キャッチャー・イン・ザ・メモリー:新米探偵の初任務

春泥

見習い期間が終わり、独り立ちしてからの初仕事だった。

 もう先輩に助けてもらうことはできない。僕は緊張しながら依頼人の元を訪れた。

 それは町外れの丘の上に建つ白い家で、小ぢんまりとしているが清潔そうだった。呼び鈴を鳴らすと、ばたばたと元気な足音が背後から聞こえた。

「探偵さんが来たよ、パパ!」

 犬を連れた男の子と、その妹と思しき女の子が息せききって駆け寄って来た。僕は首を縮めて逃げ場を探した。小柄な雑種だったが、大きさに関係なく、僕は犬が苦手だ。

「やあ、すみません。約束の時間までまだ少し余裕があると思って、犬の散歩に出ていたので」

 ゼイゼイ息を切らしながら、遅れて父親がやって来た。

「おじさん、本当にその網で捕まえるの?」

 男の子は瞳を輝かせながら訊く。僕の商売道具のことだ。昆虫を採取する網のようだが、特別な仕掛けがある。

 僕は「おじさん」と呼ばれたことに少なからず動揺しながら、必死に笑顔を作った。まだ六年かそこらしか生きていない彼から見れば、二十歳の僕はおじさんだろう。

「タカシ、こんな玄関で質問攻めにしないで、なかに入っていただこう」

 父親がそう言って、僕は白い家のなかに招き入れられた。


「これは、妻が好きだった紅茶です」

 と父親は植物模様の高そうなカップを僕の目の前のローテーブルに置いた。

「私はコーヒー派なんですが、妻が戻って来た時のために」

 そう言って彼は寂しそうに笑った。子供たちはお手伝いさんが子供部屋に連れて行った。男の子はリビングを出て行く前に僕をじっと見つめ「きっとママを連れ戻してね。絶対だよ!」と言い残していった。女の子は無言だったが、やはり大きな目で僕を見つめていた。

 僕は緊張のせいで味がよくわからない紅茶をすすった。色がとてもきれいだし、いい匂いがする、と思いながら。

「奥さんの居場所について、心当たりはありますか」

 紅茶を半分ほど残して、僕はさっそく仕事にとりかかった。

「ええ」父親は目を伏せた。

「それは――はい」

「話していただけますか」

 失踪の理由は、残された者にとっても深い傷となっていることが多い。だけど、それを知るのが僕の仕事のうちなのだ。共感する心は大事だが、同情だけでは誰も救えない。

 父親は、意を決したように語り始めた。

「うちには先ほどお目にかかった二人の子供、タカシとシオリの下に、三人目の子がいました。ツトムと言います。まだ三歳でした。その子が半年前に、ショッピングセンターの駐車場で事故に遭いました。それで――」

「では、奥さんはツトム君の側にいる、と」

「恐らく、家族五人全員揃っていた過去に囚われているんじゃないかと」

 それは、帰りたくないだろう、と僕は思った。

「そういうことなら、発見するのはそう難しくないと思います。問題は、奥さんがこちらへ戻って来たがるか、ということで」

「その網で捕えるのではないのですか?」

 父親に指さされた捕獲網、全長百六十センチほどで、細長い柄の先に三十センチほどの輪っかがあり、そこに網がついている。見た目は昆虫採集用の網と大差ない。

「捕まえます。でも、激しく抵抗されると――」

 父親の顔が暗くなった。

「今まで、捕獲し損ねたことはあるのでしょうか」

「ご安心ください。我が社の失踪人捕獲率は、九十八パーセントです」

 僕は慌てて営業スマイルで胸を叩いて見せた。事務員を含めても総勢五名の探偵事務所だが、評判はまずまず――これは嘘偽りない真実だ。

「あなたは、その若さでキャッチャーになられたのだから、さぞかし優秀なのでしょうね」

 父親の顔に希望が戻った。

「子供がらみの失踪人は、手強いぞ。お前がクライアントの子供たちの年齢に一番近い。とにかく、情に訴えろ。必要ならば、泣き落とせ。一家の母親を家族の元に連れ戻すには、それしかない」と僕の師匠である事務所の先輩探偵に強引に背中を叩かれ、問答無用で送りこまれたのだなどと、言えるわけがなかった。

 僕はただ自信ありげに頷いて見せた。


 捜索に必要な聞き込みを済ませた僕は、二階の寝室へと案内された。

 ベッドに横たわっている女性は、痩せて口の周りに深い皺が刻まれていたが、どこかあどけなさの残る大きな瞳で虚空を見つめていた。腕からは点滴のチューブがのびている。

「ツトムの葬式を終えてしばらくしてから、ベッドからなかなか起き上がれないようになり、今ではもうずっとこんな感じです。呼びかけても反応がない。医者の話では、いずれ自発呼吸さえしなくなり、衰弱してそのまま……」

