第4話 天気の心。私の天気。

 ゴロゴロゴロ。

 真っ暗な世界の中。猫が喉を鳴らしたような、小さくて不思議な音が聞える。バスタブにはられた水の中に頭から潜って、外の音を聞いている感じ。リズムが正しいわけじゃないし、好きな音っていうわけでもない。だけど、この音が妙に心地よかった。

 ふわふわとした意識の中に、耳に刺さるような低い音が私とゴロゴロの音の間に割って入ってきた。大きくて、低くて、短い音が何回も、何十回も襲ってくる。

 無意識のうちに、手に力が入って、薄っぺらい布をつかんだ。……つかんだ?

 真っ暗だった世界が一瞬にして光った。暗闇にいたのに、目の前をライトで照らされたような、そんな感覚。

 それを意識したら、今度は頭の中がガンガンと一定のリズムで鐘の音が鳴り響く。頭が痛いときみたいな音じゃないけど、これはこれで嫌い。

 音が落ち着いてから、ようやく目を開けた。

 ぼやけている世界。何度もぱしぱしと瞬きを繰り返していると、だんだん世界がくっきり見えるようになってきた。

 口の中が渇いていて、ぱくぱくと魚みたいに口を動かした。何回にもわけて空気を飲み込む。なにか意味があるわけじゃないけど、なんかやりたかった。

 ようやくここが、青希さんの家だとわかって、安心した。

 いつも青希さんが使わせてくれる、もう私の部屋と化した箱の中で、私は寝かされていた。

 起き上がって自分を見る。

 外に出た時に来ていた黄色のロングTシャツと、わりと最近買い直してもらった黒のパンツ。ではなかった。夏用の、薄いパジャマだった。

 ああ、またやっちゃった。

 勢いよく寝転んで痛い頭に響くと嫌だから、ゆっくりとベットに体を沈めた。


 私の心は、天気と同じだ。

 そう気づいたのはいつだったか。朧気だけど、小学校中学年くらいだった気がする。気がするだけね。そのことに気づいたときの記憶もあいまいで、よくわからない。

 それでも目を閉じればまぶたの裏にこびりついている、いくつもの空。

 雨の日特有の真っ暗な空をバックに、身体にまとわりついた服と一人寂しく佇んでいる桜、それからしたたる雫。雫が髪の毛からすべり落ちて波紋が広がる湯船の中から窓越しに見た、星一つないブラックホールみたいに吸い込まれちゃいそうな夜空。雨を降らそうか降らさないか、神様が迷っているようなどんよりとした曇り空。

 そしてここに引っ越す前に、最後に東京で見た雲一つない空。憎たらしいくらい、せいせいとした、青々とした空だった。

 あの空だけ、私は理解ができなかった。あの場所から逃げるということは、お母さんを棄てたていうことになる。あのとき私は絶対に悲しんでいた。泣きたかった。泣きたいから、雨が降るはずだった。天気のせいで頭が痛くなるから、頭が痛くなるはずだった。なのになんで。

 なんで。

 無性にむしゃくしゃして、なにかを壊してしまいたい。そうだ、ノート。海に置いてきた、群青と紅色のラインが入った、あのノート。あれをびりびりと破きたい。シュレッダーにかけられた雑紙なんかより、もっと小さく細かくして捨てたい。

