第十集 二人一騎 [燕篇・終]
三部族連合による包囲を見事に打ち破った
特に最後の勝利を決めた
特に自身の兄と喧嘩別れしてしまった過去を持つ
これを決して忘れず、お前たちは父の轍を踏むなと涙ながらに言い聞かせると、慕容翰と慕容皝は揃って笑みを浮かべて父に礼をした。
「大活躍だったみたいじゃん」
「私はこれしか能がないからな……。お前と違って口も上手くないし、まともに読み書きもできん」
「でも漢語は上手いと思うけど……。五族混血って言ってたけど、やっぱり全部喋れるわけ?」
「そうだな、
「それって充分凄いと思うけど……」
そんな戦勝に浮かれる棘城に、
「大変な目に遭われたと聞きましたが、危機を乗り越えたようで何よりです。刺史から戦勝の祝賀をお持ちいたしました」
まさか自分たちが黒幕であるとは思うまいとばかり、祝いの言葉を述べる崔燾であったが、既に証拠を掴んでいる慕容廆らとしては、崔燾の厚顔な態度が逆に滑稽に思えていた。
慕容廆が笑みを浮かべながら答える。
「お心遣い痛み入る。ところで、
まるで試すかのように笑顔を崩さぬまま訊いた慕容廆に対し、崔燾は一瞬表情を曇らせた後に、笑みを浮かべて拱手する。
「お言葉ですが、それは恐らく我らの仲を裂こうとする高句麗の下劣な策でしょう」
「そうか、我が息子が段部との使者に立ったのだが、段部もまた似たような事を申していたそうな……」
そう慕容廆に話を振られた慕容皝も、笑みを崩さぬままに答える。
「そうですな。崔毖か
「そ、それもまた我らを裂こうとしただけでありましょう。
未だに離間策だと言って折れない崔燾の様子に、慕容廆は笑みを崩さぬまま部屋の端に控えていた小恬へと視線を送った。
「
その言葉に、青い顔で振り返った崔燾。その視線の先には、着ている服は違えど、先日に
「
「えぇ、崔刺史ご本人の口から聞きました。汚らわしい
夷狄に味方をする
しかし大勢の前で見せたその態度が、もはや決定的となってしまったのである。
慕容廆はやはり笑みを浮かべたまま、しかしその瞳は鋭く、静かに低い声で言い放つ。
「刺史に伝えよ……。降るが上策。逃げるは下策……」
もはや何も言い返す事が出来なくなった崔燾は、そのまま逃げるように襄平へと戻っていった。
甥からの報告を聞いた崔毖は恐れおののき、それから間もなく戦わずして襄平を捨てて逃げると、高句麗へと亡命する事となる。
こうして実質的に平州を手に入れた慕容廆は、この翌年には裴嶷の仲介で晋朝から正式に平州刺史の後任として任命される事となり、
後年に息子の慕容皝の代で
一方で、高句麗へと亡命した崔毖は、漢地へと戻る事なく失意の内に高句麗で生涯を終えた。しかし高句麗はそんな崔毖を厚遇し、彼を通して高句麗の漢化が始まったのである。
散々に夷狄を蔑んでいた崔毖が、後の朝鮮半島における漢風文化の始祖となったのは歴史の皮肉であろう。
逃げ帰っていった崔燾の青ざめた顔と、崔毖の今後を考えると、多少なりとも罪悪感を覚えた小恬は、ひとり内城から庭に出ると夜空を見上げた。
自分は本当にこれでよかったのであろうか。夷狄に加担し漢人の役人を追い出した事は、曲がりなりにも漢人貴族としての振舞いとは言えない。
しかし、故郷である幽州における
結局、人の行動をどう評価するかなど、それを見る者の価値観によっていくらでも変わってしまうものだ。
「いかがした?」
そんな背後からの声に振り返った小恬の視線の先には、慕容部の次期首長である慕容皝の姿があった。
今度の戦いでも大いに活躍した才気溢れる青年に二人きりで声をかけられた事に、思わず赤面してしまう小恬。
「あ、いえ……、少し疲れてしまって……」
「此度の戦い、そなたの働きが無ければ、あの最後の詰めには至らなかった。改めて礼を言う」
「いえ……、大した事はしていません」
「誰もが目を見張る才を持ちながら、それを驕らぬか……」
慕容皝に優しげに微笑みかけられた小恬は、思わず目を逸らしてしまったのだが、その直後、背後からいきなり抱きしめられた。突然の出来事に困惑している小恬をよそに、慕容皝はそのまま抱き上げる形となる。
両腕ごと抱き上げられた小柄な小恬は、足が宙に浮いている状態となり、実質的に両手両足が封じられた状態である。
「そなたの才に惚れ込んだ……。私の子を産んでみる気はないか……?」
肩越しに顔を近づけ、耳元で静かにそう囁いた慕容皝。もはや状況に頭がついていかない小恬は、真っ白になった頭で、何も言葉を発する事も出来ぬまま、ただ鼓動だけが早鐘のように打っていた。