 声を詰まらせた父親は「ユキエのことをよろしくお願いします」と肩を震わせながら深々と頭を下げると部屋を出て行った。

 閉ざされたドアに向かって一礼してから、僕はベッドの女性に向き直った。捕獲網を両手で掲げ、女性の頭上で振りまわすために最適なポーズがとれるよう細かく足の開き具合、腕の高さ、網のヘッドの位置等を調節した。そして目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


 * * *


 失踪人は、それほど自由自在に自らの記憶の中を移動できるわけではない。だから、ユキエさんを見つける一番手っ取り早い方法は、子供を失った時点の一歩手前、そこで待つことだ。

 だが僕は彼女を知りたいと思う。どういう人間で、どうやって生きてきたのか。

 十分に訓練を積んだキャッチャーならば、それほど時間はかからない。超高速早送りで、彼女が生まれてからの日々を追っていく。幼稚園、小学校、中学、高校、大学、就職、結婚、一人目の出産、二人目、三人目、幸福な生活が続いていた。それを揺るがせた――いや、粉々に破壊したのが、半年前の、あの日。そこに到達すると、彼女自身も粉々になって振り出しに戻るのだろう。折り返し地点だ。そうして何度も、何度も繰り返すのだ。振り出しがどこかは、僕にはわからない。それは多分、それほど重要ではない。夫と初めて出会ったところからかもしれないし、末っ子が生まれたところからなのかも。そうして彼女は、またあの日に向かっていく。末っ子を失ったあの日に。彼女は自分の思い出のなかに自ら望んで囚われている。


 果たして「彼女」はどの時点の彼女に潜んでいるのか。それを見分けるには、やはり厳しい訓練がいる。


 僕は「彼女」が折り返し地点、即ち末っ子の亡くなる数時間手前の彼女のなかにいるのを発見した。早送りの速度を緩め、通常の時間の流れに戻す。

 彼女は、三人の子供たちを連れて大型ショッピングセンターに到着したところだった。いつもの食料品の買い出しだ。車から降り立ち、六歳の兄は、四歳の妹の手を引いている。母親は末っ子の手を引きながら、長男と長女にも目を配りつつ、駐車場から店まで皆で歩いていく途中だ。

 駐車場は危ないから気をつけるように彼女は子供達に言い聞かせる。はーいと聞き分けの良い返事が返って来るが、この年齢では母親の言葉など瞬時に忘れてしまうものだ。

 僕は一歩前に踏み出し、自分の姿が彼女に見えるようにした。彼女は僕が握りしめている捕獲網に気付いて凍り付く。

「やめて、連れ戻さないで」

 彼女は目に涙を浮かべて懇願する。記憶がフリーズして、彼女以外のものは静止画像のように動きを止める。

「あなたの意思に背いて、無理に連れて行くことはできません」

 と僕は相手を安心させるために言った。本当は、無理やり捕獲することも可能だが、それは彼女に知らせる必要のない情報だ。僕は無理強いはしないと決めている。彼女を強引に過去から引き剥がしたとしても、それによって修復不可能な大きな傷が残ったり、しばらくしてまた元に戻ってしまったりすることになりかねない。それでは「捕獲」に成功したことにならない。

「だったら、ほうっておいて。お願いだから、そっとしておいて。こっちの世界には、全員揃っている」

「でも、今から約二時間後には。買い物を済ませ、みんなでアイスクリームを食べて、車に戻る。その時に――」

「わかってる。でもそうしたら、また戻れるのよ。時間が巻き戻って、みんなが幸せだった頃に戻れるの」

「そのために、あなたはこれまで何回息子さんの死を経験したのですか」

「言わないでってば!」

 彼女は絶叫した。

「大丈夫、私は耐えてみせる。それが幸せを得る代償ならばね」

「それは果たして、幸せなのでしょうか。何度も繰り返し、一番見たくないものを見ることが」

「あなたにはわからないわ」

「あなたの気持ちは、多分わからない。でも残された者の気持ちなら、わかります。僕の母も、そうだったので」

 僕の母親は、最も優秀なキャッチャーですら捕まえることができなかった。まだ子供だった僕は、母になにもしてあげられなかった。だからキャッチャーになったのだ。

「残されたお子さんたちのために、僕はあなたを捕まえて、連れて帰りたい。でもそのためには、あなたがそれに同意してくれないと、成功しないと思うんです」

 彼女は末の子の手を握ったまま、後ずさった。

「いやよ、ここから連れて行かないで」

「向うに残されたお子さんたちは、弟ばかりか、お母さんまで失うことになる」

「でも、あの子たちは生きているし、父親もいる」

「その父親――あなたの旦那さんから、あなたを連れ戻してほしいと依頼されました」

「あの人は、強いもの。事故は私のせいじゃないって言うのよ。私のせいに決まってるじゃない。私が死ねば、あの人は新しい奥さんをもらえるわ。残った子供たちを可愛がってくれる人だといいけど」