「あああ。」

 頭をぼりぼりと掻きむしる。

 声なんて、自分でもなんて言っているかわからない。意味のない母音たちが勝手に口から飛び出していく。

 ぼーっと、静かに、独りでいたかったんだ。冷静になれる時間が欲しかったんだ。

 ざあざあと雨が降り出して、私は濡れた。身体がまた、重くなった。目を腕でおおう。

 急にひんやりとして、温かい手が私の額に触れた。

 絡まった紐があっという間にほどかれていくみたいに、私の中の熱が溶かされて、洗い流されていく。

「空ちゃん。起きてる? おでこ、熱いね。熱も出てきちゃったか。冷たいの持ってくるからね。ちょっと待っててね。」

 青希さんだ。

 仕事のときみたいな声だ。いつもの語尾がふんわりと伸びている口調じゃない。仕事終わりなのかな。仕事終わったのに、仕事の声してる。ごめんなさい。

 私に触れている腕がふわりと持ち上がった。

 や、はなれちゃだめ。

 瞬間的にそう思った私は、頭を使うよりも先に体が動いた。

 青希さんの腕をつかむ。いかないでと伝わるように、ぎゅうぎゅうと握った。立ち上がるのにぶらりと力が抜けていた腕が、もっと力をなくす。

 ああ、腕に赤い跡ができたらごめんなさい。でも、まだいてほしいの。いなくなってほしくないの。

 ギシィとベットが軋む音がした。きっと隣に青希さんが座ったんだ。

 頭を両手で優しく撫でまわされて、心地いい。夢見心地だ。

「えへ、なあに、どうしたの。空ちゃん、今日は甘えたさんだねえ。」

 ぐりぐりと頭を押し付けた。

 どこにもいってほしくなかった。

 さっきはあんな、独りになりたいなんて大口叩いていたけれど、人肌がたりなかったのかも。

 不安がいっきに全部取り除かれた気がして、気になっていたことが口をついた。

「カバン……。」

 大切で、見捨ててしまった、あのノートが入ったカバン。今、どこにいるんだろう。

「あ、そうだ。カバンね、男の子が届けてくれたよ。空ちゃんのクラスメートです、って言ってた。すごく真面目そうな子だったよ。空ちゃんを雨の中、おぶってうちまで連れてきてくれたの。学校の帰りだったみたい。」

 男の子……?

 そうだ、あの紅色の瞳をした男の子。なんだ、クラスメートだから名前を知ってたんだ。そうだったんだ。

 雨音がだんだん小さくなってきて、頭の痛さも少し引いた。

 というか、私をおぶってきたって言った? 私の体重重いのに、すごいなあ。お礼、しないと。

「もう一回寝ちゃえば? 起きたら治ってると思うよ。」

 ぽんぽんとあやされて、しだいに涙が出てきた。

 ごめんなさい、ダメな子で。ありがとう、愛してくれて。

「うん、寝る。寝ます。」

 うっとりとしたような目で青希さんを見つめてみた。

 分厚い水の膜に覆われていても、青希さんは美しかった。

 しっかりと見えているわけじゃないけど、水の中の青希さんはきれいに笑った。驚いたように、目が大きくなってから。

「うん、そのほうがいいよ。」

 額に温かい手が触れて、「はう」と声が漏れた。動物が喜んだときに出る声に似てる。

 本当は、ちっとも眠くなんかない。私は、今の私がしたいことがしたいんだ。

 今すぐにノートを開きたい。シャーペンを握りたい。書きたい。私が想う世界を描き続けたい。

「ひとりで、寝れる、寝れます。大丈夫だから、下行っていいです。」

 カタコトの喋り方になってしまったけど、許してほしい。こんな喋り方をしないと、今私は声が出せない。それほどまでに、喉の奥深くから、腹の底から、この弱々しい声を絞り出しているんだ。

「本当? 大丈夫?」

「うん。大丈夫、です。」

 心配そうな声を出しながらも、青希さんは私の気持ちをよくわかってくれる。

 一人になりたい時も、落ち着きたいときも、空気を読む力があるのかわからないけれど察してくれる。

 心配そうな顔をしながらも、私が起きた時よりもずいぶん明るい顔つきで青希さんは部屋を出ていった。

 ドアが閉まるやいなや、私はカバンの中からのノートを出した。

 ページなんて、考える余裕がなかった。書いて、書いて、書いて、書く。自分の世界を、想ったことを、全部全部ノートに書きなぐった。

 雨が弱まる。窓に打ち付けられる水の音が目立たなくなる。

 ノートの隙間から、一枚の紙がひらりと宙を舞った。

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