テセウスの人間
一縷 望
愛
町で一番大きな大学病院。その廊下を、ただならぬ面持ちで足早に歩く夫人が1人。
急いで病院まで駆けつけたのであろうか、羽織っているカーデガンは片方の肩からずり落ち、いつもなら黄金が背に沿って流れ落ちたかのように見える艶やかなブロンドヘアも、所々掻き毟られたかのように毛羽立っている。まともに化粧をする余裕さえ無かったようで、少し年季の入って血の気が失せた頬は、その絶望に平手打ちされたような表情と相まって、まさに「蒼白」と呼ぶにふさわしい色合いだ。
ことの発端は、たった数十分前。病院から、夫が事故に遭ったとの連絡を受けたのだ。
今朝、いつもと変わらぬ軽いキスをして送り出した夫。今まで、何千回も言った「いってらっしゃい」。
今朝の「いってらっしゃい」は、彼女の結婚史上、もっとも軽々しかったような、手抜きだったような……そんな気ばかりして、彼女は足を早めた。
祖母との久々の再会を喜ぶ子供や、大きな腹に命を抱えてゆっくりと歩く妊婦。そのゆったりとした、誰もがまどろむような甘い空気を、冷たく、鋭く切り裂くように急ぐ夫人。
この場所では、人間の不幸と幸福が最も近くひしめき合う。
発狂しながら走り出してしまいそうな気持ちを、抑え、どうにか集中治療室の前までたどり着いた。医者が待ちあぐねたように、いそいそと出て来て、夫人を刺激しないように何度も頭の中で推敲した「経緯」を早口で吐き出し始めた。
「ナサニエル夫人ですね? 結論から言いますと、あなたの夫、ナサニエル氏は、『ある意味では』無事です。というのは、旦那様の肉体損傷が激しく、自力では生命活動を維持できない状態のところを、機械臓器に繋ぐことで生かしているからなのです。──おっと! 奥様。ふらつくようであれば、そこに腰掛けて。そう、そして深呼吸──
安心してください。現代の機械臓器は優秀でして、事故で失った部分をそれで補えば、また普通に生活を送れるようになります。旦那様の場合ですと、体のほとんどを機械臓器へと置き換えることになってしまいますが……」
座り込んでしまった夫人は、石のように硬い情報を噛み砕いては嚥下し、その鋭い破片が食道を傷つけたかのような痛々しい表情と掠れ声で、医師に尋ねた。
「つまり、夫は
「はい。『生きて』います」
医者は淡々と答えた。
夫の眠るベッドの側へ移動した夫人は、その姿を見て「ぁあ……」とまた崩れ落ちそうになり、医者に支えられた。
夫人の知る夫──優しさの宿る小麦色の皮膚や、少し筋張った筋肉、不安な夜に顔を埋めたその胸に、微かに香ったジンの甘い匂い──それらの思い出は切り取られ、金属にツギハギされ、辛うじて『ヒト』の形を保っていた。
背後で医者が「この形は仮留めでして、もっと理想に近い形へ変えることも可能です。さらに……」と説明を続けるが、その言葉は夫人に届かず、宙に浮いたままだった。
夫人は、唯一皮膚の残る、しかし包帯だらけの夫の右手を握った。機械工で、黒い油にまみれながら毎日のように力仕事をしていた彼の手は分厚く、とても重い。力無く開く手の間に指を滑り込ませれば、数えきれないほど感じた彼の温もりが、同じように夫人の冷えた指を包んだ。
夫は
そんな確信が夫人の体に満ちた。
元の肉体は僅かに残るばかりで、脳からコピーされた意識が、合金の体を0と1のプログラムになってただめぐっている……そんな事実よりも、この手に感じる温もりの方が、何倍もの意味をもっていた。
数日後、昏睡状態から目覚めた『ナサニエル氏』は、妻との再会を喜びあい、カメラのシャッターのような目から生理食塩水の粒さえ流してみせた。36.5℃、人肌に温められたその水は、彼を抱き締める夫人の肩へ染み込んだ。
その後、合金の表面に人工皮膚を張り、生気の灯るようなほどリアルな眼球を嵌め込んだ『ナサニエル氏』は、動き、思考、言動、その他全てにおいて、ナサニエル氏そのものであった。
晴れやかな笑顔を共に浮かべた夫妻は、互いに寄り添いあいながら、病院を後にした。
それから数ヶ月後、夫人の手によって、『ナサニエル氏』は殺された。夫人曰く、「殺したのではなく『壊した』」のだそうだ。
事件現場で、彼女は、機械油の透明な返り血にまみれながら、千切り取った『ナサニエル氏』の右手──人間だった部分──を大事そうに抱き締めていたという。
テセウスの人間 一縷 望 @Na2CO3
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