「彼は強いと、なぜわかるんです。あなたは我先に思い出のなかに逃げ込んだ。彼だってそうしたかったかもしれないのに」

「じゃあどうしろっていうのよ。私は、二度と立ち直れないと思った」

「立ち直る必要はありません」

「だって、残された子供たちの前で、泣きだしてしまうのよ」

「それでもいい、と思うはずです。何も見ていない瞳で虚空を見つめながら朽ちていく母親よりは、死んだ弟のために突然泣き出す母親の方がいいと、きっと思うはずです」

「私は、側に居ても何もしてあげられない。あの子達のためにならない……」

 彼女は泣き崩れ、静止したままのツトムを抱きしめた。

「ためになるかならないかは、子供たちに決めてもらいましょう。彼らはあなたを必要としている。その腕のなかの子、ツトム君は、あなたの思い出の中で生き続ける。あなたは、ここでずっと彼に付き添っている必要はない。向こうに戻っても、いつでも彼を思い出すことができる」

 アスファルトの上に座り込んだ彼女の腕から、幼い息子が転がり出た。時間が再び流れ始めたのだ。これは想定外の出来事だった。

 自由になった幼子は、奇声をあげながら信じられない速さで駆けだした。危機管理意識の乏しい幼児にとって、ショッピングセンターの駐車場は極めて危険な場所だ。母親が短い悲鳴を上げて追いかけようとしたが、慌てて立ち上がろうとしてスカートの裾を踏んで尻もちをついた。兄と妹は呆然と末っ子の背中をみつめている。

 僕は、一瞬遅れて走り出していた。幼児のくせに、やたら俊足だ。僕は捕獲網を高く掲げた。想定外の使用だが、考えている暇はなかった。

 駐車場内だというのに、信じ難いスピードで走り抜けようとしている車があった。男の子は恐れ知らずだ。迷わず突進していく。

 やっと立ち上がった母親が二人の子供に「ここにいて。絶対動かないで」と釘を刺してから走り出す。

「ツトム、待って!」

 彼女が叫んだ。子供は、親の呼び声なんて聞いちゃいない。

 僕は空中に身を躍らせて、捕獲網を振り下ろし、網をツトムの頭に被せた。



「ママ?」



 女の子の声は、外側からのものだった。僕は夫婦の寝室に戻り、網を構えた状態で立ちつくしていた。

「おじさん、ママを捕まえた?」

 妹が部屋に入って来たのだった。誰も部屋に入れてはいけないと父親に念を押したのだが、子供たちはもちろん、そんなことはお構いなしだ。

 僕は「失敗した」と素直に告白することができず口ごもった。

 母親を捕獲するはずの網を、どのみち死ぬはずの息子に使ってしまった。やり直しだ。父親がもう一度僕にチャンスをくれれば、の話だが。

 他人の記憶に入り込むことは、こちらの身体に多大な負担を与える。キャッチャーは皆短命だと先輩に脅されたことを思い出した。僕はベッドの柱に手をついて呼吸を整えた。汗が額から流れ落ちた。

「ママ、お兄ちゃんがしーちゃんの人形の腕をちぎったの」

 女の子はベッドの母親をゆすってそう言った。母親の大きく見開かれていた目が二三度瞬きを繰り返し、ゆっくりと女の子の方を向いた。

「いけないお兄ちゃんねえ」

 母親はかすれ声で言った。

「しーちゃんの大事なお人形に乱暴しないようにお兄ちゃんに言わなきゃね。その子は、ぽむぽむちゃんだったかしら?」

「この子の名前はリンガリンガだよ。ママが寝ている間におうちに来た子なの」

 女の子はにっこりとほほ笑んだ。


 任務に失敗し奥さんを捕獲し損ねたこと、奥さんがこちらに戻って来たのは奥さん自身の意思または偶然のタイミングだったことをいくら説明しても父親は僕に約束の報酬を支払うと言って譲らなかった。

「妻から聞きました」と彼は言う。

「あなたは、あの子が、ツトムが車の前に飛び出すのを防ぐために網を使った。どのみち二時間後に死ぬはずの息子を、あなたは必死で守ろうとしたと」

 その奥さんはお手伝いさんに見守られ、医者の到着を待っている。一時的に赤ちゃん返りしてしまったお兄ちゃんがお母さんの布団のなかに潜り込んで抱きついて離れないので、妹もそれに倣ってお母さんに添い寝をしてるため、見送りには出て来られない。

 父親は僕に深々と頭を下げると、ものすごい力で僕の手のなかに報酬の入った封筒をねじ込んで握らせた。そして、白い清潔そうなドアのなかに消えた。

 僕は閉じられたドアに深々と頭を下げて、丘の上の家をあとにした。裏の方で犬が吠えているのが聞こえた。


(了)



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