幕間

君の名は

「どうして! またこうなるわけー!?」


 そうボヤいた十六歳の少女は耿嫣こうえんあざな小恬しょうてんと言った。幽州ゆうしゅう遼西りょうせい郡は、臨渝りんゆ県の地方貴族出身の令嬢……、と言えば聞こえはいいが、耿家で生き残っているのは女子である小恬ただひとりで、実質すでに没落していると言っていい。しかも世は胡族こぞく(北方騎馬民族)が各地で割拠する乱世である。

 彼女は名門貴族に、叶うならばしん朝の後宮に入る事を望んで、江南こうなんに遷都した晋朝の都・建康けんこうへと向かおうとしていた。


「さすがにどちらの味方でもない状態で戦場に向かうわけにもいかないだろう」


 そう正論で返したのは、破多蘭バトゥラン・烏倫摩蠡ウーリンマラール、通称は暁鹿ぎょうかという、やはり十代後半の、胡族の女戦士である。

 親戚筋に当たる鮮卑せんぴ族・慕容部ぼようぶの援軍として辺境の地である平州へいしゅうでの戦いに参加し、その過程で小恬と出会った事で、こうして共に旅をする事になった。

 馬術、弓術、剣術とひと通りの武術に長け、並みの男なら敵ではないほどの腕を持つ。そして五族混血という特異な出自である事から胡族の言語はひと通り話す事が出来るが、一方で読み書きは出来ず、漢人の常識にも疎い。

 座学での知識を詰め込んだ代わりに武術は元より運動の類は一切ダメな小恬とは、互いの欠点を補い合える、良き相棒となっていたわけだ。


 二人は現在、幽州に立ち寄った流れで小恬の生家にいた。

 屋敷はまだ生活感が残っているが、もはや家人のいない空き家となった以上、時と共に朽ちて廃屋となっていくだろう。

 一度旅立った小恬としては、既に未練を断ち切ってはいたが、何の因果か再びここに戻ってきてしまった。

 遼東に出向いていた以上、再び幽州に逗留するならば、勝手知ったる生家に泊まる方が都合がいいというだけなのだが、生まれた頃より暮らしてきた家である以上、目に映る物が色々な記憶を呼び起こす事になる。

 あまり長く居ては、せっかく断ち切った未練が再び湧き出してくる可能性もあった。

 そうした事情から、一晩の休息を取った後に、颯爽と旅立とうとした小恬に対し、暁鹿が近くを通りがかった旅人から噂を聞いてきたというのである。

 当初の計画としては東海岸沿いに南へと進もうとしていたのだが、どうにも予定していた経路が戦場となっているそうな。


 先の平州における慕容部と三部族連合の戦いは記憶に新しいが、そんな連合に参加していた鮮卑族・段部だんぶの内紛がまさにその地で行われていた。

 段部の首長である段末波だんまっぱは、自身が首長の座に座る為に、対抗馬となる親族を根こそぎ粛清したという過去を持つ。そんな親族の生き残りとも言えるのが段匹磾だんひっていである。

 段末波は冀州きしゅうの支配者である趙王ちょうおう石勒せきろくに帰順し、幽州の統治を任された。一方で段匹磾は冀州の南東部にある楽陵らくりょうに陣を構えていた。

 つまり幽州から、冀州の海岸沿いにかけては、この段末波と段匹磾の軍がぶつかる戦場へと変わっていたわけである。


「海岸沿いがダメだと言うのなら、西に逸れて内陸部を進むしかないが、そうなると襄国じょうこくぎょうに近づく事になるな」


 暁鹿の言った二都市は、ともに石勒の支配する冀州の中心都市である。そうなれば石勒とその配下が率いる石家軍と遭遇する確率は高くなる。

 だがそんな石勒はこの時期、四方に敵を抱えている状態にあった……。




 石勒はもともとけつ族と言う少数民族出身である。彼が若い頃、羯族は漢人たちから奴隷として扱われており、彼もまた少年時代を奴隷として過ごした。

 その生活から逃亡した彼は、仲間と共に盗賊団を結成するのだが、匈奴きょうどの王・劉淵りゅうえんが「かん」を国号に独立して晋朝に反旗を翻した際、その軍門に降ったのである。

