秋晴れ

松麗

第1話



 ────薄暗い部屋の中、時計の音だけが規則的に響いている。もう何時間、彼女は天井を睨んでいただろう。ベッドの上、呼吸だけが静かに繰り返されていた。

 ふと、閉鎖的な空間に外の音が混じる。鳥の声だ。彼女は視線を横に逸らした。カーテンの向こうは既に白んできている。

「……」

 一つ息を吐くと、ゆっくりと上半身を起こしてベッドから抜け出した。おもむろに壁に掛けてあった制服を手に取る。少し迷うような素振りを見せた後、彼女は着替え始めた。

 シャツに腕を通し、ボタンを閉め、スカートを腰まで引き上げる。靴下にスルリと足を通すと、リボンを手に鏡の前に立った。

 紐状のリボンを慣れた手付きで首元に結んでゆく。二、三度やり直し、直しようがないほど綺麗な形にリボンを仕上げると、最後にブレザーを羽織った。

 彼女はじっと鏡の中の自分を見つめている。その目は湖面に浮かぶ月のように、薄闇の中でただ静かに揺らめいていた。

「……あら?こんな時間に起きてくるなんて珍しいじゃない」

 階段を降りリビングに向かった彼女は、テレビの前のソファでくつろいでいる母親と目が合った。振り返ったその顔はまだどこか無防備で、目尻にはうっすらと涙が溜まっている。

 テレビからはニュースキャスターの挨拶が微かに漏れていた。朗々と今日のニュースを伝えている。

「朝ご飯、ご飯とパンどっちがいい?」

「んー、パンにしようかな」

「わかったわ。もう少しあとで食べるでしょ?」

「うん。ありがとう」

 母親が静かにコーヒーを啜った。彼女はそっとソファの隣に腰を下ろす。しばらく二人は無言だった。聞こえるのはテレビから漏れるニュースキャスターの声と、遠くを走り去ったバイクの音。そして少し騒がしくなった鳥の声だけ。

 朝の白い光に包まれたソファの上で、二人は何を話すこともなくただテレビを見つめていた。どれくらいの間、そうしていたのか。母親がふいに、「懐かしいわね」とクスッと笑みをこぼした。

 いつの間にかニュース番組は終わって、児童向けのアニメのOPが始まっていた。母親が昔を思い出すように目を細める。

「覚えてる?このアニメ。あなた小さい頃大好きだったのよ」

「……覚えてるよ。まだやってたんだね」

「幼稚園の頃かしら。送迎バスの時間とこのアニメの放送が被った時があってねぇ。最後まで観せてあげられなくて。録画してあるからって言っても聞かないのよ。今観たい、今観れないなら幼稚園行かない!って、あの頃はよくごねられたわ。懐かしいわねぇ……」

 OPが終わって、本編が始まる。パステルカラーの世界観が特徴的なアニメだった。可愛らしいキャラクター達が画面の中で伸び伸びと動いている。二人はしばらく、黙ってそれを見つめていた。

 不思議な程ゆっくりと時間が流れていた。窓の外では誰かが犬の散歩をしているらしく、ヘッヘッヘという犬の荒い息遣いがゆっくりと近付き、離れていった。再び外に人の気配は無くなった。まるで世界には彼女と母親だけしかいなくなってしまったような、静寂と穏やかな空間が広がっていた。 

 彼女は一度、何かを言いかけて口を開いた。きゅっとスカートの端を握りしめる。しかし言葉が声となって出てくることはなかった。そっと顎を引いて口をつぐむ。隣にいる母親は気づいていない。

「あれから、もう十年近くも経ったのね。あんなに小さかった子がこんなに大きくなるなんて、あの頃は想像も出来なかったわ。月日が経つのは早いものねぇ……」

 母親は相変わらず懐かしそうに目を細めている。隣にいる彼女の表情は見えていない。窓の外が少しずつ賑やかになってきた。遠くから楽しげな小学生たちの笑い声が聞こえてくる。カタカタとランドセルを揺らして走る音。一層騒がしくなった鳥の声。

 アニメは終わり、再び朝のニュース番組が始まった。指し棒を持った気象予報士が今日の天気を伝えている。『今日は朝から見事な秋晴れとなるでしょう。数日続いていた季節外れの暑さが落ち着き、ようやく過ごしやすい一日となりそうです────』。

「……私、そろそろ行くね」

「あら、もう行くの?朝ごはんは?」

「やっぱり今日はいいや。ごめんね」

「そう……」

 彼女がソファから立ち上がった。スクールバッグを肩にかけ、玄関へと向かう。その後ろを母親がどこか心配そうに着いていった。靴を履こうとしゃがんだ小さな背中を、なんとも言えない表情で見つめる。そしてふと、母親が彼女の名前を呼んだ。

 ぴた、と彼女の動きが止まる。母親は言葉を選ぶように少し間を置いた後、あたたかな声色で彼女に言った。

「今日は学校、休んだらどうかしら」

 彼女の表情が確かに変わった。一瞬、泣きそうに顔を歪めた、ように見えた。細い髪がサラリと揺れた。背中越しの母親には彼女の表情は見えていない。

「お母さんもね、今日はパート休もうと思うの。そしたら、久しぶりに二人でゆっくり過ごせるでしょ?たまにはこんな日があってもいいと思うのよ。映画を見たり、本を読んだり、今日はお家で好きなことして過ごす日にしたらどうかと思って」

「……」

 彼女は返事をしない。ただ目を瞑って母親の声に耳を傾けていた。

「……学校ってね、もっと気軽に休んでいいのよ。あなたが望むならしばらく休んだっていいし、他にも色々選択肢はあるわ。……あなたの好きにしていいのよ」

 彼女はゆっくりと目を開けた。立ち上がり、振り返る。そこにはもう、一瞬その顔をよぎったか弱い少女の面影はなかった。嵐が過ぎ去った後の空のような、清々しい穏やかな表情で母親に微笑む。

「ありがとう。でもやっぱり今日は行くよ。だからお母さんもパート休まないでね」

「……わかったわ。でも、どうして?」

「今日は気持ちいい空だから」

 扉を開けると、澄んだ水色の空がどこまでも高く広がっていた。み空色。明るく澄んだ秋の空。日差しはそこまで強くはないのに、彼女は眩しくて思わず目を細めた。振り返れば、扉から身を乗り出した母親も同じく目を細めていた。顔を見合わせ、笑い合う。

「……ねぇ。今日はパート何時に終わる?」

「え?そうねぇ。今日は夕方までだから、あなたが帰る頃には家にいるわ」

「そっか。……学校から帰ったら、今日あったことを話してもいいかな」

 母親がはっとしたように彼女の顔を見た。彼女は少し照れくさそうに目を逸らしている。母親は何かを堪えるように唇を引き結んだ後、目頭に滲んだ涙をごまかすように笑って彼女に頷いた。

「もちろん。もちろんよ」

「……ありがと。じゃあ、いってくるね」

「ええ。気をつけていってらっしゃい」

 彼女は笑顔で母親に手を振ると、外に向かって一歩足を踏み出した。ひんやりとした朝の空気が彼女の頬を撫でた。もう一度足を止め、空を見上げる。目を閉じ、深く息を吸う。清々しい空気を目一杯吸い込むと、彼女は歩き出した。もう一日は始まっている。



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