天気イコール私の心

希音命

第1話 半熟目玉焼き

 私の家じゃない匂いがする。


 ふっと目を覚ましたのはまだ慣れない匂いと、目を閉じていてもわかる明るさが気になったから。


 急いで開けた私の瞳に映ったのは、海がよく見える、バルコニーへのガラスの扉。お姫様の部屋にあるようなひらひらの白いレースカーテンの先には、青い海があるはず。


 ごろりと体ごと天井を見ると、きれいな木目。木を基調とした、私の部屋。


 いや、厳密にいうと私の部屋だけど、人の部屋だった部屋。



 そっか。


 私は捨てられたんだよね。



 カーテンで隠れている空を見るために、昨日よりも重くなったような気がする体を無理やり起こして、頭の後ろにある窓のカーテンをチャッと開ける。

 うっと目を細める必要もない。

 昨日のように目がチカチカする空が待っているのかと思いきや、どんよりとした空模様だった。駄々をこねて話をきかない子供のように、いつまでも居座ろうとする黒い雲。


 だから体がだるいのか。


 天気を確認できた安心で、ぐんと後ろに体重がかかった。ぽす、となんでもないように体重を受け取ってくれたベットへお礼と言わんばかりに、すりすりと冷たくて気持ちいシーツに頬を寄せた。


 やだなぁ。


 こんな天気の日には、気分が落ち込む。なにより、私の心を現してていや。


 こんな日にいいことなんか起きるはずもなければ、いい妄想ができるわけでもない。


 はぁっと息を漏らした。漏らしたくなくても、とまることを知らない二酸化炭素は私の体で何度もつくられて、何度も空気に溶けていく。


 この二酸化炭素みたいに、私も普通の社会に溶け込めたらな。


 叶わない願いなことを知ってるくせに、自分で自分に呆れながらも願いを込めてもう一度目をつぶった。


「空ちゃーん。起きてる? もうお昼前だよー。」


 くぐもった声が聞える。


 私だけの空想の中にいる、優しいお母さんが言っていた。


 これも、妄想の一つか。いい加減、幻みたいに目に見えるのやめてほしい、私の妄想癖め。恨む。


 ああ、でも、それじゃないと大好きな小説が楽しめれない。やっぱり取り消し。妄想大好き。ありがとう。


 さっきの声も妄想の世界だと思って、もうひと眠りしようとぐっと目をつぶる。


 けど現実の世界だったらしくって、起こしに来てくれた人——青希さんにぽんぽんとおなかをリズムよくたたかれて目が冴える。


「あれれ、体調悪い? そっかあ、今日曇りだもんね。頭痛い? 雨ふってきちゃうかなあ。」


 お薬、お薬、とベット脇のサイドテーブルに青希さんが手をのばす。


 なにもないから、おきなきゃ。


 使命感に駆り出されて、重い体を引きずるように持ち上げる。


「あの、なんにもないから……。えっと、気にしないで、ください。」


 うまく出てこない言葉にもどかしさを感じながらも、今できる一生懸命で声を出す。


 顔は見れなくて、もじもじと足の上で遊ばせていた手を見つめる。


 指を組んだり、離したり、一本の指をつかんでひっぱったり。


 そしたら青希さんは怒ることもなく、変に同情をすることもなく、温かい手で頭を撫でてくれた。


 そのままおでこのほうに動いていって、数秒動かなくなる。


「そっかあ。お薬大丈夫そうだね。熱もないし。朝ごはん食べれそう? 今日はねえ、空ちゃんが好きな半熟の目玉焼きもあるよ。」


 いつもは忙しくってそこまでできないけど、今日は時間があったから! と嬉しそうな声が耳に届いた。


 目玉焼き……へへ、やったぁ。


 中学生ながら小さな子供のように好きなものがあると喜んでしまう。誘惑に弱いんですうー。


「じゃあ、ごはん食べにいこっか。」


 しっかりと見たことない顔が、きれいな笑顔を向けてくれた気がした。


 パジャマのまま、寝ていた寝室から出て一階におりる。


 ふんわりとしたおいしそうな匂いに、勝手に頬が緩む。私は犬かと我ながら思う。


 抑えることのできない嬉しさに、足取りが軽くなる。ゔ~……不可抗力。


「……いただきます。」


「はい! めしあがれ!」


 ゆるく手を合わせて合掌すると、真正面からの嬉しいオーラが届いて、全身に染みる。


 私は、青希さんの顔を見たことがない。


 見たことがないと言ってら嘘になる。お母さんが私をここに連れてきたときに、ちらりと横顔を見た。


 横に流してある長い前髪のせいでよく見えなかったけど、茶髪で深い碧い瞳だったことだけは記憶に残っている。髪の毛の長さとか、体格とか、身長とかはなにもわからない。記憶に残ったのは茶色と群青。たったそれだけ。


