空席の意嚮(いこう)

空席の意嚮いこう


★★★


授業は間も無く始まった。新しいクラスメイトに新しい制服。特に女子の制服は可愛らしいとこの界隈では評判になっていて、これが着たくて受験したと言う女子も少なくない。但し、偏差値はそれなりに高いのかなりに勉強に力を注いでいないと入学は難しい。だがしかし、そのハードルの高さすら乗り越えられてしまうほど少女たちはこの制服に魅力を感じるのだ。


穂唖絽は放課後、探偵倶楽部の部室に入り浸り小説を書きまくる。幸いな事に懸念されていた事件は発生する事無く、ここ暫く平和な日々が続いていた。この状況に対して藍澤は彼女について貧乏神だと批評したが穂唖絽は自分にそんな属性は無いと一言で切り返す。口喧嘩で女性に勝利する難しさを藍澤は初めて実感した。


部室のソファーに腰掛け、猫背気味の姿勢で一心不乱にタブレットパソコンのキーボードを打ち込む穂唖絽の姿を見た藍澤は、木欒子が何故この子の入部を受け入れたのだろうかと考える。木欒子は穂唖絽に何か感じるものが有ったのだろうか。「究極の普通」と呼ばれる髪型の少女が特別な才能を持っている様に感じたのだろうか。タブレット端末と戯れ、幼さが残る穂唖絽の姿を見て藍澤は漠然と思う、感じるところなど何も無いと。


★★★


新学期が始まってから経過した時間で、クラスメイトたちはそれぞれにグループを形成し始めていた。そのグループ群は個性に溢れ、今時の子供でも大人でもない中途半端な世代の様相を良く表している様に感じられた。


穂唖絽は絃とつるんでいる以外、他に親しい友達と呼べる者は居なかった。勿論、孤立している訳ではなくちゃんと雰囲気に溶け込んでいるし、話し掛けられれば笑顔で応えるし、男女問わず自分から何かを尋ねる事も良くあった。


往々にして友人関係と言うのはそんな物。ゆるくて広い人間関係と、その中で一際ひときわ強い繋がりを感じる者が若干名。穂唖絽と絃の関係はその若干名に含まれた。そして学校生活に慣れていくにつれて、緊張は解れ周りの景色も見え始める。そんな中、有るちょっとした疑問を抱いた。


「ねぇ、絃……」

「ん、どうした?」


昼休み、机を向かい合わせに並べてお弁当を突つきながら穂唖絽は遠慮がちに尋ねてみた。


「ちょっと変な事なんだけど、あれ、どう思う?」

「あれ、あれって……」


絃は穂唖絽の視線を追いかけて自分の視線もその方向に重ねてみる。しかし、絃の目には穂唖絽の疑問とする物を見つけ出す事は出来ず、不思議そうな表情を浮かべるだけだった。


「なによ、あれって」

「だから、あれ……」


穂唖絽はそれを指差してみせる。その方向に有る物を見て更に不思議そうな表情を見せた。彼女の指差す先に有るのは教室のほぼ中央にぽつんと有る空席だった。


「あの空席がどうしたのさ」

「いや、なんで教室のど真ん中に空席が有るんだろうって。普通はクラスを決める時に予め席順なんて決めておく物じゃない。教室の端っこが空いてるならまだしもど真ん中って言うのはどうも、ちょっと変だなぁって思って」


根暗な文学少女で小説家を目指す者の感性は実に不思議な視点を持つ物だと、絃は感心しながら穂唖絽の顔を見詰め、こいつは絶対変人だと言う自信に裏打ちされた実感を感じていた。


「たとえば、入学試験に合格してクラスまで決まったところで入学を辞退したとか、そう言う事じゃないの?」

「有るのかなぁ、そんな事……」

「御家庭の事情って言うのは傍から見えるより複雑な物なんじゃないの?御両親のどちらかに急に御不幸が有ったとか、経営していた会社が突然倒産したとか、急に本人が人生に目覚めちゃったとかさ」


絃の言う事は確かに正論だと穂唖絽は思ったが、それでも納得出来ない事は有る。


「でも、クラス分けの一覧表には辞退した人の名前なんか書いてないじゃない。辞退したならやっぱり席は詰めちゃうんじゃないのかなぁ、放置しちゃうって事は無いと思うんだけどなぁ」


