木星またはホタルの卵
藤光
温子の卵
その絵にはこんなタイトルが付けられていた。
「木星またはホタルの卵」
大きな絵だ。100号はあるだろう。わたしの身長くらいあるその絵はギャラリーの壁にかけられていて、周囲の作品と訪れた観客たちを見下ろしていた。
立派な絵――。でも、どこが木星なのだろう。卵なんてどこにも見当たらないけれど。大きな100号キャンバスが、一面に赤茶けてごつごつとした地層のように塗りつぶされている様子は、木星というよりは火星の錆びた地表を連想させた。
わたしは美術予備校の仲間たちと都内のギャラリーで開かれている個展にやってきていた。
『たなべここ―具象と抽象―』
たなべここさんは、今日、この個展に誘ってくれた予備校仲間の真希ちゃんがいま追っかけているアーティストだ。たなべさんは、一般的な画材ではなく、建築材を主に使用して絵を描いている抽象画家らしい。より生活に密着した
「大作よね。100号」
「うん、大きいね」
わたしがいつまでも「木星またはホタルの卵」をぼおっと眺めているので、そばに真希ちゃんがやってきた。
「あたしもいつかこれくらい大きな作品つくってみたいな」
「へえ」
「あっちゃんは
「……うん。よく分かんなくて。抽象絵画って頭使うじゃない? わたしアタマ悪いから」
「自分のこと、そんなふうに言うもんじゃないよ。アレだね、あっちゃんは手でも頭でもなく、
真希ちゃんは優しい。予備校でいちばん要領が悪く絵も下手くそなわたしのことをいつも褒めてくれる、気にかけていてくれる。だからわたしも、彼女にだけは「ハートで絵が描けるわけないじゃん」なんてことを言ったりしない。真希ちゃんの悲しそうな顔は見たくないから。
「そんなに難しく考えなくていいわよ」
「ここさん!」
わたしたちが振り向くと、後ろにこの作品の作者、たなべここさんが立っていた。
「来てくれてありがとう、真希。お友達?」
「うん、同じ予備校に通ってる桝澄温子――あっちゃん」
何年も前からのファンだという真希ちゃんは、たなべここさんとも顔見知りだ。彼女とははじめて会ったけれど、黒基調のシックな服を着こなす様子や落ち着いた口ぶり、自信に満ちた態度に、いまをときめくアーティストのオーラを感じる。
「この絵を気に入ってくれたのね。ありがとう。でも、これそんなに難しい作品じゃないのよ」
素敵だな。
「ほら、見てて」
ここさんが、手に持ったリモコンを操作すると、ギャラリーの照明が次第に暗くなっていく。窓のない展示室全体がだんだんと暗闇に包まれていくのと並行して、壁に掛けられた「木星またはホタルの卵」がまるい光を放ちはじめた。
卵? でも……。
赤くごつごつした画面に重なって浮かび上がってきたのは、大きなまるい円。ああ、たしかに木星にみえるかも。ぼんやりと光を放つ円環にいくつもの層が浮かび上がっている。
「外壁用の蓄光塗料で描いたの。おもしろいでしょ」
「すごい。一枚の絵なのに二度楽しめますね!」
真希ちゃんが感嘆の声をあげた。
「すてきです。どうやって思いついたんですか? ホタルの卵って?」
「そうねー。木星が好きだからかな? なんでってわたしにも確かなことは分からないわよ。自分の中から湧き上がってくるものって、どこからやってくるのか、確かなことはわからないでしょ。わたしはそれをそのまま表現したいの」
でも、さすがにこの作品は大きいし、意図が理解されにくいから売れ残っちゃってるんだけどねといってここさんは笑った。
「ホタルの卵――はね。この『木星』。蓄光塗料で描いてるから部屋を暗くすると光るんだけど、ホタルって卵のときから夜になると光るのよ」
「へえ」
「卵って神秘的でしょう。木星となにかを孕んだ卵のイメージを重ねてみたの」
「卵の孕むなにかってなんですか?」
「さあ……なんなのかしら。わたし、うまく言えないのよ」
言えないからこそ、こうやって形のあるものに作っているのかもしれないわ――そう言ってここさんは目を細めた。
わかる気がする。ホタルの卵が孕んでいるもの。それは、ここさんが胸のうちに抱えたなにかだ。いつか生まれるときを待っている創作の種子だ。そして、それはわたしや、きっとみんなにも。
夕方まで個展会場にいて、それから姉の入院している病院へ向かった。「またきてね」。帰り際、ギャラリーの出入り口まで送ってくれたここさんが笑顔で手を振ってくれた。素敵な人。わたしもここさんのように生まれたかった。
産婦人科に着くと、父と母はすでに到着していた。
「ああ、やっときた。遅いよ、温子。赤ちゃんとの面会時間、過ぎちゃうじゃない、いったいこんな時間までどこ行ってたの」
「……個展」
「また、真希ちゃんと? お母さん感心しないわ、だってあの子ってばなに考えてるか、わかりゃしないんだもの。温子が美大を受験するなんて言い出したのも……」
「母さん、ここはそんな話をするところではないよ、やめなさい。それに温子も――もう少し時間のことを考えような」
「うん……、遅くなってごめん」
わたしの美大受験を反対している母がいつもの繰言を続けそうになるのを父がたしなめた。まったく、お姉ちゃんが赤ちゃんを生んだ日までこんな調子じゃ。赤ちゃんに会えるのをほんと楽しみにしてきたのに――うんざり。
一週間前、6つちがいの姉、莉子が赤ちゃんを生んだ。結婚して四年目ではじめてできた子だった。今日は産婦人科を退院の日。小さな男の赤ちゃんを抱いて、わたしたちの前に現れた莉子は、難産だったのよ大変だったとこぼした。たしかに疲れているようだったけれど、幸せそうな様子だったので安心した。
わが家の天使の登場に笑み崩れた母が、さっそく生まれたばかりの赤ちゃんを莉子から受け取った。「こんにちは、ばあばですよ〜」今日から母はおばあちゃん。わたしは……叔母さんかあ。まだ二十歳にもならないのにね。父がこれからの生活に必要なあれこれが入った紙袋を莉子に渡している。
臨月の莉子とは何度か会っていて、そのたびにまんまるに膨らんだお腹を触らせてもらっていたが、いまはすっきりと平らになってしまったそのお腹が不思議だ。赤ちゃんが入っていたんだなあと妙に納得してしまった。
「どうしたの温子。あたしばかり見て」
「あ、いや……莉子姉の平らなお腹みてると、やっぱりあそこから生まれてきたんだよなって感心してた」
卵、じゃないもんね。
「あいかわらず、ヘンなところに感心するね。ところで、お父さんのつぎは温子が抱いてみる?」
「え、いいの」
「当たり前よ。はじめての甥っ子を抱いてあげて」
お父さんから手渡された赤ちゃんは小さかった。壊れてやしまわないかと心配になるほど柔らかかった。命を抱いているのだと思った。
こんにちは、赤ちゃん
わたしが叔母さんよ
生まれてきてくれて――ありがとう。
わたしのなかの木星
またはホタルの卵が輝きはじめた。
木星またはホタルの卵 藤光 @gigan_280614
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