撃性を伴った興奮状態のため、鑑定中、やむを得ず鎮静剤投与。

自傷行為の痕跡も見られることから、措置入院の必要ありとの所見を認める。

幼少期の心理的・身体的被虐待経験が、精神形成に少なからぬ影響を与えているものと推定される。

また、脳波異常についても、202█年1月14日に受傷した後頭部打撲創が原因の可能性あり。

責任能力の有無については引き続き、本人の症状安定を待って再鑑定が必要なものと判断する。


以上

         

担当医師 ████』

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鑑定留置第八〇七号 あをにまる @LEE231

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