妙に真剣に考え込む穂唖絽の姿を見ながら絃は溜息混じりにぽつりと呟く。


「あんた、昔っから考えすぎる傾向が有るのよ。しかも考え抜いた挙句、結論が出なくて泣きながら私に縋すがり付いて来て、結局私の言うとおりにしちゃうの。悪い癖だよ、小説家を目指すには向いてる性格なのかも知れないけど、実生活においてはマイナスの要素が大きすぎるわ。私はその性格、直すべきだと思う」


遠慮会釈無く意見を述べる絃を見詰めながら、お箸を銜えてじっと上目遣いに絃を見詰める穂唖絽の視線はまるで駄々を捏ねる直前の幼児が母親を見詰める視線と何ら変わりが無かった。絃が言う様に穂唖絽は少し自分の性格を見直すべきなのかも知れなかった。そして、絃が中学時代に廃部寸前の吹部を復活させられた要因は、その的確な物の見方と分析力に有ったのだ。


★★★


「庵住君、これから本格的に雨になるそうだ。今日は切り上げてもう帰りなさい」


藍澤はスマートフォンの天気予報を見ながら何時もの様に小説書きに熱中して探偵倶楽部の部室に粘る穂唖絽にそう言った。


「雨、ですか」

「ああ、結構纏まった奴が来るらしい。君の家なら降られる前に辿り着けると思うから急いだ方が良い」


藍澤にそう言われた穂唖絽は、ソファーから立ち上がると窓辺に行き、外の様子を伺った。


「結構良い天気ですよ」

「春の嵐は突然来るものだ。電車が止まったりしないうちに帰ったほうが良いと思うが」


穂唖絽は外の様子を眺めながら呟く様に返事をする。


「そう、ですねぇ……」


その返事に被る様にドアノッカーの音が部室内に響き、扉が少しだけ開いて木欒子がひょっこりと顔を出した。


「あら、庵住さん、まだ居たの?今日は天気が荒れそうよ、早く帰りなさい」


木欒子も藍澤と同じ意見だったから、穂唖絽は何時もよりかなり早いが切り上げて帰る決心がついた。


「は~い、分かりました、帰ります」


穂唖絽は書きかけの小説を保存するとタブレットの電源を落として鞄に仕舞う。


「じゃぁ、お先に失礼します」


そう言って軽く頭を下げると部室を出て玄関に向かって歩き出した。だが、暫くして穂唖絽は持っている荷物が足りないことに気が付いた。


「あ、しまった、体操服……」


そう呟くと、穂唖絽は自分の教室に向かって引き返す。運動ははっきり言って苦手だった。勿論、普段からそんな事をする習慣は無かったから体力も筋力も無く、ちょっと動くと汗まみれになる。今、穂唖絽の居る場所から教室までは結構な距離は有るが、放置して置く訳にも行かないので、はぁっと溜息を付きながら教室に向かって引き返していった。


★★★


日は西に向かって傾き始めていた。


暖かくなったとは言え、まだまだ日没迄の時間は短い。学校の廊下はほんのりとあかねいろに染まり始め、昼でも夜でも無い不思議な時間の始まりを告げていた。


教室に辿り着いた穂唖絽は木製の扉を開こうとしたのだが、硝子越しに見える少々不思議な異変に気が付いてその手を止めて教室の中を目立たない様に伺った。穂唖絽の目に映ったのは教室のほぼ中央に有る、昼間彼女が指摘した謎の空席、その前に立つ女子生徒の姿。肩甲骨辺りまである長いおかっぱの髪の毛は分かるが逆光で表情までは分からな。


だが、明らかに何か話している。もっとも呟くように話しているのでその内容までは分からない。ただ、雰囲気から察するに、誰かと会話している様に思えた。何故なら女子生徒は身振り手振りを加えて話をしているからだ。まるでそこに誰かが座っている様に、熱心に言葉をかけている。


「何、話してるんだろう」


穂唖絽はそう呟いてから音がしない様、注意しながら扉に耳を当てた。すると女子生徒の呟きが断片的にだが聞こえて来た。


「……それで……私……ったの……」


微妙に聞こえて来るその言葉から、女子生徒は明らかに誰かに話し掛けていると確信出来た。そして、その相手はおそらくあの空席の主。穂唖絽は思う、あの席はひょっとしたら空席では無いのではないかと。


