第3話 紅の男の子

 この辺りで、ひときわ大きい建物へ逃げ込む。

 勝手に開けてくれた自動ドアの間を身をひねらせるようにしてすり抜ける。外とかけ離れてひんやりとした空気に、少し頭がくらりとした。

 痛くなんかないし。大丈夫。

 自分の不調なんか素知らぬ振りをして、何もなかったように大きな建物へ入り直した。

 キャーキャーと嬉しそうに騒ぐ子供の声が聞える。子連れのお母さんがベビーカーを押して外へ出ていった。

 ここは、私の大好きな場所。図書館。

 入口の正面にカウンターがあって、何度も開いては閉まる自動ドアに嫌気をさした女の人が、いつも出迎えてくれる。

 めんどうくさそうにだらだらと仕事をこなすこの人も、本を探すとなったら目が変わる。というか人が変わる。どんなに古い本でも有名じゃない本も、聞けばなんだって教えてくれる。結構私はこの人が好き。愛想さえよければだけどね。

 特に話しかけることもなければ、相手から挨拶されるわけでもない。図書館の人にとっては常連客なはずなんだけど、私にとっては好都合でしかない。

 哀れみと感謝を込めて、軽く頭を下げた。女の人は私に気づかずに、パソコンの液晶画面と向き合っている。

 よくわかんないけど、いつもの空気に安心して、いつのまにか入っていた肩の力が抜けた。

 肩から掛けていたトートバックを掛け直した——つもりだった。

「えっ。」

 いくら肩回りをぺたぺたと触ってみても、紐らしきものはどこにもない。

 トイレに駆け込んで鏡を覗き込んでも、トートバックは影すらも見えない。

「あ。」

 そうだ。

 ベンチに置いて、海に入って、それで。

 さああああ、と鏡の中の顔が青くなった。

 誰にも見られたくないのに。

 誰にも知られたくないのに。

 誰にも、聞かれたくないのに。

 大切なもの、なのに。

 取りに行かないと。

 あの場所にいくには気が引けた。

 カタカタと手が震える。怖いんだ。あの飲み込まれてしまいそうな海が。誰も周りにいなくて、助けてもらえない、まっさらな浜辺が。夢と現実が混ざりあってできたあの場所には、もう行けない。

 もう無理だ。あきらめないと。

 あんなに大切だと自分に言い聞かせていたものを取りに行けない自分が嫌になった。

 ゆっくりと足を動かす。だって早く動かそうとしても、動いてくれないんだもん。私は……。

 二階に上がる。いつもの窓際の、一番奥の特等席。お気に入りの席なのに、なぜか今日は座らなかった。座らせてくれなかった。その席から離れたくて、窓から一番遠い席に座る。

 ぼけーっと、瞳にかすみがかかったようだ。前がかすんで見える。遠くの景色を、何も考えずに眺める。なにも情報なんて、一欠片も入ってこない。でも、頭がふわふわして気分がいい気すらしてくる。

 体は思うように動かなかった。

 それでもいいと思ってしまう私が、私の中にひっそりといた。


 私は小説家になりたいんだ。

 叶うはずもない、淡い夢。私はあきらめているフリをしながら、ひっそりと書いてきた。青希さんも知らない秘密。

 あのカバンにいれていたのは、一冊のノート。

 群青に十の文字で紅色のラインが入った、アメリカみたいなノート。

 あのノートに想いと、私の世界を書きつづっていた。

 ただ楽しかった。

 あれだけの時間をかけて、あれだけの後悔をして、私に残った感情はたった一言で終わる。楽しいことは否定しないけれど、もっと思うことないのって自分に呆れる。

 私は私が嫌いだ。


 ゴーンゴーンと、五時に鳴る鐘の音がする。

 図書館が閉まる一秒前まで中にいた。

 外に出るのがおっくうになって嫌だったけど、あの女の人に追い出された。心配してくれたんだろうけど、今の私を心配してくれるならもう少し置いておいてよ。なんてね。

 あの場所にもよった。

 夜だから見えなくって。暗いからもういいやって思っちゃって。ベンチに近づいてなかったから、いいやって思った。

 青希さんにも言ってない秘密。誰にも見つかりたくないのに。海にでも沈んじゃえばいいのに。

「おい。」

 ふいに後ろから声を掛けられて、足が止まる。

 誰に話しかけられているのか怖くて、顔を地面に向けた。

「おい。」

 乱暴な声でもう一回、殴られるように声が降りかかった。

 走って逃げればいいのに、足がすくんで動いてくれない。

 なんで、なんで今日はこんなについていないの。

 なんでこの道を選んだんだろう。車道から外れた一本道。隠れる場所も、街灯も、助けを呼べる家もない。なんの野菜を育てているかもわからない畑。茶色に囲まれた道の上に、ひとつ、またひとつと小さくて丸いシミができる。

 こぼれ落ちていったコレがなんなのかがわかると、現実を飲み込んでしまいそうな私がいて、余計に怖くなった。

 道に落ちている小さな石ころや土の粒が、ぐにゃりとゆがんだ。目をきゅっとつむった。

 こっちに向かってくる足音がする。

 ガンガンと頭のすみずみまで警報音が響きわたる。重かった頭が、またずっしりと重みを増した。

 ねえ、なに。なになに何なに。

 薄く平たく広がっていた雲は、国語辞典みたいに分厚くなっているのかな。青い空も、真っ黒に染まっているに違いない。

「おい、そこのお前。あーっと、舞広空。」

 どきりと心臓が飛び跳ねる。目を見開いた。

 この人の口から出てきた名前は、正真正銘、私の名前。なんで名前……知らない人、だよね?

 誰なのか、顔を見て確かめたいけど、うまく体に力が入らない。

 振り返ることすら怖くて、ただ黙りこむ。

 とうとう目の前が真っ暗になった。あれだけガンガンうるさかった警報音がいっせい止む。

 どん、となにかにぶつかった痛みが少し遅れて体中をめぐる。その後を追って、誰かの走っているような足音が聞えた。

 ゆさゆさと体を揺らされる。

 うっすらと開いた瞳の中に、数滴の雫が入り込んだ。雫ごしに見えたのは、きれいで濁った瞳の、紅色の男の子。同い年くらいかな。あ、また雫が。

 ああ。

 雨が降り出した。

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