第2話 海辺の隣、私が独り。
チュンチュンと鳥のさえずりが耳に響く。んふふ、久しぶりにきいたなぁ。ほんとにいい音色。
起きたら朝みた空とはかけ離れた、見事な快晴。なにかの前触れかと思わされるくらい、白い雲一つない青空。
ルンルン気分で適当な服に着替えて家を出てきた。もちろん鍵を閉めるのも忘れずに。
右肩にかけたトートバックをゆらゆらと揺らす。中から、かちゃかちゃと鉛筆同士がぶつかかり合う音がした。それすらもいい音に聞こえてくる。
上機嫌で軽い足取りがもっと軽くなる。
そうだ、今日は海の近くの道を通っていこうかな。
三か月経った今でも通ったことのない、海辺の道。
青希さんがいいところだと、初めてきたときからずっと絶賛していた。曰く、隣に広々とした海が見えて、反対側には緑が見える、と。
青希さんの話を聞いただけで迷うかもしれない。知らないことと出会ってしまうのかもしれない。
でも今日は晴れだから。なんだってできる気がする。
いつもは真っすぐ進む道を右に曲がって、海の方向へ迷うことなく突き進む。
いつもの道から外れて五分くらいたったのかな。
迷うかもなんて不安は吹き飛んだ。驚いて、足も止まる。
私が立っているまっすぐな一本道。その真横におとぎ話のような海が広がっていた。
きれいな弧を描いた水平線。ボートが括り付けられている杭。多分、ボートの所有者の家。見るだけでもわかる、さらさらの砂浜。
まって、ここって。
まさかと思ってトートバックの中を探る。
見るまではわからない。けど、どこか不安定な確信がある。
見つけ出した本をペラペラとめくって、腕をいっぱいに伸ばして、海と並べる。
「やっぱり……!!」
思い出のマーニー。
その本の挿絵と驚くほど似た光景が広がっていた。
違うところといえば、原っぱが砂浜になっているのと、湖が海になっているくらい。惜しい、と思いつつも、似た光景が見れてニヤニヤを隠せない。
嬉しい。外に出てよかったあ。
ざぁっと塩の匂いを孕んだ風が、服に忍び込む。ふふ、くすぐったい。でもそれ以上に、
「きもちぃぃ……。」
すーっと全身を使って息を吸って、はーっと全身を使って息を吐く。楽しい。
初めての感覚に鳥肌が立つ。
ここで、今日はやろうかな。気分転換でいいでしょ?
「ん~。」
ぐぅーっと伸びる。丸まっていた背筋がぴーんと伸びて、自然と姿勢がよくなった気がする。
ぶろぉぉぉおお——キキィィィィ——
古い車の音がする。
後ろを振り向くと、赤い車が数メートル先で止まっている。
窓が開く。怖くなってうつむいた。
その人は私に向かってしっし、と追っ払うように手を動かす。ギリギリ視界に入ってきて見えた。
なにしてるんだろう……と考えていると、その人は足元を指さした。
はっとして、瞬きをパチパチと数回繰り返してから足元を見ると、私の足は白い線を超えていた。すれ違えるかどうかも曖昧な細い道だから脇によけないと行けないのに、車がこなさ過ぎて考えていなかった。
一歩後ろに下がると、手をひらひらしながら行ってしまった。
平和ボケした……?
都会のほうだと、こんなことしようものなら轢かれていたと思う。
はぁ、こわかったあ。肩の力が抜ける。
海のほうに顔を向けるとさっきの不安が取り除かれる。本当にきれいな海だ。
今、立っているのは階段の上。
海の近くに行くために階段を下る。
一歩踏み出すとすみっこのほうに虫が集まっていて、
「わっ。」
と声を出しながら、急いで下る。
なんとかようやく浜辺にたどり着く。足を砂につけた。
さらさらとした砂が足にまとわりつく。足が砂に飲み込まれてしまわないようにしなきゃ。
ぐるぐると見渡すと、上からみた景色に劣らないくらいきれいだ。
散策ついでにボートのある方向とは反対に進む。
ざあざあと波が押し寄せては引く。きらきらと光る海面が、まるで宝石がちりばめられているかのよう。
その冷たそうな水の中に、足を踏み入れたい。
逆らい難い欲が頭を占領した。
炎天下、までは言えないけど、今日だって夏を目の前に控えた梅雨だ。それなりに暑い。
でもカバンはどうするんだと、純粋な私が誘惑する私に問う。
じゃあ置けばいいじゃん。
その答えにたどり着いて、私はきょろきょろと辺りを見回す。
砂浜よりも少し高くなったところに、私に使ってくださいと言わんばかりなベンチ。ありがたく使わせてもらおう。
ベンチの上にぽんとトートバックを置く。履いてきたスニーカーは手に持った。靴下はスニーカーの中に突っ込む。
真っすぐ海と向き合う。
広くて広くて、どんな悩みでも簡単に打ち明けてしまいそうな一面の青。空との境界線がわからない。でもそれくらいきれいで透き通る青なんだ。
ゆっくりと、バージンロードを歩く新婦さんのように、初めての感覚を体に覚えさせようと、踏みしめて進む。
水の中にやんわりと、くるぶしくらいまで足を踏み入れる。表面はあったまっているけれど、爪の先くらいの深さになると、水道水よりもはるかに冷たい。
小さい波が私のもとへ寄ってくる。楽しみすぎて、一歩前に出た。風がそよぐのにつられて、手に持ったスニーカーもふらりと傾いた。
ざあーざあー、と波が揺れる。
私の足元に寄ってきては引いていく波が面白い。
遠くから波がまた来た。
何回もあきずに来ては帰る姿が面白くって、ふふっと声が漏れた。
私の気持ちみたいだな。
だってそうでしょ? 私の心がいろんな理由で揺らぐように、波も月の力で揺らぐんだ。
ひときわ大きな波が私の足を飲み込んだ。
そのとたん、お花畑みたいに明るかった私の頭の中に、一ミリも芽生えていなかった恐怖が私を襲った。
飲み込まれてしまいそうな海。海なんかよりも何倍も大きい空。
波に連れ去らわれて、帰ってこれなくなったらどうしよう。
ぽつぽつと黒い雲が空に浮かぶ。
さっきまではあんなに美しく、きれいに見えていた景色が、どんどん不気味に見えてくる。
——にげなきゃ。
そのことだけが私を身体ごと支配して、自分の意志なんて関係なしに走り出した。
手に持ったままだったスニーカーも、具材を焼くためだけに用意されたフライパンみたいに熱いコンクリートに素足をのせてから気付いた。靴下を足に被せる余裕もなく、裸足のままスニーカーに足を突っ込んだ。
ベンチに置いておいたトートバックのことなんてすっかり頭から向け落ちていて。
行く先なんて考えられない。今ある体力をすべて使って走った。
ふらりと雲のごとく現れた人なんて、そのときの私には見えなかったんだ。
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