「だから……で、今度は…………そう思うって……たら……」


女子生徒の声は段々熱を帯びて聞こえる部分が増えてくる。穂唖絽は耳を扉に更に押し付けて女子生徒の言葉を拾おうとした。


「さ……君は優しいからそんな事……よね」


話し掛けているのはひょっとしたら男子生徒ではないかと思った。話し相手を『君』付けで呼んでい居る様なのでそう感じられただけだがおそらく間違いは無い筈だ。穂唖絽は一旦耳を扉から離すと、再び教室の中を伺った。


日は西に傾き教室は朱に染まる。誰居ない教室で空席に向かって話す女子生徒の姿はまるで幻影の様だった。その光景を現実の物と感じられないまま見詰め続ける穂唖絽。そして、長い話が終わったのだろうか、女子生徒は空席に軽く手を振りながら扉に向かって歩き出す。穂唖絽は気づかれない様に隣の教室に身を隠し、女子生徒が立ち去るのを待った。


彼女の気配が消えたのを確認してから自分の教室の中に入り空席の前に立ち、その様子を観察してみる。


「特に、変わったところは無いか……」


そこに有るのは昼間同様、何の変哲も無い椅子と机。机の中を覗き込んで見たが、中には何も入っていない。屈み込んで椅子の裏側も見てみたがやはり何も変わったところは見つからなかった。穂唖絽はゆっくりと立ち上がると「究極の常識」をわしゃわしゃと掻き回す。結論が出ずに癇癪かんしゃくを起こし掛けている時に彼女が良くやる癖だった。


茜色あかねいろはいつの間にか消え、教室の中が急に闇に包まれる。雨雲が上空に到達したのだ。そして雨は急に土砂降りになり雨音が教室の中に響く。折角、藍澤が気を使ってくれたのだがそれは無駄に終わった。もっとも、天気予報の予測よりも遥かに早く雨が降り出したので何れにしてもずぶ濡れは決定。勿論、傘は持っていない。だから穂唖絽は暫く教室に留まる事にした。こんな激しい降り方が長く続くとは思えなかったからだ。


穂唖絽は教室の電気をつけると鞄の中からスマートフォンを取り出し、空席を何枚か角度を変えて撮影した。人間の目には見えないが、カメラのレンズを通せば何か見えると思ったからだ。だが、結果は空振り、目ぼしい物は何も写っていない。可視光線にしか反応しないCCDカメラに人の目に見えない物など写る訳が無いと改めて思い返す。


スマートフォンの画面を見ながら自分の席に不貞腐ふてくされた様にばさっと座ると机に頬杖を付いて空席をじっと見詰める。あの女子生徒は何者なのか。多分、昼間に校内をうろついて居れば出会える筈、少なくとも自分のクラスの者では無い事は分かるが何分、この学園で生活した日は浅い。他のクラスの生徒の顔や名前が分かる訳など無い。


教室の中に雨音だけが響き穂唖絽の思考は暴走を始める。そしてぼんやりとだが感じる事が有った、私は事件に巻き込まれたのだと。だが、何が事件なのかが理解出来ない。雨音は人の心を静める効果が有ると言われているが今の穂唖絽にはその効果は全くが無い。さざなみの様に揺れ始め、大嵐になるまでにそれ程時間は掛からなかった。


★★★


「昨日は酷い雨だったわね。あんたは濡れずに帰れた?私はもう、パンツまでびしょびしょになっちゃったわよ」


朝のホームルームが始まるまでの束の間、絃は昨日、自分がどんなに悲惨な目に有ったかを楽しげに穂唖絽に語って見せた。しかし穂唖絽はその話には乗って来い。膝の上に乗せた手を組み俯き加減の視線は虚ろで力が全く無い視線のまま椅子に座り込んでいるだけだった。


「なによ、どうしたのよ。又、低血圧気味で気分悪いの?だったら、一緒に保健室行くか」


絃は穂唖絽を気遣い腰を屈め、その表情を覗き込む。


「顔色は悪そうじゃないね。じゃぁ、静かにゆっくり立ち上がりなさい。貧血起こして倒れそうになったら私が支えてあげるから安心しなさい」


 