 怖かった。


 なんでかわからないけど人が怖くて、顔を見るのも怖くて、せっかく入学した中学校にも行けなかった。もともとぜん息で体が弱かったから、それを理由に引きこもりがちになった私。それを見かねたお母さんがこの家に放り込んだ。


 住んでいた都会の町からはかけ離れた、おとぎ話のような緑あふれる村。


 見たことないくらいきれいな川。

 その中にいるのが見える、魚たち。

 あおあおと茂る木々。

 昔からあったんだと思わされる古ぼけた学校。

 一家に一つはあるといてもいいほどみんな持っている、大きさそれぞれの畑。

 家の目の前に広がる、浅さと深さでできたグラデーションがきれいな海。

 虫はいっぱい出るし、前の家より寒いし暑い。


 知らないことがいっぱい。新しいこともたくさん。


 半熟卵に箸を伸ばす。


 ぱっくりと卵の黄身を割くと、とろりと流れ出てくる。いいな、私もこんな風に素直に想いを伝えてみたい。


 もちろん都会にいた時のみたいに外食に行く機会もないけど、畑でとれた新鮮な野菜がおいしいし、自分の気分がいいときは友達のいない学校だって行っている。何不自由なく暮らさせてもらってる。前の家よりもいい環境だと自分でも思う。ネットの世界がなくても楽しいし。


 ここにきて三か月くらいたつのに、お母さんは手紙の一つもくれない。


 始めのうちは私だって何回か送ったのに、その返事すらくれなかった。ちょっと酷いと思わない?


 そんなお母さんよりも、まだ会って三か月しかたっていない青希さんのほうがずっと好きだ。


 医者としてのお仕事もして、お家のこともして、私みたいなののお世話までしてくれる人。時間があればかまってくれる素敵な人。もっと知りたいって初めて思った人。


 私のペースに合わせてくれるこの人は、とってもすごい人だ。


 もぐもぐとゆっくり食べている私に対して、青希さんはもう食べ終わったみたいで、「ごちそうさま。」と言ってからお皿をもって立ち上がった。


 いそいでたべないと。めいわくかけちゃだめ。


 急いで残っているごはんを口の中に押し込んで、うつむきながら手を合わせる。


「……ごちそうさまでした。」


「はあい。おそまつさま!」


 お皿をもって立ち上がろうとすると、ぱっと横から手が出てきてお皿が目の前から消える。


 えっ、と驚く暇もなく青希さんは私の分まで片付けてくれていた。


「なんかふらふらしてるから、もう一回寝ておいで。私は仕事でお家空けちゃうけど、鍵さえ閉めてくれれば学校とか図書館とか行っていいからね。」


「あっ、ありがとう、ございます。」


「はあい。」


 お言葉に甘えてもう一度寝よう。


 二十分くらい前に降りた階段を、今度は上って部屋に向かう。


 ドアを開けてベットに身を預けると、また私に眠気が襲ってくる。ごはんを食べて、おなかが満たされるとやっぱり眠い。人間の抜けられない不のループ。


 ああ、ちょっと待って。もうちょっと本の続き読みたい。


 サイドテーブルの上に置いてある本に手を伸ばす。


 前の家から持ってきて、ここにきても何度も読んだ。読みすぎて、この本が一番手にしっくりくる。


 親指で飽きるほど見た表紙をするりと撫でる。


『思い出のマーニー』


 心を閉ざした女の子——アンナが田舎で出会ったマーニーに心を開いていく物語。


 何回読んでも飽きない。むしろ、楽しい。


 なにしろ、私と境遇が似すぎている。


 ぜん息で、都会から田舎に来ていて、友達がいない。ね? 似すぎじゃない?


 でも似ていないのは、友達ができないこと。


 ここに三か月いるというのに、友達の一人もできない。まあ、無理もないんだけど。


 学校に行っても保健室にいたり、図書室に潜り込んでいたり、人と会わない。青希さん以外で言葉を交わした人といえば学校の先生とか、図書室の先生とか。そのくらい。


 ろくに教室に行かないせいで、私が転校してきたことを知らないクラスメートが多いと思う。


 教室に行けないから授業中は図書室を訪れて、休み時間は保健室に逃げる。


 だから友達ができないんだけど、怖いものは怖いんだ。


 きゅっとシーツを握る。


 窓から差し込んでくる一筋の光に、起きたら図書館にでも行こうか、と考える。


 図書館に行って、本を読んで、あ、紙と筆記用具も持ってかないと。学校は行かなくていいや。


 これから起こるであろう未来に思いを馳せながら、もう一度強く襲ってきた睡魔にあらがうこともなく、すっと意識を飛ばした。

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