 しかし、晋朝を華北から叩きだす事に成功したものの、求心力のあった劉淵が亡くなった後は、匈奴漢の内紛が起こり、その内紛を制して領土を二分したのが冀州一帯を治める東の石勒と、長安ちょうあんを本拠にして関中かんちゅう一帯を治める西の劉曜りゅうようである。


 そして華南に押しやられていた晋朝は、そうした匈奴漢の分裂を華北奪還の好機と捉え、忠義の名将・祖逖そてきを任命し北伐を開始。

 首都・建康から出発し長江を北に渡って進軍する祖逖の矛先は、堅牢な山々に囲まれた関中に籠っている劉曜では無く、豊かで開けた中原を支配している石勒に向けられる事となった。

 こうして石勒は、西からは劉曜、南からは祖逖という、絶対に相容れぬ敵と同時に当たらねばならぬ状態にあった。


 そんな状況で味方を求めた石勒は、北西部の砂漠地帯を治める鮮卑族の最大勢力・拓跋部たくばつぶと縁を結ぼうとするも、拓跋部の首長である拓跋たくばつ鬱律うつりつは、石勒からの使者を切り捨てて無視。劉曜や晋朝と連携する動きこそ見せていない物の、石勒と同盟するつもりも毛頭ないという宣言に等しかった。

 そして北東部では、晋朝と足並みを揃える慕容廆ぼようかいが平州を統一したばかりである。

 西や南に気を取られれば、北の両勢力から背後を刺されかねない。


 そこで石勒は、戦力としては頼りないものの、あくまで自分を頼ってきた段部の段末波に幽州の統治を任せ、北側に対する事実上の緩衝地帯としたのである。

 しかしそんな段末波が、部族内の内紛を未だに解決できずに、本拠として与えた幽州を空け、東の海岸沿いで戦いを繰り広げている状況は、石勒にとって頭が痛い話であった。

 こうして石勒は、華北で最大勢力と目されていながら、四方に敵を抱えて身動きが取れない状況に陥っていたのである。




 そうした冀州の石勒を取り囲む状況は、まさに幽州から冀州にかけて旅をしようとする小恬にとっても頭の痛い話だ。


「こんな状況だと、確かに冀州の内側を行った方がマシかもね……」


 ほとんど結論が出た状態であっても、やはり危険な事には違いない。その事が小恬の心を重くしていた。

 ふと暁鹿の後ろでいなないた彼女の愛馬である黒鹿毛くろかげに目が向いた小恬。


「そういえば、その子の名前は何ていうの?」


 小恬にそう言われて、暁鹿は目を丸くした。その反応から、特に名前を付けていないのであろう事を小恬も察した。

 愛馬に振り返った暁鹿は、真面目な顔で話しかける。


「お前、名前は何ていうんだ?」


 そんな主人の言葉に、黒鹿毛はまるで答えるように嘶いた。暁鹿はやはり真面目な顔のまま小恬に向き直る。


飛妃胤ひひいんだそうだ」

「無理があると思う」


 苦笑しながらそう呟いた小恬はしばし考えた後に自信ありげな笑みを浮かべて言う。


飄驪ひょうり……、なんてどう? 風のように駆け抜ける、黒く美しい駿馬って意味」


 反応の薄い暁鹿を尻目に、黒鹿毛の方は一層高く嘶いた。


「ほらほら、嬉しそうじゃない?」

「飛妃胤じゃダメなのか……?」


 結局は小恬に押し切られる形で、黒鹿毛の名は決まった。

 こうして新たに飄驪の名を与えられた黒鹿毛に跨った二人は、幽州を離れて南西方面に向かう。冀州を支配する石勒の本拠地へ。





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楽園を探して ~五胡乱華放浪記~ 水城洋臣 @yankun1984

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