絃は穂唖絽にそう促したが彼女はは小さく首を横に振ってみせる。


「う、ん、そうじゃないんだ絃……」


穂唖絽はゆっくり視線を上げると少し充血した目を絃に向けた。絃は思った、こいつ、ひょっとして寝てないんじゃないかと。


「あのね、昨日話したよね、あそこの空席の話」


そう言って教室中央付近にある空席を指差して見せる。


「それがどうしたの」

「やっぱり、おかしいのよ。どうもあそこは空席じゃ無いみたいなの」


そう言われた絃は彼女の指先を視線で追いかけ教室のほぼ中央に向かって振り向いた。絃の目には相変わらず何の変哲も無い空席にしか見えなかった。


「昨日、見たんだ、あの空席に向かって話し掛ける女子生徒の姿……」

「は?」

「何を話してるのかは分からなかったけど、確かに誰かと会話してた。君付けで呼んでる様に聞こえたから、話し相手は多分男子生徒だと思う」


絃は両手を腰に当て、はぁっと大きく溜息をついてから、呆れ果てた声で穂唖絽に尋ねる。


「出たとでも言うのか?」

「……出る?」

「ほ~ら、こう言う奴がさ」


絃は白目を剥きながら掌の甲を穂唖絽に向け、両手をだらんと垂らしてひらひらと振ってみせた。


「いえ、そうじゃないと思う。ちゃんと教室から出て行く時に足音は聞こえたし、影も有ったし…」

「なんだ、つまらん。この学園の都市伝説に出会えたのかと思ったのに」


そこまで話したところでホームルーム開始のチャイムが鳴り教師が教室に入ってきた。あちこちでだらだらしていた生徒たちは慌てて自分の席に着く。勿論、絃も一瞬で居なくなり、穂唖絽はひとりぽつんと取り残された。


その日は全く授業に身が入らなかった。教師たちの話は右から左へと流れて行くだけで、子守唄にすらならなかった。黒板を見詰める続ける穂唖絽の視線を教師たちはどう思っただろうか。ひょっとしたら、とても熱心に授業を聴いていると錯覚を起こさせたかも知れない。


★★★


昼休み、絃との昼食を早めに切り上げて残った時間で校舎の中をうろついてみた。ひょっとしたら昨日の女子生徒に出会えるのではないかと思ったからだ。少なくとも体育会系の子には見えなかったから、グラウンドで何かしている可能性より教室で友人たちとお喋りしている可能性の方が高いと思ったからだ。


幸い、各教室は廊下側の壁が硝子窓になっているので外から教室の中を見ることが出来る。穂唖絽は出来るだけさり気無くを装いながらも慎重に周りの様子を伺った。比較的髪の毛が長い女子生徒だったので、見れれば直ぐに分かると思ったのだが、残念ながらそれと思われる女子生徒には巡り合えなかった。


「まぁ、そう上手くは行かないか……」


そう思ったところで授業開始5分前を告げる予鈴が鳴った。穂唖絽は名残惜しそうに自分の教室に引き返すと自分の席に座り、頬杖を付きながら昨日の事を反芻した。そしてちらりと例の空席を見てから、小さく溜息をついた。


★★★


「そう言う趣味の持ち主ではないのかね?」

「はあ?」


放課後、穂唖絽は部室で藍澤に昨日の事を話したらこんな答えが返って来た。昨夜はこの事を考え続けて一睡も出来ず、今は猛烈な眠気と闘っていてKO負け寸前という大ピンチなのに、良くもまぁそんなふざけた事が言えるもんだと思った瞬間、思わずグーで殴ってやろうかと思った。


「しかしまぁあ、確かに腑に落ちない事では有るね。その生徒に見覚えは無いの」

「残念ながら……」

「そうか、ならばせめて写真でも撮れないかな?」

「写真、ですか?」

「そう、多少、ピンボケでも逆光で顔が良く分からなくても構わないからその女子生徒の写真が欲しい」

「う~ん、そう言われても……」

「木欒子先生に見てもらうんだ。先生は全学年の全クラスと関わり合いが有るから、印象だけでも分かればその子が誰なのか分かるかも知れない。そろそろ、昨日と同じ時間、ひょっとしたら、また、教室に居るかも知れないね」