その体勢のまま、長い時間が過ぎた。或いは短かったのかもしれないが、小恬の主観では非常に長い時が流れていた。
その後、剣を振り抜く音と、静かで落ち着いた鮮卑語が聞こえる。その声は暁鹿のものであった。
そして間もなく、小恬を抱えていた慕容皝の腕から力が抜かれ、そのまま脱力するように床に座り込んでしまう小恬。
ゆっくりと振り返れば、そこには宝剣「
「すまない。戯れだ……」
特に悪びれる事もなく笑顔でそう言った慕容皝は、そのまま内城へと戻っていき、それを見送った暁鹿もゆっくりと剣を収めた。
戯れだと言った慕容皝ではあるが、背後から抱きかかえられた時に背中に押し当てられた固い物が何を意味するのかは、流石に経験がない小恬であっても知っている。
だが先日に暁鹿とも話した事であるが、胡族の恋愛観には漢人のような貞操観念がほとんどない。その意味では実際に戯れであったのかもしれない。
暁鹿の方はと言えば、まさにその点を指摘して、相手は漢人の娘だぞと釘を刺したのである。
「や、やっぱり、胡族の人って、あんなに気楽に誘って来るものなのね……」
「いや、あの人の場合は、特にだ……」
慕容皝は文武ともに優れ、また君主としての器もあり、漢人の書物を積極的に学ぶ勤勉な青年である。
先の戦いでの活躍を見ても、兄弟で信じあい連携した結果に得た絆の勝利は、短い付き合いの小恬をも感動させるものであった。
しかも長身の美青年だ。
そんな中で、見方によっては唯一の欠点と言えるのが、女癖の悪さである。
しかし現在は、その日の命すらも知れぬ乱世。
順調にいけば公爵や王になるかもしれない彼の寵愛を受ける事は、例えそれが側室や妾の立場であろうとも、生活の安定どころか、生命そのものの庇護にすらなるのである。
しかも長身の美青年だ。
胡人の娘ならもちろんの事、漢人であっても平民の娘なら、彼に求められて断る者は、ほとんどいないであろう。
この後の歴史において、慕容皝の子供は史書に残っている男児だけで二十人近くに及んでおり、女児や史書に残らなかった子も含めれば恐らく数十人。或いは百人に届くほどの子を、大勢の女性に産ませている。
そうした子の中に、先日に産まれた慕容儁を始めとし、後の時代を動かす事となる
突然の出来事に先ほどまで何も考えられなかった小恬でさえ、改めて考えれば、或いは受け入れても良かったかもしれないと、多少なりとも思った程である。
とは言え、晋の都に向かうという目的がある以上、ここで身を固める決断をするまでには、やはり至らなかった。
晋の都……。
小恬はそこで当初の目的と、その為の難題を再び思い出し、改めて暁鹿に振り返る。
「ねぇ、あなたってこの後どうするの? ここに残る?」
「血縁者とは言え、所詮は遠縁の
「じゃあ、故郷に戻る?」
「実はそれも出来ないのだ。話せば長いが、追われている身でな。故郷に戻れば、やはり親族に迷惑がかかる……」
そこまで聞いた小恬は、密かに拳を握り締め、満面の笑みで暁鹿の両手を取った。
「それじゃ、私と一緒に旅を続けましょう! 南へ!」
そんな小恬の笑みに暁鹿も口元を緩め、黙って頷くのであった。
小恬と暁鹿は、それから間もなく慕容廆の所へと暇乞いに向かい、惜しまれつつも旅立ちを見送られる事となった。
そんな見送りの中、どこか浮かない顔の慕容皝が進み出てきた。先日の事が原因であろうかと思い悩んでいる様子の青年に、小恬は諭すように声をかける。
「赤ちゃん産まれたばっかりなんですから、今は段夫人を大切にしてください」
その言葉にどこか気恥ずかしそうに俯いた慕容皝は、短い謝罪の後、改めて笑顔で送り出してくれた。
こんな時代である。互いにいつ命を落とすか分からない。もし互いに長生きしたとしても、この広い中華である。どちらにしても、もう二度と会う事のない今生の別れである可能性の方が高かった。
小恬や暁鹿も、そして見送ってくれた慕容部の者たちも、それをよく分かっていた。分かっているからこそ笑顔で別れるのである。その姿を思い出とする為に。
棘城を出た二人は、再び
互いに補い合えば、乱世すらも単騎で駆け抜けられる。
そんな自信と信頼が生まれた二人の少女は、遥か彼方の楽園を探して、今日も道を行く――。
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