穂唖絽はソファーに座ったまま藍澤の顔をじっと見詰めた。


「藍澤部長は一緒に来てくれないんですか?」

「僕が行ったところで何の役にも立たないじゃないか、行っても無駄。だから一緒には行かない」


穂唖絽は思う、やっぱりこいつは冷たい奴だと。一年多くこの学園に居るんだから、ひょっとしたら見た事有るかも知れないじゃないか。そう言おうと思ったのだが、屁理屈へりくつ難癖なんくせが得意な口だけ男の藍澤に対して何か意見を言ったところで考えを変えてくれるとは思えなかったので、穂唖絽は再び一人、自分の教室に行ってみる事にした。その道すがら強く思う、出来れば今日は居ないで欲しいと。


★★★


穂唖絽の願いは見事に打ち破られて、昨日同様、女子生徒は空席に向かって話しかけ続けていた。穂唖絽は教室の扉にそっと耳を押し当て、何を話しているのか探ろうとしてみたがやはり彼女の話は良く聞き取ることが出来なかった。


聞こえないものはしょうがないから取り敢えず注意深く扉の硝子窓から教室の中の様子を伺った。差し込む西日は穂唖絽に対して逆光となり、やはり表情を読み取ることは出来なかったが、写真を撮ってタブレットパソコンに入っているお絵かきソフトでコントラストや色を補正してやれば表情の輪郭位は分かりそうな気がした。


ただ、厄介な問題が有る。スマートフォン等に搭載されているカメラはマナーモードにしておいてもシャッターを切るとシャッター音だけは出る様になっている。しかもこれが結構な音量が出るから写真を撮られた事に気が付かれはしないかと言う問題だ。

 何しろ空席に向かって延々と話し掛ける、ある意味得体の知れない人物だから、気付かれた時の反応が予測出来ない。出来れば穏便に済ませたいところだが、もし彼女の逆鱗げきりんに触れたりしたら穂唖絽は対処出来無いと感じた。取っ組み合いの喧嘩はした事が無いが、腕立て伏せの自己最高記録が3回という有様では力で来られたら勝てる訳が無い。しかし、写真を木欒子先生に見て貰わないと話が先に進みそうにない。


穂唖絽は妙な緊張感に苛まれ、背中を冷たい汗が伝って行くのがはっきり分かった。ちょっと手が震えている様にも感じたが、手振れ補正は子の程度の震えなら補正してくれるだろう。


意を決した穂唖絽はスマートフォンのカメラのレンズを彼女に向け、ごくりと唾を飲み込んだ後、目をつぶったままシャッターボタンを押す。同時に鳴り響くド派手なシャッター音。それは廊下を伝わり、二人の耳にも届いてしまった。


「誰、誰か居るの?」


女子生徒はそう怒鳴ってから教室の扉に向かって歩き出す。やはり盗撮された事は癇に障ったらしく、彼女のかなり激しい怒鳴り声に穂唖絽の頭の中は真っ白になり、同時にまるで金縛りにでも有った様に身動き出来なくなる。


「馬鹿、何やってるんだ、こっちへ来い」


そう耳元で囁かれた瞬間、穂唖絽の手は誰かに強く手を引かれ、その反動に合わせて無意識に走り出す。そして、女子生徒が扉を開き、外の様子を伺う為に外に出来る前に別棟に繋がる廊下を曲がり、女子生徒の視界から辛うじて逃れる事が出来た。


突然全力で走り出し、突然止まった物だから息は上がり心臓は飛び出してその辺を跳ね回るんじゃないかと思う位激しく脈打っていた。穂唖絽は壁もたれ掛かって胸に手を当て、収まらない激しい呼吸に耐えながら、自分の横に立って居る自分の手を引いてくれたと思われる人物に目をやった。


「部長……」

「いいか、抵抗出来ないと感じたら何はともあれ全力で逃げる。自分の体力に自身が無いなら何も考える必要は無い、どんなに無様でも良いから逃げる事。分かったかい」

「は、はい……」


そう言ってから微笑んで見せる藍澤の顔を見ながら、さっき屁理屈と難癖が得意な口だけ男と罵倒した事を少しだけ後悔した。

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